<幕間>静かな夜に結びを
日輪の社憩殿の中庭にて。
夜明けの訪れと共に消えゆく、墓なし金魚の赤渡りを見届けていた比良利の下に巫女の紀緒が声を掛けてきた。
彼女は知らせを届けてくれた。
月輪の社に外出していた翔が銀狐の帰ってきたこと。湯あみをさせたこと。疲れ切っている様子だったので、早く寝るよう促したことを。
幽閉から封印、妖祓からの脱出と別れ、これからの覚悟……いっぺんに経験したせいで疲労が溜まっていたのだろう。
紀緒が部屋を覗くと、仔狐はすでに寝息を立てていたそうだ。
「オツネと翔さまがいっしょに寝ることを知り、ツネキが大慌てで毛布にもぐりこんでいました。三匹仲良く夢を見ています」
「さすがのツネキもぼんとオツネが同じ寝床で過ごす、は堪忍ならなかったようじゃな」
袴丸薬を盗った際は、意図を汲んで見て見ぬふりをしていたというのに。
心が広いのか狭いのか分からない狐だ。
肩を竦めて懐から煙管を取り出していると、紀緒が遠慮がちに話を切り出す。
「僭越ながら。翔さまの力ぶくれについてお聞かせ願えますか。原因はすでに分かっているのでしょう?」
刻み煙草を詰める手が止まる。
「あれほどの重い力ぶくれは、翔さまご自身の成長によるものではない。それはわたくしの目から見ても明らかです。外的な要因で症状を患ったこともある程度、推測しておりまする」
「そうじゃな」
「一聴さまは今宵だけでは原因を突き止められないと仰っておりました」
「わしにも同じことを言ってきた」
「何かを掴んではいる様子でした」
「それは紀緒、お主も同じじゃろうて」
口を閉じる紀緒の隣で煙管を吸い、たゆたう紫煙を睨む。
いまの比良利からは何も言えない。医者の一聴が原因を一切口にしなかったのだから、比良利からも安易なことは口にできないのだ。
ただ、そう、ただ。
「紀緒よ」
「はい」
「お主はお主の立場から己のできることをすれば良い。わしはわしの立場から己のできることをこなす。なにぶん、神主は『頭領』の肩書きを担う立場ゆえ、お主より遥かに手厳しいことをせねばならぬ」
「存じておりまする」
「すまぬな。わしから言えることはこれ以上ない」
「おつらい立場であることは理解しておりますよ」
「まったく、なぜわしは神主になってしまったのか。お堅いお役なんぞごめんじゃったというのに」
仔狐が比良利の愚痴を聞けば、「泣き言じゃん」と言ってきそうだ。
比良利は墓なし金魚の群れから最後の一匹が消えゆく生き様を見届けた後、紀緒に自室へ戻る旨を伝えて踵を返す。
その際、巫女に言葉を残す。
「邪な行動に気づけぬほど神職も甘くない――身内であれば尚更よ」
自室に戻った比良利は丸窓の下で書状を開く。
それは医者の一聴から受け取ったもので、内容は力ぶくれの原因について記されている。
【書状】
取り急ぎ申し上げまする。
三尾の妖狐、白狐の南条翔さまのお身体は健康にございます。半妖の状態で改めて診察する予定ではございますが、静の夜を迎えた今宵のお身体に異常はございませぬ。
問題があるのはやはり『妖力』でありましょう。
妖力の成熟が見受けられるのと同時に、ただのヒトの身であられても『妖力の成熟』が診断できました。
本来、半妖が人間に戻ると『身に宿った妖力』を感じ取れませぬが、翔さまは腹部を触るだとそれが感じ取れました。妖力が表に出ようとした証です。
また翔さまの左腕にあった切り傷を針で縫っていた際、血のニオイに『狐のニオイ』が混じっておりましたが、静の夜を迎えた半妖にはありえない症状です。
静の夜は半妖にとって妖力の一切を失う夜。
であれば、元々人間の子である翔さまの血から狐のニオイなどするはずがないのです。
鼻の良い獣であれば血からでなくとも、汗や唾液などで狐のニオイを感じ取ることが叶うでしょう。
おおよそ、これは――。
(ぼんを無理やり妖狐にしようと、成熟した妖力が体を蝕んだ結果、か……)
比良利は銜えている煙管をゆっくりと吸う。
(血に交じった狐のニオイ。あれは確かにわしも不可解と思っていた)
封じられた翔が比良利たちに気づいてもらおうと、護符に血を付着させ紙ヒコーキで飛ばした。何枚も折って紙ヒコーキにしてくれたおかげで、比良利たちは血のニオイが翔のものだと気づき、仔狐は岡止々支屋敷内にいると判断できたわけだが………。
狐くさい血のニオイは百鬼夜行の呼び水にもなった。
(体は正常な半妖狐、妖力は一人前の妖狐……重い力ぶくれになるわけじゃな)
そして、その原因は。
(静の夜を迎えた人間の血から『狐のニオイ』がしたということは、ぼんの成長によるものではない。妖狐の肉体なくして狐のニオイなんぞせぬ)
もちろん宝珠の御魂のせいでもない。
依り代に天命を与える神力を宿した魂は、むやみやたらに依り代を酷使することはない。
ましてや未熟な半妖に力ぶくれを起こさせるようなことをすれば、宝珠の御魂が選んだ依り代が死んでしまう。宝珠の御魂は誰もに力を与える存在だが、選んだ相手には天命と神力を与えるので、依り代を死なせるようなことはしないだろう。
一聴も力ぶくれは翔自身の妖力から生まれているものと断言していた。
これらを客観的に考えると答えはひとつ。
(ぼんの成長を無視する形で妖化が早められた)
そんなことができる手はただひとつ。
(妖化を早める妖仙薬を、ぼんは呑んだのじゃろう)
しかし、翔が自ら妖仙薬を呑むなどありえない。
今宵のように覚悟を決めていれば別だが、当初は妖狐の己を受け入れるのに時間を要すると言っていた。
なにより知識が無いのに薬を呑むほど、あれは考えなしで生きているとは思えない。
ああ見えて翔は物を考える方だ。本人はしごく考えることが苦手と言っているが、計算や計画を立てることを苦手としているだけで周りの状況はよく見ている。
封じられた時だって、霊屋にいる己を見つけ出してもらおうと状況を把握したうえで行動を起こした。
それまでだって、何かと他者を見ては行動を起こしている節があるので、翔は周りを観察する目が良いのだろう。
(竹馬の友から長年隠し事をされ、それによって目が養われたといったところか。ぼん曰く、竹馬の友に対する執着心は凄まじかったと言っておった)
まあ、それは竹馬の友にも同じことが言えそうだ。
比良利は妖祓の子らが愚直に己を調伏しようと挑み続けた光景を思い出し、お互いに似た者同士だと苦笑する。
(なんにせよ、己の妖化を早める薬だと渡されて、素直にぼんが呑むと思えぬ)
薬を手に入れてもまず猫又のコタマや比良利に相談するはずだ。
(ぼんは幽閉される直前まで、変化に一切の失敗が無くなったと聞いておる)
変化の練習をしている間、学び舎は休みだったらしい。
頻繁に月輪の社へ遊びに行き、変化を学んでいたとのこと。
妖化が早まる時期を計算すると、怪しい時期は此処だ。
(妖仙薬を作ることを許されているのは神主のみ――わしと先代南の神主しか作れぬ)
そう作れないはずなのだ。例外を除けば。
(わしも紀緒もぼんを診た一聴も、そして勘の良い猫婆も、妖仙薬を作ったのは誰か察しておる。そして、その身勝手が許されぬことも)
どのような感情を持って妖仙薬を作り、どのような欲に駆られて翔に盛ったのかは想像に過ぎないが――いずれ白日の下に晒す必要がある。
(紀緒に双子を失わせる辛酸を味わわせたくはないのじゃがな)
妖が生きる異界は人里よりも情に篤く、人里よりも残酷だ。
同胞を思う気持ちがつよい一方、悪意があれば許す心は人間よりも狭い。比良利が平然と百鬼夜行を祓えたのも、そういう気持ちがあってこそ。
悪意があればいびつな化け物であろうと、それは同胞ではない。目には目を歯には歯を、悪意には悪意を、命に命を、異界はそのような規律で成り立っている。
比良利は医者の一聴が帰り際に言った言葉を思い出す。
『赤狐の比良利さま。一聴めの願いを聞いてくださりましょうか』
『願い?』
『これはたとえ話。とあるところに、千の命を救う医者がおりました。その医者が凄腕にございましたが、ある日ひとりの妖に一目惚れをしまする。さりとて一目惚れした妖には番いがおりました。嫉妬に狂った医者は番いを殺めてしまいました』
『…………』
『それまで千の命を救った腕があろうと、やはり一聴めは医者を裁かれるべきと思いまする。救った命の重み、奪われた命の重み、それらを秤にかけた時、取り戻せない方に比重は傾くもの――比良利さま。いびつな化け物であろうと我々は命を取り戻せぬのですよ。止めるなら今しかございませぬ』
比良利は煙管の吸い口を噛み締める。
「世の理から爪弾きされた我らにも取り戻せぬ命、か……皮肉なもんじゃな」
死者から生まれる妖もいるというのに。
妖の存在とはなんだろうか、と柄にもないことを毒づいてしまった。
「やれ明るい話も暗い話も待ってくれぬ。これから忙しくなるのう」
指先に青白い狐火を生み出すと、比良利はそっと書状を燃やす。
塵となった書状はこう結ばれていた。
比良利さま。
翔さまは三度袴丸薬を呑まれたそうですが、三度目は効果がなかったと聞いておりまする。丸薬の効力よりも翔さまの妖力が上回り、薬の効力が無効化されたようです。
当時の状況を聞くかぎり、翔さまは宝珠の御魂の鼓動を感じたそうで。
宝珠の御魂を感じたと笑っていた翔さまを目にして一聴めは思いました。
この子どもは無意識に宝珠の御魂のチカラを引き出そうと……いえ、宝珠の御魂と一体になろうとしたのではないか、と。
ただの付喪神の憶測にございますが、依り代の比良利さまなら分かるのではないでしょうか。
あの時、翔さまは宝珠の御魂と――。
「共鳴していたというのならば、末恐ろしい狐じゃな。南条翔という小僧は」




