待状08 - ガーデンノット06
その時すでに、駱馥琪は庭園の中央へと足を進めていた。前方に現れたのは、頑強な背幅を持つ男の影だった。背をかがめ、苦しげな姿勢をとっている。長年積み重なった重圧に、じっと耐え続けているかのように。
駱馥琪はその姿が誰であるかを知っていた。そして、それが幻影に過ぎないことも。——それでも彼女は歩み寄らずにはいられなかった。自分でも説明のつかない、かすかな気遣いを声に滲ませる。「……どうしたの?」
男は顔を上げず、地面に向かって絞り出すように低く呟いた。「ちゃんと……お前に区切りをつけるべきだってことは分かっている……」呼吸の乱れを整えるように言葉を区切り、続ける。「でも、体も心もいつも不甲斐なくてさ。もう少しマシな状態だったら……いつでもお前に会いに行くのに」
駱馥琪はしばらく沈黙を守った。言葉の糸を解けば壊れてしまいそうなほど、静かで柔らかい声を落とす。「……分かってるわ」
深く追求することはせず、ただそこに佇んでいた。幻影が自然に消え去るのを静かに待つかのように。やがて彼女は背を向け、歩き出した。決して遅くはない足取りだったが、そこには言葉にできない寂寥感が漂っていた。
視線を送っていた劉張三が溢す。「彼女もまた、多くを胸に秘めているようだな」
隣に立つ湯志傑が淡々とした調子で言った。「仕方ないさ。執着の強い人間ほど、手放すのが難しいんだ」一拍置き、ずっと心の中で温めていたような言葉を付け加える。「だがな、簡単に諦めちまったら、後には何も残らない」
劉張三は自身の手元に目を落とした。そこに残る、まばらな紅い糸。しばらくの沈黙の後、深く頷いた。その首肯はごく小さなものであったが、彼自身もその理を痛いほど理解していることを物語っていた。
◇
庭園の後段へと達した頃、駱馥琪の歩みは先ほどよりもずっと緩やかになっていた。
周囲から立ち上る無数の声。家族、友人、同僚——それらの雑音が同じタイミングで重なり合い、ただ一つの方向へと彼女を押し込もうとする。繰り返し補強された意図が、「諦めろ」と何度も迫っていた。
彼女はその言葉を黙って聞き流した。何度も聴かされ飽きたかのように。反論もせず、足も止めず、その猛烈な干渉によって歩調が乱れることもなかった。
その時、二つの声が重なって耳に届いた。異なる出所、異なる声音。しかし全く同じ瞬間に重なり合い、同じ意味を紡いでいた。
『諦めたくないのなら、貫き通せばいい』
駱馥琪は足を止めた。己の耳を疑うかのように。
その声の片方は——自分自身のもの。
そしてもう片方は——古珞鸒のものだった。
程晉陽もまた、その重なりに気づいていた。彼だけでなく、宋知行も明らかに目を見張り、声のした方向へ視線を巡らせる。最も素早く反応したのは顧長安だった。彼の視線は迷うことなく古珞鸒へと向けられ、本当に彼女が口を開いたのか確かめようとしていた。
陳硯之はしばらく沈黙を守り、長考の末に言葉を呟いた。「……今の、珞鸒の声だったと思う。それと、馥琪自身の声も」
劉張三はその視線を追い、確かめるように結論づけた。「どうやら、珞鸒が彼女の背中を押したみたいだな」
湯志傑は頭を掻くだけで、何も言わなかった。
◇
駱馥琪が庭園を抜け出そうとしたその瞬間、境界線を踏み越える直前に、彼女の手元に突如として二本の紅い糸が舞い込んできた。手元を見下ろす彼女の表情には、なんとも言えない困惑が浮かんでいた。
劉張三はその糸を投じた人物を目撃していた。一本は、先ほど彼が有名人を識別できなかったことをからかってきた男から。もう一本は、四十代半ばと思われる身なりの整ったサラリーマン風の男からだった。立ち姿には無駄のない距離感が滲み出ており、目立たぬように振る舞う術を熟知しているようだった。
湯志傑もまた、そのサラリーマンからの糸を目にしていた。声を潜めて呟く。「見たところ……既婚者だな」
劉張三は彼を横目で見やり、淡々と返した。「相手もそこまで深く考えてないかもしれないだろ」
◇
駱馥琪が皆のもとへ戻ってくると、鄭愷苑と潘穎嫆の視線が、即座に彼女の手元に絡みついた。
潘穎嫆は微かに首を傾げ、断定するように言った。「あら、一本だけ極端に鮮やかね……他のは全部薄いのに」
鄭愷苑がすささず自身の推測を口にする。「絶対に心境とか意図の違いが関係してるわ!」
駱馥琪は手中にある紅い糸を見下ろし、どこか他人事のように呟いた。「最後の二本はよく分からないけれど……誰も説明してくれないしね」
まだ定かではない繋がりに自身の意識を割くつもりはないとばかりに、彼女はそれ以上何も語らなかった。
◇
この時点で、女性陣の側に残されているのは、まだ庭園に入っていない三人だけとなっていた。
そのうちの一人、ウェーブがかった髪をなびかせる年配の女性が、真っ先に足を踏み出した。年齢を重ねてはいるものの美貌を保っている彼女は、先ほどまで仲間と楽しげに喋っていたが、すでに覚悟を決めたらしく躊躇う様子はない。
庭園へと足を踏み入れる直前、彼女の視線がチラリと男性陣の側を掠めた。ほんの一瞬。しかし、明確な狙いを秘めた眼差しだった。
于奕孺玄はその視線の先を追い、面白そうに口角を上げた。「どうやら、果敢に攻めるタイプのようですね」
古珞鸒は何も答えなかったが、その静かな視線だけは、庭園の奥へと進んでいく女の背中に据えられていた。
鄭愷苑は目を細め、視線を辿ろうと試みたが、角度と距離が邪魔をして目当ての人物を特定できずにいた。「あの女、一体どの男を見てたの? こっちからじゃ判別しづらいわ」
于奕孺玄はすささず指をさした。「ターゲットの一人は、あのスーツを着た男性でしょうね。銀行員っぽい佇まいの」
駱馥琪は意外そうに首を傾げた。「そんなことまで見抜けるの?」
于奕孺玄は視線を外さぬまま、穏やかなトーンで続けた。「あの年代の女性なら、あのような男性が一番現実的です。他の若い男たちでは不釣り合いでしょう」彼女は顎に手を当て、分析を重ねる。「おそらく四十代半ば……手入れは行き届いていますが、まとう空気までは隠せませんから」
庭園の深部へと進みながらも、女の視線は進入時と同じ方向を捉え続けていた。
◇
男性陣の側では、劉張三が耐えかねて声をひそめた。「……おい傑、あいつさっきお前のこと見てなかったか?」
湯志傑は一瞬固まり、どこかぎこちない防衛本能を覗かせた。「俺は候補の一人に過ぎねえよ……まるで網を広げてるみたいだ」
劉張三が顔を向ける。「お前に気があるのかと思ったんだがな」
湯志傑(傑哥)は派手に呆れ返ってみせた。「おいおい、さっき『相手も深く考えてない』って言ったのはどこの誰だ?」
劉張三は言葉を返さず、ただ肩をすくめた。
明兄(陽哥)は高みの見物を決め込むように意地悪く笑う。「品定めしてる最中なんじゃないか?」
湯志傑は冷ややかに言い放った。「自分の器くらい分かってるさ。あの手の女が自分から寄ってくる時はな、カモを探してるだけだよ」
劉張三は反論せず、静かな沈黙を守った。
明兄も触れるべきではない領域を踏んでしまったと察したのか、慌てて口を噤んだ。
だが、陳硯之だけは疑問を抑えきれずに呟いた。「……じゃあ、みんな情詭副本(感情を試される試練)に怯えてるってことですか?」
劉張三は盛大に目を剥き、あからさまな拒絶反応を示した。「その話はよしてくれ」
◇
その時、庭園の中を進んでいたウェーブ髪の女性が足を止めた。
前方から十歳ほどの少女が駆け寄ってくる。その声には明らかな恐慌が混じっていた。「ママ、怖いよ!」
女性は即座に膝を折り、温もりを込めて少女を抱きしめた。その動作はあまりにも自然で、幾度となく繰り返してきた日常のようだった。少女は胸の中でしばらく静かにしていたが、やがて顔を上げた。「パパは? どうしてパパはいないの?」
女性は一瞬の躊躇も見せず、穏やかな声を保ったまま答えた。「パパは遠いところへ行ったのよ。もう戻ってはこないわ」
少女はそれ以上追及しなかった。その一言の中に、求める答えを見出したかのように。
庭園の光景は静寂を保っていた。衝突も、葛藤も、感情の劇的な起伏すら存在しない。
その様子を凝視していた鄭愷苑が、腑に落ちないといった風に首を傾げた。「……なんだか変ね。彼女の執着は何なの? 他の参加者はみんな、自分の執着に関係した幻影が出てきたのに……彼女のは、まるで演劇を見せられているみたい」
庭園の中では、女性が少女を抱きしめたまま動きを止めていた。手元にある紅い糸も動かない。まるで彼女自身が、この芝居の着地点を探りかねているかのように。
陳硯之は庭園の内部と男性陣の間へ視線を往復させ、慎重に口を開く。「みんな……動いてないですね」
明兄も困惑を隠せない様子で頷いた。「頭が混乱してきたぞ……まるで、急に画風が変わったみたいだ」
陳硯之は再び母娘の心温まる光景に視線を戻し、先ほどの参加者たちとの差異を照らし合わせた。「確かに、今までとは何かが違いますね」
彼は思考を整理するように言葉を紡ぐ。「苑が入った時は、林明蔚を叩きのめしたがっていた。アパン(潘穎嫆)は元カレとその女友達に直接対峙した——現実では言えなかった本音をぶつけるために。琪(駱馥琪)の場合は……妥協を強いてくる彼氏か、忘れられない元カレか。正確には分からないけれど」
明兄も同意し、自身の見解を補足する。「その三人だけじゃない。それまでに進んだ女たちも、多かれ少なかれ己の執着と向き合っていた——なのに、今のあの光景は……」彼は言葉を濁し、より適切な表現を模索した。「どうにも違和感が拭えないんだ」
◇
庭園の中で繰り広げられる「心温まる母娘の光景」は一向に終わる気配を見せない。ウェーブ髪の女性も、その態度を崩そうとはしなかった。
潘穎嫆はその姿を見つめ続けるうちに、点と点がつながり、一つの仮説へと結実していくのを感じていた。彼女は慎重に、しかし大胆な推理を口にする。
「……一つの仮説があるんだけど。あのウェーブ髪の女、古曼童か鬼仔(子鬼の使い魔)を飼ってるんじゃないかしら? 『パパ』と言っていた存在は、かつて彼女が精気を吸い取るために利用したターゲット。子供の投影と『母親』という仮面を利用して、周囲の警戒心を解こうとしているのよ」
それを聞いた于奕孺玄は小さく微笑んだが、言及には慎重さを残した。「大胆な推測ですが……否定もできませんね」
彼女は視線を古珞鸒へと滑らせた。「あなたはどう感じますか?」
古珞鸒は何も語らなかった。ただ微かに首を横に振るだけ。目を閉じたまま意識を休ませており、まだ確定には至っていないとも、議論に参加する体力が残っていないとも取れる態度だった。
于奕孺玄は細めた目を僅かに狭め、声を潜めて呟いた。「……あるいは、あなたの仮説は間違っていないのかもしれませんね」
◇
その瞬間、頭上からあの声が落ちてきた。平坦で、一切の感情を排した無機質な声。
『異常を排除します』
庭園のただ中で、少女の姿が一瞬にして消失した。まるで最初から存在しなかったかのように、空間から直接削ぎ落とされたのだ。
ウェーブ髪の女性は抱きしめる姿勢のまま固まった。腕の中は、すでに空虚に満たされている。
一拍の硬直。直後、彼女の肉体が破断された糸のように跳ね上がった。金切り声が叫びとなって突き抜ける。制御を失った感情が怒涛となって溢れ出した。
「何をするのよ!! 私が十数年も育ててきたのよ!?」
その表情は、一瞬にして豹変していた。穏やかさと母性は引き剥がされたお面のように消え去り、その下に隠されていた狂気が露わになる。温もりを帯びていた瞳は底知れぬ空虚へと変わり、口元の弧は歪んだ緊張に引きつっていた。十数年かけて積み上げられた執着に押し潰され、もはや修復不可能な段階へと至っていた。
陳硯之はその顔を目撃し、思わず息を呑んだ。「……悪鬼そのものじゃないか」
劉張三の表情も険しく歪んだ。彼は何も答えず、ただその女性に対する評価を頭の中で高速に修正していた。
隣に立つ湯志傑(傑哥)は耐えかねて吐き捨てた。「だから言ったろ、問題のある女だって! 俺を狙ってくる女は全員どこか狂ってんだよ!」
劉張三は呆れたように彼を一瞥したが、その自虐に応じる余裕すらなかった。
庭園の内部では、狂乱の縁に立たされた女性が尚もその場に留まり、隠しきれなくなった醜悪な表情を撒き散らしていた。
頭上からの声が、再び宣告を下す。一切の情を挟まず、確定された処理を実行するように。
『異常を排除します』
その瞬間、残された連れの女二人までもが血相を変えた。焦燥に駆られた手つきでポケットを漁り、進行する排除処理を止めるための「最後の手段」を取り出そうとする。
「招待状を破れ!!」一人が叫んだ。
彼女たちは手にしたカードを掴み、力任せに引き裂こうとした——しかし、紙片は微動だにせず、切れ目一つすら入らない。
『異常を排除します』無機質な声がリフレインする。
二人の顔から一瞬で血の気が引いた。唇を震わせ、何かを召喚しようと試みたが、何の応答も返ってこない。絶望的な恐慌が彼女たちの表情を侵食していく。抗う術を持たぬまま、内側から剥ぎ取られていく恐怖に支配されていた。
鄭愷苑は群衆の端に立ち、崩壊していく光景から目を逸らさずにいた。
古珞鸒はようやく息を吹き返したようにゆっくりと目を開けた。圧縮された休息から浮上してきたような、静かな眼光。彼女は何も言わず、ただ庭園内の不純物が清掃されていく様を静観していた。
于奕孺玄は潘穎嫆に視線を向け、淡々と、しかし確信を込めて告げた。「見事な推察でしたね」
三人の女性の輪郭が、次第に希薄になっていく。強制退場。副本は彼女たちが自主的に去ることを許さず、力尽くで排除しようとしていた。
◇
庭園内の異常は完全に浄化され、三人の姿は空間から掻き消えた。
沈黙を破ったのは、男性陣の陳硯之だった。「……じゃあ、ここは本当に『神明』が主宰している副本なんですか?」
劉張三は周囲を見渡し、気まずさを隠せない様子で溢した。「恐らくはな……俺もこんな副本に参加するのは初めてだ」
三人が排除されたことにより、残された女性は古珞鸒と于奕孺玄の二人だけとなった。
于奕孺玄は古珞鸒へと向き直り、平淡ながらも配慮の混じったトーンで言った。
「あなたが先に行きますか? 私は最後を任された方が都合がいいので」




