第八話:黒薔薇の逆鱗
沈黙は、長くは続かなかった。
「……ふざけるな」
最初に口を開いたのは、ジュリアンだった。
けれどその声には、先ほどまでの勢いはない。
むしろ、どこか空虚に響く。
「妻、だと? そんなはずがない……!」
自分に言い聞かせるように、言葉を重ねる。
カシアンは、その様子を静かに見つめていた。
何の感情も浮かべていないように見える顔。
けれど――
(……ああ)
私は内心で小さく息を吐く。
分かる。
あれは。
(完全に、怒っていらっしゃいますわね)
静かすぎるのだ。
嵐の前の、異様なほどの静けさ。
「シルヴィアは俺の婚約者だったんだぞ!」
ジュリアンが声を荒げる。
「勝手に連れ去って、妻だなどと――!」
「“だった”」
カシアンが、ぽつりと呟いた。
それだけで。
空気が、凍りつく。
「過去形、ですね」
ゆっくりと、言葉が続く。
「現在は違う、と」
「そ、それは……」
ジュリアンが言葉に詰まる。
当然だ。
自分で切り捨てた関係なのだから。
「それに」
カシアンは一歩、前に出る。
「彼女を手放したのは、あなたご自身でしょう?」
「っ……!」
正論。
逃げ場のない、事実。
「で、ですが……!」
それでも食い下がる。
「だからといって、貴様のような得体の知れない男に……!」
――その瞬間。
空気が、変わった。
温度が、落ちた気がした。
「……得体が知れない、ですか」
カシアンの声が、低くなる。
ほんのわずかに。
けれど、はっきりと。
「え、ええ、そうだ!」
ジュリアンは気づかない。
あるいは、気づいても止まれないのか。
「黒薔薇だの、狂人だの、まともな噂が一つもないじゃないか!」
言ってしまった。
決定的な一言を。
(……あらあら)
私は心の中で肩をすくめる。
それは。
(踏み抜いてはいけない地雷ですわよ)
案の定。
カシアンは、しばらく何も言わなかった。
ただ、じっとジュリアンを見つめている。
その赤い瞳が。
そして。
「――そうですか」
静かに、そう呟いた。
微笑む。
けれど、その笑みは。
これまで見てきたものとは、明らかに違っていた。
「では、少しだけ“分かって”いただきましょう」
「な、何を――」
言い終わる前に。
「誰か」
カシアンが、軽く指を鳴らす。
次の瞬間。
音もなく、数人の男たちが室内に現れた。
気配すら感じさせなかった。
その動きは、明らかに訓練されたもの。
「ひっ……!」
ジュリアンが後ずさる。
「な、なんだお前たちは……!」
「我が領の兵です」
カシアンが淡々と答える。
「最低限の礼儀は心得ておりますので、ご安心を」
「どこがだ!?」
叫ぶ。
けれど、その声は震えている。
「さて」
カシアンはゆっくりと歩み寄る。
「まずは、状況の確認から始めましょうか」
「じょ、状況……?」
「ええ」
頷く。
「あなたが今、どこにいるのか」
指を一つ、立てる。
「ここは、私の領地です」
二本目。
「そして、あなたは無断で立ち入っている」
三本目。
「さらに、私の妻に対して不敬な言動を繰り返した」
指を下ろす。
「以上です」
あまりにも簡潔なまとめ。
けれど、その内容は――
(完全に詰んでおりますわね)
どこからどう見ても、言い逃れはできない。
「ま、待て……!」
ジュリアンが必死に手を振る。
「これは誤解だ! 俺はただ――」
「連れ戻そうとした?」
カシアンが首を傾げる。
「許可なく?」
「それは……!」
「力ずくで?」
「そ、それは……!」
「なるほど」
納得したように頷く。
「やはり、問題ですね」
「違う! 話を聞け!」
必死の叫び。
けれど。
カシアンは、もう聞いていなかった。
「拘束を」
短く命じる。
「はっ」
兵たちが動く。
「や、やめろ! 離せ!」
ジュリアンが暴れる。
けれど、訓練された兵に敵うはずもない。
あっという間に押さえ込まれる。
「シルヴィア! 助けてくれ!」
こちらに縋るような声。
私は一瞬だけ、彼を見て――
「お断りいたしますわ」
にっこりと微笑んだ。
「な……っ」
「先ほど申し上げましたでしょう?」
穏やかに続ける。
「私はここにいる、と」
それが、答え。
ジュリアンの顔から、血の気が引いていく。
完全に、理解したのだろう。
味方はいない、と。
「さて」
カシアンが、再び口を開く。
「処分ですが」
その一言で、空気がさらに重くなる。
兵たちの動きも、ぴたりと止まる。
「不法侵入、侮辱、誘拐未遂」
淡々と罪状を並べる。
「通常であれば、相応の罰を与えるべきでしょう」
「ま、待て……頼む……!」
ジュリアンが、必死に懇願する。
「金なら出す! いくらでも――」
「必要ありません」
即答。
冷たいほどに。
「あなたの価値は、そこにはありませんので」
「な……」
言葉を失う。
そして。
カシアンは、ゆっくりと視線を外した。
窓の外――黒薔薇の庭へと。
「……肥料にする、というのも一案ですが」
ぽつりと、呟く。
その言葉に。
室内の全員が、凍りついた。
(……ああ)
私は静かに目を細める。
(本気、ですわね)
冗談ではない。
文字通りの意味で言っている。
「や、やめろ……!」
ジュリアンの声が、裏返る。
「やめてくれ……!」
恐怖に染まった顔。
つい先ほどまでの尊大さは、跡形もない。
けれど。
(ここで放置すると、少々面倒ですわね)
私は一歩、前に出た。
「カシアン様」
静かに呼びかける。
彼の視線が、こちらへと戻る。
「貴女が前に出る必要はありません。ここにいて下さい」
その声音は穏やかなのに、拒絶を許さない響きを帯びていた。
「ええ、それはそうですが、非効率ではありませんこと?」
「……非効率?」
「ええ」
頷く。
「一時的な感情で処分しても、利益は生まれませんもの」
淡々と告げる。
「どうせなら、より有効に活用すべきかと」
カシアンが、わずかに目を細める。
興味を示した証拠。
「例えば?」
「社会的信用の剥奪、資産の差し押さえ、取引先への影響」
一つずつ挙げる。
「段階的に追い詰めた方が、長期的な利益になりますわ」
ジュリアンの顔が、さらに青ざめる。
理解したのだろう。
こちらの方が、よほど恐ろしいと。
「……なるほど」
カシアンが、ゆっくりと頷いた。
「確かに、その通りですね」
あっさりと同意する。
先ほどまでの殺気が、すっと引いていく。
「では、そのように」
「ええ」
私は微笑んだ。
「その方が、よろしいかと」
(扱いやすい方でよかったですわ)
そう結論づけたシルヴィアは、わずかに微笑んだ。
こうして。
黒薔薇の逆鱗は、収まった。
――ただし。
その代わりに。
より長く、より確実に相手を蝕む“処分”が、決定されたのだった。
カシアンのこの反応、ありですか?
「かっこいい」か「やりすぎ」か、どちら派か気になります。
一言教えてくださいね。




