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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【参章】其の狐の如く
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<十五>静の夜に惜別を(伍)

 

 

 比良利と袴丸薬(はかまがんやく)を作り終えた翔は日輪の社から移動して、月輪の社を駆け回っていた。

 それはなぜか。


「なあギンコ。それは大事な薬なんだって。返してくれよ」


 答え。

 文殿を出た瞬間、弾丸のように走ってきたギンコに薬の入った巾着袋を盗られてしまったから。


 素っ頓狂な声を上げる翔に尾っぽを振り、すたこらさっさとギンコが走り始めたのだ。


 おおよそ鬼ごっこをしたいのだろう。

 巾着袋を盗らずとも、誘ってくれたら遊び相手になるというのに、いたずら狐はこっちだと尾っぽを振って、翔と距離を取りながら反応を窺っていた。


 当然、翔は袴丸薬(はかまがんやく)を取り返すためにギンコを追い駆けるのだが、狐の足は速いこと。速いこと。風のように日輪の社境内を駆け回ってしまう。


 今宵、ヒトの身に戻っている翔には到底追いつけない速さであった。

 そして薄情なことにツネキも、比良利も、翔とギンコの鬼ごっこを笑いながら、ハナタレだとバカにしながら見守るだけ。完全に傍観者になっていたのだから、翔ひとりでギンコを取っ捕まえなければならなかった。

 ようやっとギンコを追い詰めても、銀狐は翔の股の間をくぐって月輪の社へ行ってしまう。

 こうして話は冒頭に戻り、翔はギンコの後を追って月輪の社へ。


 ぴょんぴょん跳ねまわるギンコと、さびれた境内で鬼ごっこをする羽目になった。


「げ、げ、限界かも。腹痛くなってきた」 


 拝殿の前で立ち止まって息を整える。

 息を吸っても吐いても腹が痛いのは、(りき)ぶくれのせいだろう。

安静と言われている身なので、軽い鬼ごっこならまだしも、長時間の鬼ごっこは体が悲鳴を上げてしまうようだ。

 肩で息をしていると、ギンコが恐る恐る顔を覗き込んできた。

 耳と尾っぽが垂れている姿を目にした翔は、少し思案した後、「あだだだだだ!」と大げさに腹を押さえて、その場で両膝をつく。


 血相を変えて翔の足元に銀狐がやって来たところで、ひょいっとその身を抱きしめた。


「つっかまえた」


 もう絶対離してやらない、と体をわしゃわしゃ撫でて顔を寄せると、耳をおっ立てたギンコが何度も鼻先で突いてくる。よくも騙したな! と言っている様子。

 なんのその、ギンコだっていきなり巾着袋を盗ったのだからお互いさまだ。


「あはは。くすぐってえ」


 ギンコが翔の顔に頭をこすりつけてくる。

 体いっぱいに甘えてくるので、怒ってはいない様子。

 その証拠に翔が手を出すと、さっさと巾着袋を置いてくれた。


「鬼ごっこはおしまい。また明日やろう。明日なら俺は半妖に戻っているから、ギンコとたくさん鬼ごっこできると思うぜ」


 さあ、早く日輪の社に帰らないと。

 今宵は翔のために日輪の神職たちが部屋を用意してくれている。おばばも向こうにいるので、そろそろ部屋で安静にしておかなければ文句を言われそうだ。

 ギンコを抱っこしたまま参道向こうの石段へ向かう。


 ぶんぶん、ギンコが首を振って来た。


「どうしたギンコ。まだ帰りたくないのか?」


 うんうん、何度も頷く銀狐はあっちに行きたいと尾っぽで方角を指す。


「散歩したいのか?」


 ちょっと違うと言わんばかりに、じーっと見つめてくる。

 いつまでも見つめてくるギンコに勝てるはずもなく、「ちょっとだけな」と苦笑して銀狐の我儘を聞いてやることにした。


 あっち、あっち。

 ギンコがしきりに尾っぽで指す方角を辿っていくと、月輪の社本殿の前に立った。

 そこは普段ギンコが寝泊まりしている所で、神職のみ立ち入ることを許されていると聞いている。寝床まで運んでほしかったのだろうか? 翔がギンコを見やれば、狐は尾っぽを振って本殿を指した。

 たっぷり間を置いて、翔は引き攣り笑いを浮かべる。


「お前まさか、いっしょに入ろうって言ってんのか?」

 

 クンクン。

 ギンコが嬉しそうに鳴く。当たりのようだ。


「さすがにそれは無理だってギンコ……俺はお前と違って神職じゃねえんだぞ」


 本殿は神職でも簡単には入れる場所ではないと聞いている。

 気軽には入れるのは神職の中でも最も高い地位にいる神使だけで、神主や巫女は神事や火急の用事が無ければ近寄ることもしないとかなんとか。

 宝珠の御魂を宿しただけの小僧狐が入って良い場所ではない。それくらい知識のない翔でも空気を読める。


 なのに、腕から飛び下りたギンコがジャージをつよく引っ張る。いつまでも引っ張るので翔の方が折れるしかない。


「あーもう、分かったわかった。青葉たちには見つかったら、いっしょに怒られてくれな」


 もちろんだと一声鳴くギンコに苦笑すると、翔は本殿の木造階段をのぼる。

 本殿の扉前に立つと、肌を刺す神々しい雰囲気に生唾を呑んだ。漂う空気が言っている。小僧狐の入って良い場所ではない、と。


「ギンコさん。すげえ入りづらいんですけどぉ」


 冷や汗を流しながら言葉を濁す翔に、うんっと首を傾げ、ギンコは鼻先で扉を押した。

 するりと中に入って簡単には入れるよ、と教えてくれるので思わず泣きそうになる。ギンコ、違うのだ。物理的に入りづらいと言っているのではない。立場的に入りづらいと言っているのだ。ああもう、早くおいでと鳴いてくるし。


 翔はその場で両手を合わせると、心中で謝罪した。


(ごめんなさい。お邪魔させてもらいます。用事が終わったら、すぐ出て行きます。だから祟るのは勘弁してください。まじでお願いします!)


 謝罪は少々必死であった。

 閑話休題、翔は恐る恐る本殿へ足を踏み入れる。

 驚くことに室内には灯りが点っていた。

 常に蝋燭を焚いているのだろうか。いまは人間の身であるため、夜目が利かない翔は、目を凝らしながら仄暗い本殿の中を一望する。四面を囲っている壁に余計な装飾は一切ない。

 代わりに二つ巴の印が大きく描かれていた。床にもそれが描かれていることに翔は興味を抱く。


「あ、」


 向こうに祭壇がある。

 装飾されたぼんぼりは二つ、その明かり照らされる祭壇には物が祀ってあった。神饌(しんせん)の米と酒、横笛の祭器、榊の枝に紙垂(しで)を付けた大麻(おおぬさ)


 本殿の扉を閉めて、祭壇に歩み寄る翔は大麻を見つめる。


「これ比良利さんが百鬼夜行を祓ってた道具だ。それにあれは」


 祭壇中央に飾られている物に目を留める。

 衣が両袖を広げるように飾られていた。雪のように白く、穢れを知らないそれは比良利が身に纏っているものと同じ浄衣(じょうえ)と呼ばれる衣装。

 ということは、これは南の神主が身に付けていた衣装なのだろう。


(……でかいこと言っちまったけど。南の神主の代わりに、俺はなれるかな)


 ちゃんと南の神主の代わりに、鬼門の祠の瘴気を解決できるだろうか。

 いや迷っている場合ではない。自分で決めたではないか。瘴気問題を解決すると。

 神様も仏様もよく分からないけれど、身近な奴らが傷つけ合うのは嫌だ。どうにかしたい。縁あって宝珠の御魂を宿しているのだから、その立場を使ってやろうと。


 ヒトの世界に置いてきたものは大きいけれど、それでも翔は異界を選んだ。妖として生きる道を選んだ。

 自然と握り拳を作ったところで、ギンコが足元で鳴いてくる。


「これを俺に見せたかったのか?」


 しゃがんでギンコと目線を合わせると、可愛い狐の頭を撫でた。

 か細い声で鳴くギンコは二足立ちをして翔の体に足を置くと、やさしく頬を舐めてきた。力なく尾っぽを振り、じっと翔を見つめてくる。


 目は訴えるのだ。

 ここには誰もいないよ、いないよ、大丈夫だよ、と。


 声なき声にまばたきをしてギンコを見つめ返していた翔は、嗚呼、と言葉にならない声を漏らす。そしてくしゃくしゃに笑った。必死に笑おうと努めた。


「なあギンコ。見てくれよ」


 その場で胡坐を掻くと翔は銀狐を腕に抱いて、袴丸薬(はかまがんやく)に入った巾着袋を開いた。

 黒光りしている丸薬は真ん丸と楕円の二種類がある。真ん丸は比良利お手製で、楕円は翔お手製。初めて作った薬はなかなか不格好になってしまった、と翔は話す。


「たいへんだった。水あめを混ぜてさ。生地にして棒状にして、それを包丁で切って、丸めるんだけど全然真ん丸にならねえの」


 まあ見た目は不格好だが初めてにしては上出来、効力はあるので良しとしよう。

 それが比良利からの評価だったが、今度は上手く作りたい。

 翔はくしゃくしゃに笑い続ける。


(りき)ぶくれが治ったら、俺は一人前の妖狐になる」


 ヒトの血はすべて捨てる。半妖ですらなくなる。妖狐となるために。

 それでいいし、それがいい。

 翔が選んだ道だ。


「妖になって異界(ここ)で生きる。そう決めた」


 今さら選択を変える気持ちはない。

 人里で妖祓に囚われていた日々を思うと、半妖ですら生きにくいと思ってしまった。翔はヒトの社会ではきっと生きることはできない。


 だから選んだ道はきっと正しいのだ。正しいのだけれど。


「後悔がないって言ったら、やっぱりうそになる。これで良かったのかなって……ちょっとだけ迷っちまうな。情けねえことにさ」


 異界に戻ってずっと虚勢を張っていた。

 それをギンコは見透かしていたのだろう。医者の一聴に診てもらっている間、鎮守の森で散歩している間、比良利と丸薬を作っている間、翔はずっと自分の心にうそをついていると、見抜いていたのだろう。


 だから簡単には入れない本殿に誘ってくれたのだ。

 ここなら正直になっても、誰も叱る者がいないとギンコは知っているから。

 もしかするとこうなることを知って、鬼ごっこを始めたギンコと翔を誰も止めなかったのやもしれない。

 おかしいと思ったのだ。嫉妬深いツネキが邪魔しなかったことに。ああくそ、今度会ったらきっとハナタレ小僧だと死ぬほど馬鹿にしてくるに違いない。想像するだけで腹立たしいが甘んじて受け入れよう。いまの翔は文字通り、ハナタレ小僧だ。


「捨てるもの、すげえ……大きいな」


 小さく鳴くギンコに涙腺が緩んだ。

 鼻水を啜ると、何度もジャージの袖口で目や鼻を押さえる。


「青葉たちには絶対に内緒だぞ。本殿に入ったことも、俺と過ごす時間も……」


 何もかも、二人だけの内緒だと翔。


 うん、首を縦に振る銀狐に「絶対だからな?」と念を押す。

 うん、ふたたび首を縦に振るギンコに「絶対の絶対だからな?」と、翔は釘を刺す。

 うん、また一つ首を縦に振る優しい獣に「ばれたら俺が怒られるんだからな?」と翔は俯き、おどけるように笑声を零した。


「今日かぎりだ。俺が人間を名乗るのは――明日からは妖として生きる。俺は半人前の妖として、一人前の妖になれるようがんばるよ」


 そのために少しだけ泣き言を吐かせてほしい。


「ギンコ。俺だめだった。妖の俺は受け入れてもらえなかった」


 せめて心だけはヒトのままでいてほしい。

 そう大好きな人たちから願われてしまった。

 しょうがないのだ。求められているのはヒトの自分なのだから。妖の自分は化け物で、おぞましくて、不気味な存在なのだ。人間にとって妖とはそういう生き物なのだ。


「妖になっても何も変わらないって言われたけど、おれは変わっていく。どうしても」


 朝昼を拒み、夕夜を求めるようになった。喧噪な人里よりも、静寂な異界を好むようになった。気色が悪いと思うかもしれないが、スズメやカラスを見て食欲が湧くことが多くなった。常々狩りたいと思っていた。

 翔は変わっていく、狐の化け物として身も心も。


「あいつらの気持ちは分かっていたのに。心配も分かってたのに。守ってくれていることも分かってたのに……むりだった。ヒトのままでいられなかった。俺は苦しかったんだっ、おれはずっと」


 ずっと、ずっと、ヒトの心をもったままでいてね。

 懇願にも似た想いは翔の胸に深く突き刺さった。

 では心身変わっていく南条翔は幼馴染らにとって何者なのか。おぞましい存在なのか。忌まわしい存在なのか。不気味な存在なのか。

 いやもっと単純な話、いまの自分は受け入れがたい存在なのだろう。

 そして変わっていく己を受け入れられないと忌避する幼馴染らを、妖を恐れるヒトの価値観を翔も理解できなくなっている。


 このまま人里にいても、きっと翔は幼馴染を、両親を、翔を知る人間たちを傷つけるだけだ。


「あいつらの心を俺は踏み躙った。傷つけた。裏切った……恨まれてもしょうがない。分かっていても、やっぱりさ。つらいな。嫌われるって」


 胸の痛みを誤魔化すように大きく嗚咽を漏らし、さみしい、と本音を明かす。

 つらい。かなしい。くるしい。

 どの感情も翔の中で爆ぜているが、最も心を占めているのが『さみしい』。

 ヒトの心を失わないでと言って傍にいてくれた幼馴染らに、ヒトの価値観が理解できなくなっている自分自身にさみしさを覚える。


 両膝を立てるとギンコを抱き締めて。翔はくしゃくしゃに顔を歪めた。


「捨てたものがでかいよ……ギンコ……」


 頬を伝う雫をやさしく銀狐が舐め取る。

 傍にいると教えてくれるギンコを潰れんばかりに抱き締め、銀の体毛に顔を埋めた。気づけば声を押し殺して涙を流す。


「俺にとってぜんぶ、大事なものだったんだ。ぜんぶ、ぜんぶ」


 明日を向くために、ただひすら泣きじゃくる。


 今宵は静の夜。

 涙する翔はいま、ただの人間であり、捨てた両親、幼馴染、友人と同じ人間――捨てるものを嘆く弱さをどうか今宵だけは吐かせてほしい、どうか今宵だけは。

 

 

「……何も私は見ておりませぬよ。何も」


 勝手に本殿へ入った小僧狐を叱ろうと、中に入ろうとした巫女の青葉が静かにその場から去ったことを翔は知る由もしなかった。

 


 ◆◆◆


 

 夜が終わる。


 本殿を出た翔は泣き腫らした顔をそのままに、ギンコを抱いて夜空を仰ぐ。

 そこには墓なし金魚の群れがいた。お天道様に向かって天を泳ぐ墓なし金魚は、水平線から顔を出す朝日を浴びて姿かたちを消していく。


「消えた跡が赤い」


 朝日を浴びて命尽きた墓なし金魚の群れ。

 しかし、群れがいた証が天にはあった。赤い河となっていた。血を彷彿させるような赤ではない。お天道様の色を思わせる赤をしていた。

 ああ、だから墓なし金魚の『赤』渡りなのだ。


「お天道様に道を作りたかったのかもな」


 とてもきれいな光景だと翔は思った。

 朝日が出ることで、翔の『静の夜』も終わりを迎える。


 ヒトと化していた翔の姿かたちは、戻り始める妖力によって次第に変化していく。ヒトの耳は消えて頭には白い狐の耳が、尾てい骨からは三つの長い尾が生える。

 ヒトから妖狐に姿を変えた翔は夜明けに目を細めて、人間の夜の終わりに小さく吐息をついた。


 心配そうに鳴いてくるギンコを安心させるため、わしゃわしゃと頭を撫でた。


「ありがとうギンコ。もう大丈夫。人間の俺は夜明けと共に消えていった」


 これからは妖狐の南条翔だ。


「ギンコ、俺はいま自分のことを妖だと胸を張って言える。不思議だな、あんなに人間の一点張りだったのに」


 たとえ幼馴染らと別の道を歩もうと、これが自分の決めた道。信じて進むと心に誓った。


「俺は妖として生きる。三尾の妖狐、白狐の南条翔として」


 そのためにもまずは。


「ギンコ、そろそろ寝よう。俺たちは夜に生きる化け物だ」

 

 

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