#13 無重力マッサージチェアの陥落〜忠誠心は揉みほぐされました〜
「……っ、ふざけるな!」
綺麗に清掃された地下通路の絨毯の上でうずくまっていたオリビア・ヴァルハイトは、ふらつく足に力を込めてどうにか立ち上がった。
先ほど、目の前の青年――アレンによって腰に貼られた『医療用温熱パッチ』の効果は劇的だった。爆発するかのように痛んだ腰の激痛は急速に引いていき、呼吸をするのも辛かった肩の強張りも嘘のように和らいでいる。
だが、その急激な回復こそが、彼女の警戒心をより一層跳ね上げさせていた。
(一瞬にしてこれほどの回復をもたらすなど、高位の神聖魔法……いや、私の思考を鈍らせるための新種の精神汚染呪術に違いない! ここで隙を見せれば、骨の髄までこの男の意のままに操られることになる……!)
王国の闇を一身に背負い、陰謀渦巻く王都で生き抜いてきた彼女の心には、他者の善意を素直に受け取る機能などとうの昔に失われている。
彼女は床に落ちていた愛剣を拾い上げ、再び油断なく切っ先をアレンに向けた。
「誰が貴様らの罠などにかかるものか! 『温泉』だと? 私を湯に浸からせて武装を解き、丸腰になったところを嬲り殺しにする腹だろう! そもそも、こんな貧困村の地下にこれほどの施設があること自体が異常なのだ! このオリビア・ヴァルハイトの目は誤魔化されんぞ!」
「いや、罠とかじゃなくて……本当にただの温泉なんだけどな」
「黙れ! 私に指一本でも触れてみろ、この剣が貴様の心臓を貫くと思え!」
肩で息をしながら吠えるオリビア。
しかし、その威勢の良さとは裏腹に、剣の切っ先は微かに震えていた。一時的に痛みが引いたとはいえ、彼女の肉体に蓄積された疲労は限界をとうに超えているのだ。
ここ数年、彼女の生活は「地獄」という言葉すら生ぬるいものだった。
無能で傲慢な悪逆王から毎日降ってくる理不尽な命令、貴族たちの汚職の尻拭い、終わりの見えない書類の山。それに加えて、近衛騎士団長としての魔物討伐や治安維持の任務。
平均睡眠時間は一日わずか二時間。しかも、いつ暗殺者に襲撃されても対応できるようにと、重さ数十キロにも及ぶ鋼のフルプレートアーマーを脱ぐことすら許されず、硬い執務室の椅子で仮眠をとる日々。
食事といえば、移動中の馬上で齧る硬い干し肉と水のみである。
そんな異常なブラック労働を何年も続けていれば、いかに王国最強の剣士といえども身体が悲鳴を上げるのは当然だった。目の下には真っ黒なクマが刻まれ、肌は土気色に淀んでいる。
「んー、困ったな」
アレンは首を傾げた。
目の前の女騎士は、まるで捨てられた子猫のように必死に威隠しているが、どう見ても今すぐ布団に叩き込むべき重病人である。ここで武力でねじ伏せるのは簡単だが、アレンにその気は毛頭ない。彼の目的はあくまで平穏で快適なスローライフであり、自宅の玄関先(と本人は思っている)で血生臭い争いなどしたくないのだ。
「リリア、クロエ。ちょっと手伝ってくれる?」
「どうしたの? わぁ、ずいぶんと物騒なお客さんだね」
「あらあら、また王都から面倒なのが来ましたね。……って、うわぁ」
アレンの呼びかけに応じ、背後に控えていた二人の少女――村娘のリリアと、元・財務官僚のクロエが歩み出てきた。
風呂上がりの彼女たちは、のんびりとした部屋着姿でジュースを飲んでおり、緊張感の欠片もない。
「なっ……来るな! 斬るぞ!」
オリビアは迎撃の構えをとった。
しかし、クロエはオリビアの剣幕など意に介さず、彼女が身につけている重厚な甲冑をジロジロと観察して深い溜息をついた。
「あーあ、可哀想に。あのフルプレート、王国の近衛専用『試作型・常時防衛用特G級装甲』じゃないですか。私が財務官僚だった頃、『重すぎるし、一人で着脱できない欠陥品だから予算の無駄』って稟議を突き返したはずなのに。あの悪逆王、私が追放された後に勝手に予算通して採用したんですね」
「そ、それがどうした! これは王から賜った誇り高き――」
「誇り高きブラック労働の象徴ですよ。そんなの着たまま寝起きさせられるなんて、狂気の沙汰です。リリアさん、ちょっと彼女を押さえてもらえますか?」
「お安い御用だよ! ほら、大人しくしてね!」
「え?」
オリビアが反応する間もなく、村娘のリリアがスッと懐に潜り込んできた。
剣を振るう暇もない。リリアは普段から全自動ゴーレムが導入される前の過酷な農作業や、獲物の解体で培った「無駄のない体重移動」と「腕力」を活かし、オリビアの腕をガシッと押さえ込んだ。
「ひっ!? な、なんだこの村娘は!? 尋常ではない膂力……っ!」
「暴れる猪を押さえるのに比べたら、全然軽いよ!」
リリアに両腕をロックされ、身動きが取れなくなったオリビア。
そこにクロエが歩み寄り、甲冑の隙間に躊躇なく手を突っ込んだ。
「な、なにをするっ!? 触るな!」
「はいはい、じっとしててくださいね。この鎧、見た目は複雑ですけど、調達仕様書の構造図は私の頭の中に全部入ってるんです。ここの腰のバックルは安物の規格品だから、こうして斜めに捻りながら押し込めば……ほら、一発でロックが外れます」
ガシャンッ!
クロエの手際の良い操作により、オリビアが身につけていた重厚な胸当てが、いとも容易く床に落ちた。
続いて、肩当て、腕当て、すね当ての留め具も、クロエの「元財務官僚の知識(どこに安い部品が使われているか)」によって次々と解除されていく。
そこに本来の騎士が持つべき厳粛な脱装の儀式などない。ただの「欠陥品の解体作業」だった。
「ば、馬鹿な!? 王国最高峰の鍛冶師が調整したはずの複雑な留め具を、なぜ追放された元官僚がこんなにあっさりと……っ!」
「最高峰? 帳簿上はそうやって中抜きしてるだけですよ。実態は下町の工房に丸投げした粗悪品です。まったく、王国の腐敗も極まれりですね」
ものの数十秒で、オリビアは数十キロの金属鎧をすべて剥ぎ取られ、薄手のインナーシャツとズボンだけという、ひどく無防備な姿にされてしまった。
「あ……」
「はい、これで身軽になりましたね。それに、お風呂に入る前に鎧は脱ぐのがマナーですよ」
「うんうん! そのままじゃ肩も腰も凝っちゃう一方だよ!」
にっこりと微笑むリリアとクロエに両脇を抱えられ、オリビアは完全に拘束されてしまった。
(お、終わりだ……。私の誇りも、命も、ここで……っ)
絶望に目を閉じるオリビア。
しかし、アレンがとった行動は、彼女の予想の斜め上をいくものだった。
「よし、鎧も脱げたし、まずはガチガチの筋肉をほぐしてあげよう。いきなりお湯に浸かると、逆に身体がびっくりしちゃうからね」
アレンは虚空に向けて指を走らせ、システムウィンドウを呼び出した。
《『最新AI搭載・無重力マッサージチェア・極〜ラグジュアリーモデル〜』を購入。消費ポイント:50,000 pt》
《現在のカルマポイント残高:225,648,000 pt》
ドスゥゥゥン……ッ!!
突如として、地下空間の床に巨大な「黒い物体」が出現した。
それは、艶やかな漆黒の最高級合成皮革で覆われ、流線型の不気味なフォルムをした巨大な椅子だった。側面には青白いLEDの光が脈打つように点滅し、機械的な駆動音を低く響かせている。
「な、なんだそれは……!?」
オリビアは目を見開いた。
彼女の常識に照らし合わせれば、あれは間違いなく『異端審問用の拷問器具』か、あるいは『生贄の血をすする悪魔の祭壇』にしか見えなかった。
「ふふっ、ポイントで交換した特別製だよ。さあ、とりあえずそこに座って」
「い、いやだ! 放せ! 私は王国騎士だぞ! そんなおぞましい処刑器具に座るくらいなら、いっそひと思いに首を刎ねろォォッ!!」
泣き叫びながら抵抗するオリビアだったが、リリアのホールドからは逃れられない。
ズルズルと引きずられ、ついにその黒い椅子に深く押し込まれてしまった。
「や、やめろ……っ! 頼む、それだけは……!」
「はい、スイッチオン、と」
アレンが手元のリモコンのボタンを押した瞬間。
『ピッ。ユーザーの着座を確認しました。AIによる全身骨格・筋肉スキャンを開始します』
椅子の内部から、女性とも機械ともつかない無機質な声が響き渡った。
「しゃ、喋った!? 椅子の中に悪霊が封じられているのか!?」
「ただの音声ガイダンスだよ。ほら、リラックスして」
直後、椅子の背もたれから無数の不可視のセンサーが照射され、オリビアの全身をなぞるようにスキャンしていく。
『スキャン完了。対象の筋肉硬直レベル、測定不能。特に僧帽筋および脊柱起立筋が異常硬化しています。首、肩、腰に致命的なブラック労働の痕跡を検知。これより、メディカル・リカバリーモードを起動します』
『無重力姿勢へ移行します』
「は……? ぜろ、ぐらびてぃ……?」
ウィィィィン……というモーター音と共に、マッサージチェアが自動で傾き始めた。
背もたれが深く倒れ、足置きが高く持ち上がる。オリビアの身体は仰向けに近い状態となり、心臓と足の高さがほぼ同じ位置になる「無重力ポジション」へと固定された。
体重が完全に分散され、まるで宙に浮いているかのような錯覚に陥る。
(な、なんだこの魔法は!? 身体が浮いている……っ!? いかん、拘束魔法の一種か!?)
パシュッ! パシュッ!
「ひっ!?」
さらに、足先、ふくらはぎ、両腕の周囲に配置された無数のエアバッグが一斉に膨らみ、オリビアの四肢を優しく、しかし逃げ場のないほどの絶妙な圧力で包み込んで固定した。
(完全に四肢を封じられた……! もう動けない! これから一体何をされるんだ……!)
恐怖で身を固くするオリビア。
だが、その後に訪れたのは、痛みでも苦しみでもなく――。
『揉み玉、起動。遠赤外線温感ヒーター、オン』
ゴリッ。
背中から首筋にかけて、人間の親指を完璧に再現した特製シリコンの「揉み玉」が、彼女の最も凝り固まった部位に深々と沈み込んだ。
「……ぁ?」
それは、ただの力任せの圧迫ではなかった。
最新鋭のAIがオリビアの骨格と筋肉の繊維の向きを完璧に計算し、もっとも効果的な角度と力加減で、コリの「核」を的確に捉えたのだ。
さらに、揉み玉自体に内蔵された遠赤外線ヒーターが、冷え切っていた彼女の深層筋をじんわりと温めながら解きほぐしていく。
ゴォリ、ゴォリ、グゥゥゥゥ……。
(な、なんだこの感触は……!? 私の急所を、的確に……いや、違う……これ、は……!)
痛い。しかし、それ以上に圧倒的に「気持ちいい」。
いわゆる「痛気持ちいい」という未知の感覚が、オリビアの脳髄を雷のように貫いた。
「あっ……ああっ……!?」
『続いて、腰部のストレッチと骨盤の歪み矯正を開始します』
プシューッ、という排気音と共に腰回りのエアバッグが左右交互に膨らみ、彼女のガチガチに固まった骨盤を優しくひねり上げる。同時に、腰椎に沿って配置された下部の揉み玉が、疲労の溜まりきった腰のツボを容赦なくえぐり込んだ。
「ひぃっ!? や、やめ……っ! んあぁっ!」
オリビアの口から、近衛騎士団長にあるまじき甘い声が漏れた。
彼女の理性が必死に警鐘を鳴らす。
(いかん……! 私は王の剣……! 祖国の盾……! 村娘や追放官僚に捕まり、こんな正体不明の快楽に屈しては……! 私は、王のために、働かなくては……!!)
脳裏に浮かぶのは、山積みの書類。怒鳴り散らす国王。冷たい甲冑の感触。終わりのない不眠不休の任務。
それが私の使命だ。それが私の誇りだ。
だから、こんな、こんなぬるま湯のような快楽に溺れるわけにはいかないのだ!
「くっ……! 負けるものか……! 私は……私はぁ……っ!」
オリビアは必死に歯を食いしばり、抗おうとした。
しかし、最新AI搭載のマッサージチェアは、そんな彼女のささやかな抵抗など意にも介さなかった。
『疲労のピークを検知。プロフェッショナル指圧モード、リズミカル・タッピング機能、および足裏ローラーを最大出力で実行します』
タタタタタタタタタッ!!
ゴリゴリゴリゴリッ!!
背中全体を軽快に叩くリズミカルな振動と、長年の立ち仕事で石のように硬くなっていた足裏のツボを容赦なく削り取るローラーの連撃。
首、肩、背中、腰、腕、脚、足裏。
全身のありとあらゆる疲労の蓄積箇所が、寸分の狂いもない機械の手技によって、同時多発的に蹂躙されていく。
(あ、ああ……っ! 無理だ……! もう、何も考えられない……!)
王の顔が霞む。
書類の山が消え去る。
近衛騎士団長としての誇りも、国への忠誠心も、すべてが極上の揉みほぐしの中に溶けて消えていく。
残ったのは、長年のブラック激務から解放された、ただの一人の人間としての圧倒的な「安らぎ」だけだった。
「あぁぁ……そこ、そこですぅ……!」
ついに、オリビアの口から完全なる降伏の言葉が零れ落ちた。
瞳からはポロポロと大粒の涙が溢れ出し、彼女の身体からは一切の力みが抜け落ちる。
無重力状態の椅子の上で、彼女はまるで骨を抜かれたスライムのようにだらしなく脱力し、ただただ押し寄せる快楽の波に身を委ねていた。
「はぁぁ……ぁん……っ! しゅごい……もう、剣とか……どうでもいいですぅ……。王様も、書類も……全部、燃えちゃえばいいのにぃ……」
完全に堕落した発言を繰り返しながら、だらしなく口元を緩ませる王国最強の剣士。
その姿を見たアレンは、満足げにウンウンと頷いた。
「よしよし。いい感じにほぐれてきたみたいだね」
「見事に堕ちましたね。まあ、あの悪逆王の下で働くなんて、マゾヒストでもなきゃ続きませんよ。私の時も残業代ゼロでしたし」
「そうそう! この村のごはんと温泉の良さを知っちゃったら、もう絶対上には戻れないよね!」
呆れたように肩をすくめるクロエと、元気に同意するリリア。
そんな二人をよそに、アレンは傍らに小さなテーブルを用意した。
「マッサージが終わったら、次は温泉だよ。湯上がりにはフルーツ牛乳も冷やしてあるからね」
『ピーッ。マッサージ、完了しました。お疲れ様でした』
約十五分のフルコースを終え、椅子がゆっくりと元の角度に戻る。
エアバッグの拘束が解かれても、オリビアは自力で立ち上がるどころか、指一本動かす気力すら失っていた。
「……あ、あの……」
とろんとした、焦点の定まらない目でアレンを見上げるオリビア。
先ほどまでの殺気立った猛犬のような雰囲気は欠片もなく、そこにあるのは、至れり尽くせりのサービスに完全に心を奪われた、一匹の従順な駄犬の顔だった。
「……あと、五分だけ……延長、できませんか……?」
「だめだよ。もみ返しがきちゃうからね。ほら、お風呂行くよ」
「はいぃ……」
村娘と元官僚に両脇を抱えられ、ふにゃふにゃになった足で立ち上がるオリビア。
こうして、王国が誇る最強の剣士の忠誠心は、最新鋭のAIと幾つもの揉み玉によって、物理的に完全粉砕されたのである。
地下の夜は、フルーツ牛乳の甘い香りとともに、さらに深く更けていくのだった。




