第十一話:檻の意味
害虫駆除は、滞りなく完了した。
それに伴い、屋敷内の空気もまた、どこか落ち着きを取り戻している。
――けれど。
(……少し、変わりましたわね)
窓辺に立ち、黒薔薇の庭を眺めながら、私はそう感じていた。
原因は明白。
あの一件以降、カシアンの態度が、わずかに――本当にわずかにではあるが、変化している。
「お嬢様」
アルフレッドが声をかけてくる。
「本日の予定でございますが――」
「ええ、承知していますわ」
振り返る。
「午前中は庭園区画の視察、その後は帳簿の確認でしたわね」
「はい」
「問題ありません。進めましょう」
「かしこまりました」
アルフレッドが一礼し、下がる。
私はその背中を見送りながら、思考を巡らせる。
(以前よりも、距離を取るようになりましたわね)
必要以上に近づかない。
過剰に言葉を重ねない。
こちらの判断を尊重し、干渉を控える。
――それは一見、理想的な変化だ。
だが。
(……少々、極端ですわね)
まるで、“触れれば壊れるもの”を扱うかのような慎重さ。
以前の“囲い込むような執着”とは、対照的だ。
どちらが良いかと問われれば――
(どちらも、ほどほどが望ましいのですけれど)
極端から極端へ。
それでは安定しない。
「……仕方ありませんわね」
小さく呟く。
であれば、こちらから調整するしかない。
――庭園。
黒薔薇の区画と、新たに整備された薬草の区画が、きれいに分けられている。
その境界線に立ち、私は周囲を見渡した。
「順調ですわね」
土の状態も悪くない。
植えられた苗も、しっかりと根付いている。
「お気に召していただけましたか」
背後から、静かな声。
振り返る。
カシアンが、少し距離を置いて立っていた。
「ええ」
私は頷く。
「非常によろしい仕上がりですわ」
「それは何よりです」
穏やかな返答。
だが、それ以上は近づいてこない。
(……やはり)
意図的に距離を保っている。
「カシアン様」
私はその場で呼びかけた。
「はい」
「少し、こちらへ」
一歩、手招きする。
彼は一瞬だけ迷い――
それでも、従った。
ゆっくりと歩み寄る。
その動きすら、どこか遠慮がちだ。
(本当に分かりやすいですわね)
私は軽く息を吐いた。
「もう少し、こちらへ」
さらに一歩、近づくよう促す。
「……この程度で、よろしいでしょうか」
適度な距離を保ったまま、止まる。
まるで、見えない線でも引かれているかのように。
「いいえ」
きっぱりと言う。
「足りませんわ」
「……」
カシアンが、わずかに目を見開く。
「どうぞ」
もう一度、促す。
数秒の沈黙。
そして。
彼は、もう一歩だけ近づいた。
今度は、十分に近い距離。
呼吸がわずかに感じられるほどの。
「よろしい」
私は満足げに頷いた。
「……何か、ご用でしょうか」
やや緊張した声。
その様子に、少しだけ可笑しさを覚える。
「ええ、ございますわ」
私はそのまま、まっすぐに彼を見上げた。
「最近、距離を取りすぎではなくて?」
「……」
沈黙。
図星。
「何か、問題でも?」
「いえ」
首を振る。
「ただ、少々やりづらいのです」
「やりづらい、ですか」
「ええ」
頷く。
「指示を出すにも、相談をするにも」
軽く肩をすくめる。
「その距離では、いささか不便ですわ」
実務的な理由を提示する。
すると。
「……申し訳ありません」
カシアンが、すぐに頭を下げた。
「そのようなつもりでは――」
「つもりがどうであれ、結果がすべてです」
淡々と告げる。
「改善をお願いします」
「……はい」
素直に頷く。
その様子を見て、私はほんの少しだけ表情を緩めた。
「それと」
続ける。
「もう一つ、確認したいことがございます」
「何でしょうか」
「以前、仰っていましたわよね」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「“檻から逃がさない”と」
その一言で。
カシアンの表情が、ぴたりと止まった。
「……はい」
低く、短い返答。
「それは、どういう意味で?」
問いかける。
真正面から。
逃げ道を与えずに。
しばしの沈黙。
風が、薔薇を揺らす音だけが聞こえる。
やがて。
「……そのままの意味です」
カシアンが口を開いた。
「あなたを、この場所に留める」
視線を逸らさず、続ける。
「外界から隔離し、危険から守る」
「つまり」
私は首を傾げる。
「自由は制限される、と」
「……はい」
否定しない。
その潔さは、ある意味で評価できる。
「それを、私が受け入れるとお思いで?」
「……」
今度は、答えない。
代わりに、ほんのわずかに視線が揺れた。
(……やはり)
確信する。
この人は。
“拒絶されること”を、恐れている。
「カシアン様」
私は一歩、さらに距離を詰めた。
ほとんど、触れそうなほどに。
「一つ、誤解がありますわ」
「……誤解、ですか」
「ええ」
はっきりと頷く。
「檻、というものは」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「外から閉じ込めるものではなく――」
ほんの少しだけ、微笑む。
「中から出る気がない場合も、成立するのです」
その意味を、理解するまで。
数秒かかった。
そして。
「……それは」
カシアンの瞳が、揺れる。
「どういう……」
「簡単なことですわ」
あっさりと答える。
「私は、現時点において、この環境に満足しております」
事実を述べる。
「衣食住、すべて整っている」
「……」
「業務も、やりがいがあります」
「……」
「そして何より」
わずかに声を和らげる。
「あなたが、きちんと“使える”」
一瞬、空気が止まった。
カシアンの思考が、完全に停止したのが分かる。
(……あら)
思った以上に効いたらしい。
「ですので」
私は軽く肩をすくめた。
「わざわざ出ていく理由が、現状ありませんの」
結論を述べる。
「つまり」
ほんの少しだけ、首を傾げて。
「この“檻”は、快適な居住空間ということになりますわね」
沈黙。
長い、長い沈黙。
そして。
「……あなたは」
カシアンが、かすれた声で言う。
「本当に……」
言葉を探すように、口を閉じる。
けれど、続きは出てこない。
その代わりに。
ゆっくりと、息を吐いた。
「……分かりました」
静かな声。
「では」
顔を上げる。
「その“檻”を、より快適なものにいたしましょう」
「ええ、お願いします」
私は微笑んだ。
それでいい。
それで、十分だ。
過度な執着も、過度な遠慮も。
どちらも不要。
必要なのは――
(適切な距離と、適切な関係)
そして。
(主導権)
それさえ握っていれば、この関係は安定する。
私は満足げに頷き、再び庭園へと視線を向けた。
黒薔薇が、静かに揺れている。
その中に、ほんの少しだけ混ざる、別の色。
――新しい関係の象徴のように。
その光景を眺めながら。
私は、次の展開を思い描くのだった。
この二人の関係、恋愛として成立してると思いますか?
それともまだ別の形でしょうか?
一言感想お聞かせください。




