待状09 -家庭教師サークルの小さな世界 12
古珞鸒は頭を低くし、手元の時間割に目を通しながら記載に漏れがないか確認していた。彼女がペンと紙を置いたとき、視線がふと机の隅の紙箱に止まった——中にはサンドイッチがひとつ残っている。顧長安は彼女の視線を追うようにちらりと見ると、確認するまでもないと言わんばかりの自然な動作でそのサンドイッチを差し出し、同時に杯に注いだお茶をその脇に添えた。受け取った古珞鸒は、サンドイッチとお茶を交互に見つめたまま一瞬呆然としていたが、やがて口を開いた。その声には、彼女が公の場で滅多に見せない穏やかさが宿っていた。
「ありがとう。あなたたち、本当に大したものね」
彼女は誰の顔も見なかったが、その場にいた誰もが理解した。「あなたたち三人とも、とても細やかだわ——そこが一番大事なことよ」
言い終えた瞬間、彼女の瞳がかすかに揺れた。何かを思い出したかのように。
隣に座っていた鄭愷苑が、その言葉に乗じるように問いかけた。
「『偽物のあなた』に気づいたから?」
冗談めかした探るような口調だったが、その瞳は真剣そのものだった。
古珞鸒は顔を上げず、ただ小さく微笑んだ。
「いずれ分かるわ」
その笑みは、彼女の顔に一閃しただけで消えた。誰もそれ以上追及しようとはしなかった。
顧長安は視線を戻し、何も言わずに午後の教材の点検を続けた。
それぞれの準備が着々と進む。およそ一時間後、古珞鸒は大きな音も立てずにペンを置き、軽く背筋を伸ばすと、皆を見回して言った。
「少し疲れたわ。ひと休みしてもいいかしら」
彼女は脇のソファを指さし、念を押すような礼儀正しさで付け加えた。「構わないわね?」
異議を唱える者などいるはずもなかった。彼女はそれ以上言葉を重ねず、ソファへと歩み寄ると、横向きに体を横たえた。蛍光灯の白光が、閉じられた彼女のまぶたの上に均一な影を落とす。限界まで気を張っていたのだろう、彼女がすぐに深い眠りに落ちたことが、何よりの証拠だった。
鄭愷苑はまだ懸命に作業を続けており、手中のペンを止める気配はない。
「私はあと少し——ああ、本当に時間がないわ」
潘穎嫆も頷いた。その顔には焦りの色が濃く滲んでおり、残された時間で準備を終えられるか頭の中で必死に計算しているようだった。
そのとき、顧長安が手元のノートを閉じた。
「私も終わりました」
彼が立ち上がり、ちらりとソファのほうへ視線を投げた。エアコンの風が古珞鸒に直接当たっていないことを確認すると、すぐに視線を戻した。
「少し外を見てきます」
陳硯之はそれを聞くや否や、勢いよく顔を上げた。
「顧兄さん、僕も行きます! 頭がすっかりフリーズしちゃって……少し歩いて、リフレッシュしてから続きをやります」
教材の山を前に長い時間を過ごしすぎたのだろう、息抜きを求める切実さが言葉に滲んでいた。顧長安は拒むことなく、ふたりは相次いで執務室を出た。ドアが背後で静かに閉まる。
陳硯知がショッピングモールに出て間もなく、ガラスのショーウィンドウに視線を走らせていると、曲がり角からこちらへ戻ってくる于奕孺の姿が目に入った。安堵したのか、彼の声は思わず半音高くなった。
「奕——!」
于奕孺の足取りは変わらなかったが、遅くなることもなかった。ここで誰かに会うことを端から知っていたかのようだ。顧長安は陳硯之の視線の先を見やり、彼女が近づくのを待って口を開いた。
「何か分かったか?」
于奕孺は一度頷き、周りに人がいないことを目で確認してから、普段より幾分早い口調で声をひそめた。
「他の場所はまるでセットみたい——中には入れないわ」
彼女はわずかに身をひるがえし、モールの奥を指し示した。
「画廊をいくつか通りかかったの。外に飾ってある絵は普通に見えたんだけど、パンフレットを取って詳細を見ようとした瞬間、周りの奴らが一斉に私を睨みつけてきたのよ」
「他の階もそう。少し長く立ち止まっているだけで、誰かが恐ろしい顔で飛んできて『何をしているんだ』って詰問してくるの。一回再現してみせましょうか?」
彼女は真剣な眼差しで周囲を見回した。
「大勢で動いたら目立ちすぎるわね。もしかしたら、ほぼ同じ人間たちが毎日このモールを巡回しているのかもしれない」
顧長安が尋ねた。
「傑さんのほうは?」
于奕孺は軽首を振った。
「傑さんに聞いてみたけど、見回りのとき、どの階にも人が立っているんですって。でも、ほとんど動かずにドアの前に突っ立って喋っているだけで、まるでその場に固定されているみたいだったわ」
于奕孺は細めた瞳に警戒を宿し、声をさらに落とした。
「何より——周囲の人間から感じる気配が、あの生徒たちとはまるで違うの」
彼女はそれ以上説明しなかったが、その声には明らかな忌避感が含まれていた。
顧長安は頷き、落ち着いた声で答えた。
「心に留めておこう」
于奕孺はそこでようやく、小さく口元を緩めた。
「それじゃ、私は戻るわね。ひとりで長居すると逆に目立つから」
彼女の背中が遠ざかると、陳硯之が感嘆を込めて呟いた。
「彼女、本当にすごいな……」
顧長安は否定も肯定もしなかった。
「あれだけのことをしながら、まだ足を止めようとしない」
一拍置いて、彼は静かに付け加えた。
「彼女が何を考えているのかは、分からないがね」
陳硯之は彼の視線を追い、于奕孺が姿を消した方向を見つめた。そこにはもう誰もいない。彼はしばらく沈黙した後、自分に言い聞かせるように呟いた。
「本人にしか分からないことなのかもしれませんね。劉張三さんたちも、自分がなぜ修行しているのか語ろうとはしなかったですし」
彼は首を少し傾げた。
「僕なんて、成り行きでここに迷い込んだようなものですから……特別な理由なんてなくて、ただ流されるままにここまで来ただけで」
モールの一角から、生徒たちの追っかけっこする足音が響き、誰もいない廊下に何度か反響しては消えていった。どこかのドアが開き、短い音を立ててすぐに閉まる。まるで次の目的地へ向かって進んでいるかのように。
ふたりはモールの中をもう少し歩いた。開講を待つ生徒たちの姿がちらほら見受けられる。ぼんやりと佇む者もいれば、こっそりスマホを眺めている者もいた。陳硯之の視線が幾人かの顔の上で止まる。昨日、自分の授業に出ていた生徒たちだと気づいたのだ。だが、その生徒たちは陳硯之に気づく様子もなく、視線を彼の体を透過させて遥か遠くの曖昧な点へと向けていた。そこには何の反応もなかった。
顧長安もそれに気づいていた。彼は足を止めなかったが、声を潜めた。
「昨日、彼女たちは私に彼女がいるかどうか尋ねてきた……だが今日は、まるで初対面であるかのように私を見ている」
彼の声に困惑はなく、胸中で抱いていた確信を確かめ直すような響きがあった。
「彼女たちは、我々のことを認識していない」
陳硯之は考えを巡らせ、思い当たったことを口にした。
「場所と関係があるんじゃないでしょうか?」
彼は少し話す速度を落とした。
「教室という空間が固定されているから、そこに入って初めて関連する記憶がロードされる……とか。ただの直感ですけど、システムには絶対にそういうメカニズムがあるはずです」
顧長安は一瞬沈黙した。
「一理あるな。今日の後半で少し注意して見てみよう」
陳硯之はさらに思いついた持論を述べた。
「ゲームに似ていますよね。ダンジョンに入って初めてデータを読み込むような。もし僕たちが外に出て確かめず、執務室や教室の中に閉じこもっていたら、こんなことには気づけなかったはずです」
顧長安はすぐには返事をしなかったが、静かに頷いた。
「だからこそ、自分の盲点には細心の注意を払わなければならない」
ふたりは長居することなく、確認すべきことを確かめ終えると、自然と引き返す足取りになった。廊下の角を曲がったところで、ちょうど反対側から歩いてくる劉張三と出くわした。手には蛍光灯の管を一本抱えており、その表情は芳しくなかった。
陳硯之が先に声をかけた。
「劉さん——どうしてこんなところに?」
劉張三は足を緩め、著しく困惑した様子で答えた。
「今日はどうもおかしいんだ。やたらと別の階の蛍光灯を交換させられる。一体どこにそんな直す場所があるってんだ?」
彼は言葉を詰まらせた。
「俺たちの担当階じゃないんだが……問題は、そこに行くとどうも妙にガランとしていてな……うまく言えんが」
陳硯之はそれを聞き、昨夜古珞鸒が口にしていた言葉を脳裏に浮かべた。彼はプレッシャーを与えないよう配慮しながら、迷わずに言った。
「あまり考えすぎないでください。奕さんも言っていましたけど、僕たちの感情はこのダンジョンの『詭』に影響を与えるそうですから。できるだけストレスを溜めないようにしましょう」
劉張三はため息をついた。反論はしなかったものの、緊張が解けた様子もなかった。
「言いたいことは分かるがな……だが、お前さんたちに比べれば俺は動けるほうだ。移動が多い分、目に入るものも多くてね」
傍らに立っていた顧長安が、静かに注意を促した。
「このダンジョンにおいて、全員に責任があります。私たちも気を配りましょう」
陳硯之は、先ほど于奕孺が見つけた異常を劉張三に伝えようとした——しかし、彼が口を開く寸前、顧長安の視線が廊下の脇にあるガラス窓に止まった。ガラスは廊下の灯りを反射し、彼ら三人の姿を映し出している。ふたりの人間と、そして……影のない、ひとつの人型を。
顧長安の心臓が跳ね上がった。あの上着、あの体型——間違いなく劉張三のものだ。だが、ガラスの中に彼の影は存在しなかった。
陳硯之はまだ喋り続けており、異変に全く気づいていない。顧長安は咄嗟に小さく咳払いをした。声こそ低かったが、会話を遮るには十分だった。陳硯之が「どうしたんですか」と言いたげに振り返ったが、顧長安はすでに言葉を被せていた。その口調は、平常時と変わらぬ淡々としたものだった。
「人が多い場所だ。時間も迫っている、先へ進もう」
彼は陳硯之を見ようとせず、視線も後ろへ送らなかったが、その言葉のスピードは普段より明らかに早く、一刻も早くこの場を終わらせようとしているかのようだった。
陳硯之が反応する間もなく、背後から声が響いた。高くはないが、まるで首筋に直接吹きつけられたかのような粘着質な声だった。
「お前……何か気づいたのか?」
音色こそ劉張三そのものだったが、イントネーションがおかしかった。人間の発声方法を真似ながら、言葉の間隔を手探りで調整しているかのような不自然さ。陳硯之の背筋に、瞬時に冷たいものが走った。首筋から寒気が肌を這い上がり、背後に『何か』が肉薄しているのを感じた。振り返る勇気は、彼にはなかった。
顧長安はわずかに身を翻し、声のトーンを変えずに言った。
「気づいた、とは?」
その動作は極めて自然だったが、彼は一歩も後退しなかった。ふたつの足を地面にしっかりと踏みつけ、崩れそうな距離感を懸命に繋ぎ止めようとしていた。
『劉張三』は答えない。ただその場に立ち尽くし、何かを探るように首を不気味に傾け始めた。
陳硯之はその隙に、顧長安が一体何に気づいたのかを確かめようと、思い切って劉張三のほうへ視線を向けた——そして、見てしまった。
劉張三の輪郭の縁が、くすんだ灰黒色に揺らめいている。それは影でも光の屈折でもなかった。何かが彼にへばりつき、肩、首筋、顎のラインに沿って緩やかに侵食しているのだ。まだ完全に覆い尽くされてはおらず、その形体を固定しきれていない薄膜のようなものが、蠢いていた。
陳硯之の指先が冷たくなっていった。彼は無理やり視線を外し、極めて自然を装った声を出した。
「もうすぐ授業の準備時間だ。責任者に見つかったら面倒なことになる」
声の震えを抑え込もうと必死だった。
「先に戻ろう」
振り返らずに歩き出した。見てはいけないものを見てしまう恐怖に怯えながらも、背中に重くのしかかる視線を感じていた。頭後部をじっと見つめる何者かの気配。隣を歩く顧長安の足取りも、いつもよりわずかに早かったが、周囲に不審がられない限界の速度を保っていた。
少し進んだところで、陳硯之は耐えかねて後ろをちらりと振り返った——劉張三は元の場所にはいなかった。彼らの背後を、急速に追いかけてきていたのだ。
足音が不自然だった。重すぎ、急すぎる。平衡感覚を失いかけた形体が無理やりに歩幅を調整し、定点からこちらへと伸縮するように迫ってくる。それはもはや『歩く』テンポではなく、獲物に『飛びかかる』予備動作に近かった。距離が、恐ろしい速度で縮まっていく。
陳硯之の胃の底から吐き気が競り上がってきた。足早になるが、走るわけにはいかない。走れば、獲物が逃げたと判断した『それ』がさらに加速するかもしれないからだ。
背中にその気配が触れようとしたその瞬間、廊下の前方から古珞鸒が姿を現した。
彼女は迷わず手を突き出し、掌を外側へ向けた——不可視の気場がその掌から拡散し、廊下の両側に沿って薄く強固な障壁となって展開された。
音もなく、光もない。しかし、空気の圧力が明確に変化した。目に見えない力が、彼らに衝突しかけていた悪意の軌道を力ずくで遮断したのだ。
『劉張三』の影は、その気場に触れた瞬間に固直した。透明な網に捕らわれたかのようにその場に縫い付けられ、前進も後退もできず、切断された信号のように停滞した。そして、引き潮のように徐々に輪郭を失い、空気の隙間へと溶け込んで消えた。後には何の痕跡も残らなかった。
陳硯之は壁に背中を預けたまま、息をすることすら忘れていた。自分の心臓が、耳の奥でドクドクと警鐘を鳴らす音がはっきりと聞こえた。
古珞鸒は手を下ろした。まるで何事もなかったかのように。だが、その呼吸は普段よりわずかに荒かった。
「戻ってから話すわ」
三人が執務室に戻ったときも、蛍光灯は変わらず安定した光を放っていた。先ほどの出来事が、まるで別次元の出来事であったかのように。
彼らの蒼白な顔色を見た鄭愷苑が、真っ先にペンを置いた。
「どうしたの?」
陳硯之はドアの脇に立ち、戸が完全に閉まったことを確認してから口を開いた。恐怖の余波がまだ抜けておらず、その声はかすかに震えていた。
「さっきの……偽物でした」
彼は深く息を吸い込んだ。
「劉さんは、偽物だったんです」
鄭愷苑の表情が一変した。口を挟まずに先を促す。
後ろに続いて入ってきた顧長安は、陳硯之よりは落ち着いていたものの、普段の余裕は影を潜めていた。
「廊下で劉張三に会ったんだ——見た目はごく普通だった」
彼は一拍置いた。
「だが、ガラスに彼の影が映っていなかった」
陳硯之が即座に言葉を補った。声は先ほどより低くなっていた。
「身体の周りに、黒っぽい灰色の気が蠢いているのが見えました」
潘穎嫆が教材を置く手が止まった。声をひそめて尋ねる。
「じゃあ……本物の劉さんはどこにいるの?」
陳硯之は首を振った。
「わかりません」
彼は視線を落とし、記憶の細部をたどった。
「最初に気づいたのは顧兄さんでした……ガラスを一瞥して、小さく咳払いをしたんです」
彼は当時の光景を思い出すように視線を上げた。
「珞鸒さんがちょうど現れてくれなかったら、あの後どうなっていたか……」
陳硯之の報告を聞き終えた鄭愷苑は、半秒ほど全身を強張らせた。言葉は発しなかったが、身体は正直だった——両腕に鳥肌が立ち、まるで目に見えない何かが皮膚の表面をなぞっていったかのようだった。彼女の声は半音低くなった。
「……あれは、普通じゃないわ」
彼女は脳内で知る限りの『詭』の知識を高速で検索したが、完全に一致するタイプは見つからなかった。
「『魅』より強いはずよ」
ずっと沈黙を守っていた宋知行が眉をひそめた。
「以前のダンジョンで遭遇したことがあるのか?」
鄭愷苑は首を横に振った。きっぱりとした動作だったが、すぐに思い直したように頷いた。その瞳には不安が揺れている。
「ないわ。でも……」
言葉を濁し、結局直接的な説明をあきらめた。
「うまく言えないけど、そう感じるの。直感だと思って——理由は説明できないわ」
ドアの傍らに立つ顧長安は、すでに平静を取り戻していた。
「構いません、私もあれがどの分類に属するのか判別できませんでした——あのようなものは初めて見ました」
その隣に立つ陳硯之は、まだ呼吸を整えきれておらず、声には微妙な震えが残っていた。
「僕もです……本当に、初めてでした」
于奕孺の視線が古珞鸒へと向けられた。核心を突く問いを投げかける。
「私たちが前に見た『魅』より強いの?」
古珞鸒は小さく頷いた。無駄のない動きだった。
「『男の傀儡』よ」
ハッとした表情を浮かべた潘穎嫆が、連想を巡らせて呟いた。
「傀儡……?」
鄭愷苑の頭脳が即座に回転を始める。
「なら、それを操る『傀儡師』がいるはずね」
古珞鸒は再び頷いた。大げさな動作ではなかったが、そこには一切の弛緩もなかった。彼女は首をわずかに傾げ、部屋にいる面々をひと通り見回した。
「今回の傀儡は、劉張三に化けることができる」
彼女は一瞬思案した。
「そしてターゲットは明らかに、詭への対処に慣れていない者たちよ」
最後に、彼女は語気を強めた。
「絶対に単独行動は避けることね」
視線が于奕孺へと転じられる。机の縁に寄りかかる彼女は、受諾と拒絶の狭間にある曖昧な笑みを浮かべ、不敵な口調で言った。
「でも、私ひとりだけのほうが動きやすいのよね」
あまりにも自然な言い草だった。同意はできないが、臨機応変に対応するということだろう。
鄭愷苑は眉をひそめ、焦りを隠しきれない様子で言った。
「一番厄介なのは劉さんと湯志傑さんよ——」
彼女はふたりを案じていた。「あのふたりは最初から単独行動なんだから」
鄭愷苑の声に熱が帯び始め、頭の中で繋がりきっていない推論を、ひとつずつ言葉にして吐き出していく。そのロジックの鎖が途切れて雲散霧消してしまうのを恐れるかのように、彼女の口は止まらなかった。
「授業は分かれて行わなきゃいけない——そこは変えようがないわ」
于奕孺がすぐに合いの手を入れる。
「でも、執務室を出る時間と授業が終わる時間は一緒でしょ」
鄭愷苑はそれが聞こえていないかのように、緊張を緩めずに続けた。
「グループで行動したとしても、集合したときにその人間が本物かどうか判断がつかないわ」
彼女は皆を見回し、自らの思考を推し進めた。
「最低でも三人一組? ……問題は、あの傀儡師が同時に何体の傀儡を操れるかよね」
彼女の視線が程晉陽と顧長安の間を往復した。
「男を傀儡に選ぶのは、ひとりでいる機会が多いから? それとも、傀儡師が男の心理に精通しているから……ううん、それとも彼が『特に劉張三を熟知している』から?」
さらに眉間にしわを寄せる。
「だって昨日、劉張三と一番長く接していたのは私たちなんだから。私たち以外の人間だとしたら……?」
鄭愷苑の繰り出す言葉の奔流を聞き終えた潘穎嫆は、一呼吸置いてから口を開いた。
「ねえ、単独行動以外に……傀儡が出現するトリガーになる条件って、何か他にないかしら?」
鄭愷苑の長い独り言と潘穎嫆の問いかけを受け、于奕孺が口を開いた。
「どっちにしろ、授業は受けなきゃいけないんでしょ?」
彼女は肩をすくめた。
「リタイアしない限りはね。あるいは——」
彼女は少し言葉を濁した。
「降参するっていう選択肢もあるけど」
その視線が室内を巡る。
「このダンジョンが存在しているのは、すでに怪異の『習性』が定着し、詭として完成しているからよ。教室の中なら、生徒たちの反抗フラグさえ立てなければ、当面は安全なはず。……もっとも」
彼女は言葉を途切らせ、視線をドアへと向けた。
「今日みたいに、痺れを切らした詭が動き出さない限りはね」
彼女は再び皆に視線を戻した。
「劉張三と湯志傑が警備とメンテナンスの担当に割り当てられたのは、むしろ幸運だったと思いなさい。あのふたりには自衛のための法門(術)がある。そこらの一般人みたいに丸腰なわけじゃないんだから」
彼女は視線を収めた。
「授業の開始時間より、少し早めに出発しましょう。私があなたたちを教室まで送るわ——何か異常があれば、私がその場で即座に対処できるから」
彼女は間を置かず、テキパキと指示を出した。
「愷苑、アパン、琪、硯之は一緒に行動して。残りのメンバーで別のグループを作る。私は状況を見るか、単独で動くわ」
相談の余地など与えないような手際だった。
「開講まであと四十分ある。誰か私と一緒に来なさい——ついでに湯志傑と劉張三の様子を見てくるわ」
于奕孺は古珞鸒に向き直った。
「結界はどれくらい持つの?」
古珞鸒の顔色がわずかに陰った。彼女はしばらく沈黙を守っていたが、先ほどよりも低い声で答えた。
「長くは持たないわ。一刻も早く解決したほうがいい」
于奕孺は追及することなく、静かに頷いた。
彼女が背を向け、ドアへ向かおうとしたその時、程晉陽と宋知行が短く、しかし確実な視線を交わした。
先に口を開いたのは程晉陽だった。
「僕たちもついて行っていいですか?」
于奕孺は頷いた。
「行きましょう」




