第二話:黒薔薇の求婚
馬車が夜の街路を走り抜ける。
窓の外では、王都ノヴァーリスの灯りがゆっくりと遠ざかっていった。
揺れる車内で、私は膝の上に置いた手紙をもう一度開く。
『貴家の負債、すべてを肩代わりする用意がある』
『その代わり、貴女を我が妻として迎えたい』
簡潔で、余計な装飾の一切ない文章。
けれど、その内容はあまりにも重い。
「……どうお考えですか、お嬢様」
向かいに座るアルフレッドが、慎重に問いかけてくる。
その声音には、明らかな警戒が滲んでいた。
「どうもこうも」
私は肩をすくめる。
「罠でしょうね」
「やはり」
「ええ、どう考えても都合が良すぎますもの」
没落寸前の伯爵家の娘に対し、全負債の肩代わりを条件に求婚。
まともな神経の持ち主であれば、そんな提案はしない。
――まともであれば。
「辺境伯カシアン・ブラックバカラ……」
アルフレッドがその名を口にする。
「噂では、非常に……その……」
「変人、狂人、といったところかしら」
「……否定はできません」
苦い顔で頷く老執事。
無理もありませんわね。
彼の評判は、私も耳にしたことがあります。
魔物領域との最前線を守る辺境伯。
戦場では鬼神のごとき強さを誇りながら、私生活は常軌を逸している。
庭園に異様なまでの執着を持ち、黒い薔薇を狂ったように育て続けている、と。
(黒い薔薇、ね……)
ふと、幼い日の記憶がよぎる。
淡いピンクの花弁。
小さな手の中で、少しだけくしゃりと潰れてしまったそれ。
――お花ではお腹は膨れないけれど、心が満たされるの。
自分でも不思議なほど、はっきりと覚えている言葉。
けれど。
(……今は、それどころではありませんわね)
私は軽く頭を振り、思考を切り替える。
「問題は、受けるかどうか、ですわ」
「……お断りになるという選択肢は?」
「ありません」
即答する。
アルフレッドの表情が、わずかに歪んだ。
「……危険です」
「ええ」
「場合によっては、命に関わることも」
「ええ」
「それでも、ですか」
静かに問われる。
私は窓の外へと視線を向けた。
すでに夜は深く、街の灯りもまばらになっている。
「……アルフレッド」
「はい」
「他に、手はありますか?」
「……」
沈黙。
それが答え。
「ありませんわね」
「……申し訳、ございません」
「謝る必要はありませんわ」
私は微笑む。
「現実は現実ですもの」
もしこの求婚を断れば。
アシュレイ家は確実に破滅する。
屋敷は差し押さえられ、使用人は路頭に迷い、弟の未来も閉ざされる。
それだけは、避けなければならない。
「それに」
私は手紙を軽く叩いた。
「条件としては、破格ですわ」
「……確かに」
「借金は消え、家は守られる。ついでに結婚相手までついてくる」
くすりと笑う。
「多少の難あり物件でも、文句は言えませんわね」
「多少、で済めばよろしいのですが……」
「さて、どうでしょう」
その点については、正直なところ未知数ですわね。
ただ一つ確かなのは――
(まともではない、ということ)
それだけ。
けれど。
(まともである必要は、ありませんわ)
私が求めるのは、安定した生活と、家の存続。
愛だの夢だのは、とうの昔に切り捨てましたもの。
「お嬢様」
アルフレッドが、ふと声を低くした。
「……もし、万が一のことがあれば」
「ええ」
「私めは、最後までお供いたします」
その言葉に、胸の奥がわずかに熱を帯びる。
本当に、この人は。
「ありがとう」
素直にそう告げる。
「ですが、大丈夫ですわ」
「……と、申されますと?」
「死ぬつもりはありませんもの」
きっぱりと言い切る。
そして、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「――むしろ、利用させていただきますわ」
相手が狂人であろうと、変人であろうと関係ない。
使えるものは、すべて使う。
それが、今の私にできる最善。
馬車はやがて、アシュレイ伯爵邸の前で止まった。
扉が開かれる。
外に降り立った瞬間、空気の重さが肌にまとわりついた。
……遅かったようですわね。
屋敷の前には、すでに数台の荷馬車と、粗野な男たちの姿があった。
借金取り。
そして、差し押さえの執行人。
「お嬢様!」
若い使用人が駆け寄ってくる。
「旦那様が……!」
「分かっています」
私は静かに制する。
玄関へと足を進めると、すぐに一人の男が前に出てきた。
いかにも金の匂いに敏感そうな、脂ぎった笑みを浮かべている。
「これはこれは、アシュレイのお嬢様」
わざとらしく頭を下げる。
「お帰りなさいませ。ちょうどよかった。今から、この屋敷は我々が――」
「その必要はありませんわ」
私は言葉を遮った。
「……は?」
男の目が丸くなる。
構わず、私は懐から手紙を取り出した。
「こちらをご覧ください」
「なんだ、それは」
「契約書の前段階、とでも言えばよろしいかしら」
ひらりと差し出す。
男は訝しげにそれを受け取り、ざっと目を通し――
次の瞬間、顔色が変わった。
「……っ、辺境伯……!?」
ざわ、と周囲の空気が揺れる。
他の男たちもざわつき始めた。
「ば、馬鹿な……本物か……?」
「ブラックバカラの紋章だぞ……」
その反応を見て、私は内心で小さく頷く。
――効いていますわね。
さすがは辺境伯。
その名だけで、これだけの威圧になるとは。
「すでに、我が家の負債はすべて肩代わりされる予定です」
淡々と告げる。
「手続きは間もなく完了するでしょう。ですので、この差し押さえは無効となります」
「そ、そんな……」
男は明らかに動揺していた。
無理もありませんわね。
取り立てるはずだった金が、より大きな権力によって横からかっさらわれたのですから。
「……確認を取らせてもらう」
「ご自由に」
私は余裕を崩さない。
実際、確認されれば事実だと分かるでしょうから。
男は舌打ちを一つして、部下に指示を飛ばした。
慌ただしく走り去っていく影。
やがて。
数分後には、すべてがひっくり返っていた。
「……撤収だ」
苦々しい声が響く。
荷馬車が引き返し、男たちが散っていく。
あれほど騒がしかった屋敷の前が、嘘のように静まり返った。
「……助かりましたな」
アルフレッドが、小さく息を吐く。
「ええ」
私は手紙を見つめる。
「本当に」
――これで、家は救われた。
少なくとも、今この瞬間は。
けれど。
(同時に、逃げ道もなくなりましたわね)
この提案を受けた時点で、もう後戻りはできない。
私はゆっくりと顔を上げた。
「準備を」
「はい」
「明日には発ちます」
辺境へ。
黒薔薇が咲き誇るという、その地へ。
狂人と名高い辺境伯のもとへ。
胸の奥で、わずかな高鳴りが生まれる。
恐怖か、期待か、それとも別の何かか。
自分でも判別がつかないまま。
「――参りましょう」
私は静かに告げた。
「私の、新しい生活へ」
こうして。
没落寸前の伯爵令嬢は。
黒薔薇の騎士が待つ辺境へと、歩みを進めることになったのだった。
この求婚、受けるのはアリだと思いますか?
「怪しすぎるけど魅力的」か「普通に危険」か気になります。
一言で構いませんので、お聞かせください。




