待状04 - オフィスの異常- 05(エピローグ)
後日談
鄭愷苑
「自分のレベルに合った『副本』に落としてくれればそれでいいわ……今回は認めるから」
鄭愷苑は自宅のソファに仰向けになり、天井の一点をじっと見つめていた。その声は絞った雑巾のようにすっかり乾ききっており、何の感情も残っていなかった。彼女はスマホに触ることも、音楽を流すことも、喉を潤すために立ち上がることもなく、ただ長いこと同じ姿勢で倒れ込んでいた。まるで、自らの人生の選択を一から再評価している人間のようだった。
「今の私は、完全に眼が死んだ『捨て鉢モード』よ」
ポケットを探ってみたが、手応えはなかった。あの『招待状』は、最初から存在しなかったかのように消え去っていた。しかし、それが発した温熱も、裏面に浮かび上がった『-175』という数字も、鮮明に脳裏に刻み込まれていた。
彼女が挑戦した副本はこれで三度目だった。一度目は初心者エリア、二度目は鸒姉さんについて行って『情詭』の副本を完走した。だから三度目の今回は、自分もそれなりに経験を積んだ探索者だと自負していたのだ——しかし結果は、無残にも現実へと引き戻されることとなった。
「……自分が強くなったわけじゃなかったんだわ。ただ単に、これまで運が良かっただけ」
呟いた声に哀れみはなく、自身が直視せざるを得なくなった現実を素直に認める響きがあった。彼女はソファの上で寝返りを打ち、クッションに顔を埋めると、くぐもった声で呟きを付け加えた。
「次回は……次回は絶対に状況をちゃんと見極めてから行動するんだから」
ひとしきり沈黙した後、さらにぽつりと漏らした。
「……まあ、本当は『次回』なんて二度とない方がいいんだけどね」
本心から次回がないことを望んでいるわけではなかった。ただ、そう言葉に出すことで、少しでも傷ついた心を落ち着かせる必要があったのだ。
潘穎嫆
潘穎嫆は書斎のデスクに向かい、ペンを握りしめていた。手元の紙には、わずか数文字だけが走り書きされていた。
『何が起きた?』
彼女はその言葉を長いこと凝視していたが、続きを書こうとはしなかった。答えは紙の上ではなく、未だ整理しきれない自らの思考の中にしかないと分かっていたからだ。副本の一連の出来事を振り返ると、真っ先に脳裏に浮かぶのは、あの不気味な白いリボンでも、ガラスに張り付いた市市松人形でも、ましてや宋知行の突如として変わった青い瞳でもなかった。
自身が道中で何度も繰り返した、あの問いかけだった。
——「どうしたの?」「なぜこうなるの?」
「私が一番力を出していたのは……ただ質問することだけだったわね」
自嘲する風でもなく、客観的に己の行動を総括するように呟いた。確かに彼女は多くの問いを投げかけていた。『何が起きたの?』『どうしてこんなことに?』『知行くんもなの?』——その一つ一つの問いかけは、事態を理解しようと必死だった証であると同時に、決定的瞬間において何の打開策も示せなかった無力さの証明でもあった。全力を尽くさなかったわけではない。だが、彼女の発した力は、何一つ結果を変えることはできなかったのだ。
彼女はペンを置き、椅子の背もたれに深く体を預けると、小さく息を吐き出した。
「少なくとも……次は『質問するだけ』の自分から脱却できるように、状況を見極める眼を養わなくちゃ」
彼女は紙を裏返し、今回の経験で観察した事実を一つ一つ書き出し始めた。ターゲットにされたのは誰だったのか。キリスト教徒を名乗ったあの二人の女性の矛盾した言動。そして、どの時点で環境の変化が暴走し始めたのか。
筆致は緩やかだったが、まるで散らばった糸口を元の位置へと丁寧に収めていくようだった。過ぎ去った出来事を変えることはできない。だが少なくとも、次の機会が訪れた時、今回の自分よりわずかでも多くを知る状態にはできる。決して望ましい結末ではなかったが、無駄な経験にしないための締めくくりとしては、これが今の自分にできる最善のことだと彼女は思っていた。
劉張三
劉張三はベッドの端に腰を下ろしていた。手の中にカードはもう存在しなかったが、彼の視線は未だに自らの掌に注がれていた。まるで、つい先ほどまでの経験が刻んだ痕跡を確かめるように。
思い返せば、最初から予兆は存在していた。不自然な異常の記録、あつらえられたようなグループ分け、そして終始「異常なし」と言い張り続けたあの二人の女性。当時も違和感には気づいていたが、今回の副本は規模が小さく、自分や鄭愷苑たちの経験をもってすれば事態を制圧できるだろうと高をくくっていたのだ。
「……つまり『種』というのは、そういう意味だったのか」
驚きを含まない低い呟きだった。ずっと心の中で温めていた言葉を、ようやく口に出せたような響きがあった。彼は以前にも程晋陽と宋知行に会い、二人が『標識』された存在であり、選ばれた人間であることを知っていた。だが当時の彼は、『種』とは単に彼らがより深い副本へと引きずり込まれ、より過酷な試練に直面する運命にあることを意味するのだと思っていたのだ。
まさか——『種』そのものが、局勢を一変させるための『変数』として用意されていたとは、想像すらしていなかった。
劉張三は掌から視線を外し、正面の白い壁へと向けた。
「これまでは鸒さんがいてくれたからな……油断していたよ」
言い訳をする気は毛頭なかった。もっと早くに気づくべきだったという事実を素直に受け止めていた。最初から、あの副本は一筋縄ではいかない代物だったのだ。『夢の階层を用いて環境を内側から侵蝕する』という手法も、『オフィスビル全体を悪魔の養殖場に変える』というスケールも、決して容易く遭遇できるものではない。しかし彼は自らの経験を過信し、事態を甘く見ていた。結果が示した通り、彼の経験など未だ浅すぎたのだ。
彼は深くうつむいて沈黙を守り、やがて絞り出すように呟いた。
「……二度と同じ過ちは犯さん」
それは「二度と負けない」という誓いではなく、「油断によって敗北することは二度とない」という固い決意だった。世の中には力づくで解決できない事象も存在する。だが少なくとも、自分を正しい立ち位置に置き、敵が何をしているのかを正確に見極めること——それこそが、今の彼にできる唯一の確信だった。
程晋陽
程晋陽が目を覚ました時、窓の外の空は暗い紺色から灰白色へと移ろいかけていた。
彼はすぐには起き上がらず、仰向けのまま天井のなじみ深い亀裂を見つめていた。今回ばかりは、ポケットを探ってカードの有無を確認しようとはしなかった。もう手元にないことは分かっていたからだ。
彼の思考は、あの瞬間の記憶へと遡っていた——あの自分のものではない『鮮やかな青い瞳』。身体の奥底から押し出されるように現れ、彼の知覚と行動を一時的にジャックし、そして事態が完全に理解できる前に、元の場所へと引き下がっていった異物。
眉心に手を当て、揉みほぐすように指を動かした。あの時、口にした言葉を覚えている。
——『お前たちでは倒せない。だから、俺が直接来た』
あの言葉を発したのは間違いなく自分だったが、それが「自らの意思」だったのか、それとも「自身を乗っ取った何か」の意思だったのか、判別がつかなかった。答えは出ない。ただ曖昧ながらも悟りつつあった——『種』という言葉は、単なるラベルではなく、一種の『道具』なのだと。
鸒さんが初めて副本で自分に会った時、何も説明せずに掌に刻み込んだあの傷痕が思い浮かんだ。当時は守護のための印だと思っていたが、今思えばあれには別の意図があったのかもしれない。まだ合致する鍵穴を見つけられていない鍵——それが特定の条件を満たしたことで、自動的に回されたのではないか。
程晋陽は寝返りを打ち、手を頭の後ろに回した。恐怖はなかった。胸を占めていたのは、深まる困惑だった。もし『種』の真意がそこにあるのなら、危機的状況で自分を支配したあの存在の正体を、一刻も早く解き明かさなければならない。
宋知行
宋知行が意識を取り戻した時、自分が書斎のデスクの脚に後頭部を押し当てるようにして、歪な姿勢で床に倒れていることに気づいた。
ゆっくりと身体を起こしながら、自分がなぜこんな場所に横たわっているのかを記憶の糸から手繰り寄せた。現実へと戻ってはいるものの、意識の最後の光景はあの階段室の踊り場で止まっていた。自分が「何らかの行動」を起こしているのを客観的に眺めながら、自らの意思では介入できなかった、あの不気味な瞬間で。
彼は己の掌を見つめ、裏返し、また表へと返した。あの輝く青い瞳が消え去ったことを確かめるように。意識を失う直前、身体が思い通りに動かなくなり、視界から色彩が失われていった感覚を覚えていた。まるで誰かに背中を軽く押され、そのまま制御権を奪われたかのような感覚。
彼はデスクの脚に背を預けたまま、しばらく動こうとしなかった。劉張三が語っていた言葉が脳裏をよぎる——『種』について、選ばれた人間について、そして自分たち以外の「何か」が窮地において浮上してくることについて。当時は経験者の推測に過ぎないと思っていたが、今やそれは自らの身体をもって証明された事実となった。
彼はノートを開き、一行の言葉を書き付けた。
『「種」とは単なる呼び名ではない。一本の「線」だ。一端は自分に繋がり、もう一端は未だ見ぬ何かに繋がっている』
彼はノートを閉じ、二度と開かなかった。次にあの青い瞳がいつ現れるのかは分からない。しかし、その存在を受け入れる術を学び取らなければ、そのルーツに辿り着くことなど不可能なのだと痛感していた。それが、彼に課された次なる宿題だった。
陳硯之
自宅へ戻った陳硯之は、すぐに身体を休めようとはしなかった。静まり返った部屋の中でただじっと座り込み、未だ形をなさぬ思考が自然と降り積もるのを待っていた。
彼は見たのだ——あの『幽光』を。誰もがただの「暗闇」としか捉えられなかった空間で、彼だけがあの微かで確かな光を視認していた。まるでその空間に属さない異形の生物がゆっくりと呼吸し、光によって輪郭を繋ぎ止められ、時間によってその姿を固定されているかのような光景を。なぜ自分にそれが見えたのかは分からなかった。彼は霊能力者でもなければ、修行を積んだわけでもなく、霊力というものに深い関心を持っていたわけでもない。それでも彼の眼は、明確にあの光を捉えていたのだ。
そして彼は、程晋陽の瞳が青く変色する瞬間をも目撃していた。
その光景を目にした時、陳硯之の心に浮かんだのは「これは何だ?」という驚愕ではなく、「ああ、始まったか」という静かな納得だった。その「納得」自体が、彼自身にとって奇妙極まりなかった。驚きがなかったわけではない。ただ、驚くにはあまりにも冷静すぎたのだ。まるで自らの潜在意識のどこかが、そうした事態の発生を最初から予期していたかのように。
陳硯之は自分の指先を見つめ、脳裏であの光景を反芻した。程晋陽の瞳の色が変わった時、自分は引き下がりもせず、問いかけもせず、ただ静観していた。まるで身体の一部が「これは受け入れられる現象だ」と知っていたかのように。
彼は紙に一行の文を書き記した。
『不審に思わない自分に違和感を覚えるべきだが、実際に驚きはなかった』
それが何を意味するのかは分からない。だが彼は、この言葉を書き残しておくことに決めた。いつか十分な手がかりが集まった時、これを見返すために。その時が来れば、なぜ自分がこれほど冷静でいられたのか、その答えが得られるかもしれない。
湯志傑
帰宅した湯志傑は座り込むこともせず、ただ窓辺に立ち、白み始めていく街並みを眺めていた。
手の中にあったカードは消え去っていたが、最後に確認した『-175』という数字は焼き付いて離れなかった。数字自体は致命的な痛手ではないが、決して軽視できるものでもない。この探索に参加したこと自体に後悔はなかった。悔やまれるのは、程晋陽と宋知行の二人が『種』であるという事実に、もっと早く気づけなかったことだった。
振り返ってみれば、劉張三が二人と初めて会った時にその言葉を口にしていた。しかし自分も劉張三も、それを深刻には受け止めていなかったのだ。これまで数多くの新人を見てきた。生き残る者、途中で落命する者、一度の副本を乗り越えたきり二度と姿を現さなくなる者——自分たちは『種』という言葉を単なる漠然とした総称として扱い、単にシステムに引きずり込まれた存在に過ぎず、才能や運命といった大層な概念とは無縁なのだと思い込んでいた。
だが、それは大きな間違いだったのだ。
「……『種』というのは、本当だったんだな」
恐怖ではなく、自らの認識を再構築しようとする慎重な呟きだった。自分はただの「サポート役」として参加しているつもりだった。劉張三と他の仲間との間に立ち、場を和ませ、脱線しがちな会話を軌道修正する雑用係なのだと。
だが今、思考は別の領域へと向き始めていた。もし程晋陽と宋知行が『種』であり、彼らが副本に引きずり込まれるたびに未知の力を覚醒させているのだとしたら——自分という存在は、この盤上においてどのような役割を担っているのだろうか。単なる傍観者なのか、雑用係なのか、それともまだ目覚めていない「駒」の一つに過ぎないのだろうか。
答えは出なかった。しかし彼は、この疑問を心に留めておくことにした。いずれ訪れるであろう「答え」が、自ら姿を現すその時まで。




