第三話:お花畑の騎士
辺境への道は、想像していた以上に遠かった。
王都ノヴァーリスを発ってから、すでに三日。
舗装された街道はいつしか途切れ、馬車は土と石の道を揺れながら進んでいる。
窓の外に広がるのは、深い森と、時折見える荒れた大地。
人の気配はほとんどない。
(……なるほど、最前線)
魔物領域と接する地。
そう聞いてはいたけれど、実際に来てみると、想像以上に「世界の端」めいた雰囲気がありますわね。
「お疲れではありませんか、お嬢様」
向かいの席でアルフレッドが声をかけてくる。
「平気よ」
軽く首を振る。
「これくらいで音を上げていては、この先やっていけませんもの」
そう言いながらも、正直なところ身体は少しばかり重い。
長時間の移動に加え、精神的な緊張もある。
何しろこれから会うのは、あの“辺境伯カシアン・ブラックバカラ”。
変人で狂人。
黒薔薇に取り憑かれた男。
(さて、どの程度の“異常”なのかしら)
ある意味、楽しみでもある。
そこまで考えたところで、馬車がゆっくりと速度を落とした。
「到着のようですな」
アルフレッドが窓の外を確認する。
私は姿勢を正し、ドレスの皺を軽く整えた。
「いつでも」
短く告げる。
やがて馬車が止まり、扉が開かれた。
外に一歩、足を踏み出す。
――その瞬間。
「……まあ」
思わず、言葉がこぼれた。
視界いっぱいに広がるのは――薔薇。
それも、ただの薔薇ではない。
すべてが、黒。
深く、艶やかで、光を吸い込むような黒。
無数の花弁が、風に揺れている。
庭園どころではない。
城門から屋敷へと続く道の両脇、さらには遠く見える丘に至るまで、すべてが黒薔薇で埋め尽くされている。
(……これは)
圧倒的、ですわね。
美しい。
けれど同時に、どこか息苦しいほどの密度。
まるで、この場所そのものが一つの意思を持っているかのような――
「お気に召しましたか」
低く、柔らかな声が背後から響いた。
振り返る。
そこに立っていたのは、一人の男。
濡れたような黒髪。
長身で、無駄のない体躯。
そして何より、目を引くのは――その瞳。
深紅。
血のように濃い、赤。
その色が、こちらをじっと見つめている。
(……この方が)
間違いありませんわね。
私は一歩前に出て、ゆっくりと礼を取った。
「初めまして。シルヴィア・フォン・アシュレイと申します」
顔を上げる。
「この度は、お招きいただき――」
「来てくださって、ありがとうございます」
言葉を遮るように、彼は微笑んだ。
その笑みは、驚くほど柔らかい。
先ほどまで感じていた威圧感が、嘘のように薄れる。
「ずっと、お待ちしておりました」
「……そう、ですか」
少しだけ、言葉に詰まる。
“ずっと”という表現が、わずかに引っかかるけれど。
今は気にしないことにする。
「改めて名乗らせてください」
彼は胸に手を当てた。
「カシアン・ブラックバカラ。この地を治める者にございます」
丁寧な所作。
完璧な礼儀。
少なくとも、第一印象においては“狂人”という言葉は当てはまらない。
むしろ――
(ずいぶんと、まともな方ですわね)
内心で少しだけ肩透かしを食らう。
もっとこう、初対面から奇行に走るような人物を想像していたのだけれど。
「長旅でお疲れでしょう」
カシアンはゆっくりと手を差し出した。
「どうぞ、こちらへ。すぐにお部屋へご案内いたします」
「ありがとうございます」
その手を取る。
しっかりとした、温かい感触。
彼は私をエスコートしながら、屋敷へと歩き出した。
黒薔薇の道を進む。
近くで見ると、その花はさらに異様だった。
花弁の一枚一枚が、まるで磨かれた宝石のように艶やかで、ほんのわずかに――魔力の気配を帯びている。
(……なるほど、噂は本当のようですわね)
ただの園芸ではない。
明らかに何かしらの意図を持って育てられている。
「お気づきになりましたか」
不意に、カシアンが口を開いた。
「この薔薇は、ただの観賞用ではありません」
「ええ。魔力を感じます」
素直に頷く。
彼は満足そうに微笑んだ。
「ブラックバカラ。私が生み出した品種です」
「ご自身で?」
「はい」
さらりと言ってのける。
「土壌の魔力を吸い上げ、花に蓄える性質を持っています。この辺境の結界強化にも一役買っているのですよ」
やはり。
ただの趣味ではなかった。
(……いえ、趣味でもあるのでしょうけれど)
この量は、どう考えても“ついで”では済まない。
やがて屋敷の玄関へとたどり着く。
重厚な扉が開かれ、中へと通された。
内装は意外にも落ち着いていた。
黒薔薇一色かと思いきや、室内は暖色を基調とした上品な造りになっている。
(外と中で印象がまるで違いますわね)
「こちらがお部屋です」
案内されたのは、広く整えられた客間。
調度品は上質で、手入れも行き届いている。
長期滞在にも十分すぎるほどの設備。
「お気に召していただければよいのですが」
「ええ、とても」
正直に答える。
この環境であれば、生活に不自由はなさそうだ。
むしろ、王都の屋敷よりも快適かもしれない。
カシアンはほっとしたように息をついた。
「よかった」
その様子は、どこか安堵しているようにも見える。
まるで、私の評価を気にしているかのような。
「しばらくはゆっくりお休みください」
彼は続けた。
「必要なものがあれば、何なりとお申し付けを。すぐにご用意いたします」
「ありがとうございます」
「それと」
そこで、ほんの一瞬。
彼の声色が変わった。
柔らかさはそのままに、しかしわずかに低く、重くなる。
「この屋敷の外は、危険です」
視線が、まっすぐにこちらを捉える。
「魔物も出ますし、結界の外は安全とは言えません」
「……ええ、承知しております」
辺境なのだから当然だ。
むしろ、わざわざ言うほどのことでもない。
けれど。
「ですから」
カシアンは、微笑んだまま言った。
「どうか、無理に外へ出ようとはなさらないでください」
その言葉に、ほんのわずかな違和感を覚える。
“危険だから”という理由にしては、妙に念押しが強い。
「必要なものは、すべてこちらでご用意いたします」
続く言葉。
「衣食住、すべて。何一つ、不自由はさせません」
そして――
「貴女は、ここにいればいい」
優しく。
けれど、逃げ道を塞ぐように。
そう告げた。
(……ああ)
胸の奥で、何かがすとんと落ちる。
理解した。
この人は。
この人こそが――
(“お花畑の騎士”ですのね)
外界のすべてを切り離し、理想の庭の中に閉じ込める。
花を愛でるように、大切に。
けれど決して、外へは出さない。
そんな、歪んだ優しさ。
私は一瞬だけ考え。
そして、にっこりと微笑んだ。
「ええ」
穏やかに答える。
「承知いたしました」
カシアンの瞳が、わずかに揺れる。
予想外だったのか、それとも――
「ここで、過ごさせていただきますわ」
言葉を重ねる。
「しばらくの間、どうぞよろしくお願いいたします」
丁寧に一礼する。
その姿を見て、彼は数秒、沈黙し――
やがて、ふっと笑った。
どこか、安堵と、そしてほんの少しの戸惑いを含んだ笑み。
「……こちらこそ」
静かに応じる。
「よろしくお願いいたします、シルヴィア」
こうして。
黒薔薇に囲まれた屋敷での生活が、始まった。
それが甘美な楽園となるのか。
あるいは、逃れられない檻となるのか。
――その答えは、まだ誰にも分からない。
カシアンの第一印象、どうでしたか?
「優しそう」か「ちょっと怖い」か、率直な感想ぜひ。
一言ぜひ。




