第一話:「お前を愛することはない」と言われたので、とりあえず切り返しておきました
「お前を愛することはない」と婚約者に告げられる――。
「――シルヴィア・フォン・アシュレイ。私は、お前を愛することはない」
夜会のざわめきが、ぴたりと止まった。
煌びやかなシャンデリアの光の下、広間の中央で向かい合う二人――そのうちの一人である私は、ゆっくりと瞬きをする。
……なるほど。
これが、噂に聞く「婚約破棄」というものですのね。
目の前に立つのは、私の婚約者であった男、ジュリアン・フォルスター子爵令息。流行を追った明るい茶髪に、やや軽薄な笑み。今まさに、その口元には勝ち誇ったような歪みが浮かんでいる。
彼の腕には、見知らぬ令嬢がしなだれかかっていた。
「私はすでに、真実の愛を見つけたのだ。君のような古臭い女ではなく、この可憐な女性と共に生きていく」
まあ。
古臭い、ですって。
思わず、心の中で小さくため息をつく。
周囲からは、ひそひそと囁き声が漏れ始めていた。
「アシュレイ伯爵家は、もう終わりだものね……」
「借金まみれだと聞いたわ」
「だからフォルスター様も見限ったのよ」
……ええ、事実ですわね。
否定はいたしません。
アシュレイ伯爵家は、現在進行形で没落の途にあります。度重なる不作と、父の病。さらに不運な投資の失敗が重なり、今や資金繰りは火の車。
この婚約も、本来はフォルスター家からの資金援助を前提とした、いわば政略的なもの。
それが反故にされた以上――
(完全に詰み、ですわね)
頭の中で冷静に計算を巡らせる。
残された資産。返済期限。担保に入っている土地。最悪の場合の差し押さえ範囲。
……三日。いえ、二日も持たないでしょう。
屋敷は押さえられ、使用人は解雇。弟の教育費も立ち行かなくなる。
つまり。
(――破滅ですわね)
けれど。
だからといって、ここで取り乱す理由にはなりませんわ。
私はゆっくりと、ドレスの裾を整えた。
背筋を伸ばし、顎をわずかに引く。幼い頃から叩き込まれてきた、アシュレイ伯爵家の令嬢としての立ち居振る舞い。
たとえ家が潰れようとも、それだけは失うわけにはいかない。
「……そうですか」
静かに、そう返す。
ジュリアンは一瞬、拍子抜けしたように目を瞬かせた。
「なんだ、その反応は。もっと泣き叫ぶかと思ったが」
「泣く理由がございませんもの」
私は微笑んだ。
「愛していない相手から、愛されないと宣言されたところで、何か問題が?」
「なっ……」
ジュリアンの顔が、みるみるうちに赤くなる。
あら、図星でしたのね。
「そもそもこの婚約は、双方の家の利害が一致した結果でしょう? 感情の話を持ち出すこと自体、少々筋違いかと存じますわ」
「……っ、この女……!」
腕にしがみついていた令嬢が、不安げにジュリアンを見上げる。
「ジュリアン様……?」
「ああ、心配するな。すぐに終わらせる」
彼は咳払いを一つして、再びこちらを見据えた。
「とにかく、婚約は破棄だ。今後、フォルスター家はアシュレイ家に一切の援助を行わない」
「承知いたしました」
即答する。
そのあまりのあっさりさに、今度こそ彼は言葉を失ったようだった。
「……それだけ、ですの?」
私は首を傾げる。
「他に何か?」
「くっ……強がりを……!」
強がり。
そう見えるのであれば、それで結構。
事実、心の中はそれどころではありませんけれど。
(さて、どうしたものかしら)
夜会の音楽が、遠くで再び流れ始める。
けれど、この場にいる者たちの視線は、依然として私に注がれていた。
同情、嘲笑、好奇心。
――そして、終わった者を見る目。
私はゆっくりと踵を返す。
「では、ごきげんよう。ジュリアン様」
それ以上、言葉を交わす必要はありませんわ。
これで、すべて終わりですもの。
広間を抜け、廊下へ出る。
途端に、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
……いえ、緩んだのは空気ではなく、私の方かもしれませんわね。
壁に軽く手をつき、小さく息を吐く。
(……本当に、どうしましょう)
先ほどまで冷静に計算していたはずの現実が、じわじわと重みを増してのしかかってくる。
家は潰れる。
借金は残る。
行くあてもない。
――詰みですわ。
そのとき。
「お嬢様!」
切羽詰まった声とともに、見慣れた使用人が駆け寄ってきた。
我が家に仕える老執事、アルフレッドだ。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「それが……! 屋敷に、借金取りが……!」
……やはり、来ましたのね。
予想よりも少し早いですが、誤差の範囲ですわ。
「すでに玄関を取り囲んでおり、このままでは……!」
「差し押さえ、ですわね」
「……っ、はい」
アルフレッドは悔しげに歯を食いしばる。
長年仕えてくれた彼に、このような思いをさせるのは心苦しい。
けれど、現実は変わらない。
「馬車を用意して。すぐに戻ります」
「しかし、お嬢様――」
「大丈夫よ」
私は静かに微笑んだ。
「まだ、終わりではありませんもの」
――ええ、終わってなどいません。
終わらせませんわ。
たとえ、どれほど無謀でも。
そのときだった。
「シルヴィア・フォン・アシュレイ様、でいらっしゃいますね」
背後から、低く落ち着いた声が響く。
振り返ると、そこには見知らぬ男が立っていた。
黒い外套を纏い、感情の読めない表情をしている。
貴族の使い、といった風情。
「どちら様かしら」
「辺境伯カシアン・ブラックバカラ様より、書状を預かっております」
――辺境伯。
その名に、わずかに眉をひそめる。
噂には聞いたことがある。
魔物領域との最前線を治める、若き辺境伯。
そして。
――変人。
――狂人。
そんな不穏な評判ばかりが先行する人物。
「お受け取りください」
差し出された封蝋付きの手紙を、私はゆっくりと受け取った。
黒い蝋。
そこに刻まれたのは、薔薇の紋章。
……嫌な予感がいたしますわね。
けれど、今の私に選択肢などない。
封を切り、中を開く。
そこに書かれていたのは――
『シルヴィア・フォン・アシュレイ嬢へ』
『貴家の負債、すべてを肩代わりする用意がある』
息が、止まった。
アルフレッドも、背後で小さく息を呑む気配がする。
そして、続く一文。
『その代わり、貴女を我が妻として迎えたい』
――求婚。
あまりにも唐突で、あまりにも都合の良い条件。
普通ならば、罠を疑うところでしょう。
いいえ。
(罠、ですわね)
どう考えても。
けれど。
私はゆっくりと、手紙を折りたたんだ。
そして、口元に微笑みを浮かべる。
「……アルフレッド」
「は、はい」
「馬車の行き先を変更いたします」
「と、申しますと……?」
私は振り返り、夜会の灯りを背に告げた。
「辺境へ」
黒い薔薇が咲き誇るという、その地へ。
「毒を食らわば皿まで、ですわ」
――こうして私は、破滅の代わりに。
より危険そうな檻へと、自ら足を踏み入れることを決めたのだった。
シルヴィアのこの対応、ありだと思いますか?
「冷静で良い」か「ちょっと怖い」か、どちらの印象かぜひ教えてください。
一言でも大丈夫なので、お気軽にどうぞ。




