第十二話:黒薔薇の誓い
黒薔薇が、風に揺れている。
辺境伯領の庭園――その中心。
見渡す限りの黒。
夜のように深く、艶やかで、どこまでも広がる花の海。
その中に、ぽつりと設えられた白い一角。
今日、この場所は。
結婚式のために整えられていた。
(……ずいぶんと、対照的ですこと)
黒と白。
まるで、この関係そのもののようだと、シルヴィアは思う。
純白のドレスを纏い、彼女は静かに歩を進めた。
花々の間に伸びる道。
その先に――
カシアンがいる。
黒を基調とした礼装。
黒薔薇の騎士、そのものの姿。
けれど。
その瞳だけが、わずかに揺れていた。
(……本当に)
シルヴィアは、ほんの少しだけ口元を緩める。
(分かりやすい方ですわね)
堂々とした立ち姿。
揺るがぬ威圧感。
それらのすべてが、彼の“外側”。
けれど、その内側は。
驚くほどに――
(素直で、不器用)
彼女は彼の前に立つ。
距離は、ほんの一歩。
伸ばせば届く位置。
数秒の沈黙。
そして。
「……綺麗です」
先に口を開いたのは、カシアンだった。
かすかに掠れた声。
普段の落ち着きとは、明らかに違う。
「ありがとうございます」
シルヴィアは穏やかに応じる。
「カシアン様も、とてもよくお似合いですわ」
「……光栄です」
短く答える。
それだけで精一杯、といった様子。
しばしの静寂。
風が、花を揺らす音だけが響く。
やがて。
「……シルヴィア」
カシアンが、静かに名を呼んだ。
「はい」
「一つ、お伝えしておきたいことがございます」
その声音は、いつになく真剣だった。
シルヴィアは、わずかに目を細める。
「どうぞ」
促す。
カシアンは、一瞬だけ視線を落とし――
すぐに、上げた。
真っ直ぐに、彼女を見据える。
「私は」
言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「あなたを、この場所に留めたいと思っています」
それは、これまで何度も示されてきた意思。
けれど。
続く言葉が、違った。
「……ですが」
ほんのわずかに、息を吐く。
「あなたが望むのであれば」
静かに、しかし確かに。
「この扉は、開けておきます」
黒薔薇の庭に、風が吹く。
その言葉は。
この男にとって、どれほどの意味を持つのか。
シルヴィアには、よく分かっていた。
(……ああ)
胸の奥が、わずかに熱を帯びる。
支配ではなく。
選択を委ねるということ。
それは、この男にとって――
(“譲歩”ではなく、“決意”ですわね)
シルヴィアは、ゆっくりと一歩、彼に近づいた。
そして。
その手に触れる。
ほんの指先だけ。
けれど、確かな接触。
カシアンの身体が、わずかに強張る。
「カシアン様」
静かに、名を呼ぶ。
「はい」
「一つ、申し上げておきますわ」
そのまま、彼の手を軽く取る。
握るわけではない。
ただ、触れているだけ。
けれど、それで十分だった。
「私は」
視線を合わせる。
まっすぐに。
「この場所から、出ていく気はありません」
はっきりと告げる。
迷いなく。
揺らぎなく。
その言葉に。
カシアンの瞳が、大きく見開かれた。
「……」
言葉を失っている。
信じていいのか、判断がつかないような顔。
(本当に、不器用ですこと)
シルヴィアは、小さく笑みを浮かべた。
「ですので」
続ける。
「その“扉”は、開けたままで結構ですわ」
さらりと告げる。
「逃げる必要がありませんもの」
沈黙。
長い、長い沈黙。
そして。
「……なぜ」
かすれた声で、カシアンが問う。
「なぜ、そこまで……」
その問いに。
シルヴィアは、ほんの少しだけ考えるふりをした。
そして。
「簡単なことですわ」
あっさりと答える。
「ここは、快適ですもの」
「……」
「衣食住は完璧」
指折り数える。
「仕事も充実しております」
そして。
ほんのわずかに、声を和らげる。
「何より」
彼を見つめる。
「あなたが、きちんと“使える”」
ぴたり、と。
空気が止まった。
カシアンの思考が、明らかに追いついていない。
(……ええ、これでよろしい)
過剰な言葉は不要。
これが、彼女なりの答え。
そして。
「ですから」
シルヴィアは、軽く首を傾げた。
「その檻に、問題はありませんわ」
結論を述べる。
「むしろ――」
ほんの少しだけ、微笑む。
「居心地が良いくらいです」
その瞬間。
カシアンの表情が、崩れた。
驚きと、安堵と、そして――
どうしようもない感情が、一度に溢れ出す。
「……私は」
彼が、ようやく言葉を取り戻す。
「あなたを、閉じ込めるつもりでした」
「存じておりますわ」
「それなのに」
「ええ」
シルヴィアは頷く。
「その通りですわね」
そして。
ほんの少しだけ、顔を近づけた。
吐息が触れる距離。
「ですが」
静かに告げる。
「鍵の管理は、別問題ですわ」
その言葉に。
カシアンが、息を呑む。
シルヴィアは、彼の手を軽く持ち上げ――
その掌に、自分の指先を重ねた。
「その鍵は」
くすりと笑う。
「私が預かりますわね」
決定的な一言。
それは。
この関係のすべてを、ひっくり返す宣言。
閉じ込める側と、閉じ込められる側。
その境界が、曖昧になる瞬間。
沈黙。
そして。
「……敵いませんね」
カシアンが、小さく笑った。
どこか、諦めたような。
けれど、どこか――
嬉しそうな。
「最初から、そのつもりでしたの?」
「いいえ?」
シルヴィアは、あっさりと否定する。
「結果的に、そうなっただけですわ」
「……なるほど」
カシアンは、静かに頷いた。
そして。
彼は、そのまま。
シルヴィアの手を――今度は自分から、そっと包み込む。
強くはない。
逃げようと思えば、すぐに離れられる程度の力。
けれど。
そこには、確かな意思があった。
「それでも」
彼は、低く呟く。
「私は、あなたを離しません」
「ええ」
シルヴィアは、自然に頷く。
「構いませんわ」
その答えに。
カシアンは、ほんのわずかに目を見開き――
そして、静かに笑った。
黒薔薇の庭で。
白いドレスと、黒い騎士が向き合う。
閉じ込める者と、閉じ込められる者。
けれど、その実。
どちらも、どちらをも縛っている。
そんな歪で、そして――
ひどく心地の良い関係。
風が吹き、花が揺れる。
その中で。
二人は、言葉を交わすことなく、ただ立っていた。
十分だった。
それ以上の確認は、必要ない。
なぜなら。
もう、答えは出ているのだから。
――こうして。
世界一幸せな“囚われの姫”と。
その姫に振り回され続ける“黒薔薇の騎士”の物語は。
ひとまずの終わりを迎える。
ただし、それは。
終わりではなく――
新たな日常の、始まりに過ぎなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
このラスト、満足いただけたかどうかぜひ教えていただけると嬉しいです。
一言で構いませんのでぜひ。




