表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【肆章】九代目南の神主代行
57/158

<五>北の神主、問う(弐)



 ※



 時は寅の正刻。

 行集殿で比良利の指導の下、厳しい稽古を終えた翔は湯殿に向かっていた。掻いた汗を流すためである。また白張を洗うためでもあった。


 毎度のことながら、稽古は滝のような汗を流すため、一日使用した白張は必ず洗うようにしている。


 でなければ大変汗臭い。一日でも放置すれば地獄を見る。狐の五感を持つ翔は、己の体臭に鼻が曲がりそうになったことがあった。そのため、なるべく白張は洗うようにしている。


 しかし疲労困ぱいしてしまった時は、風呂にも入らず、そのまま寝てしまうことが多い。そうなれば勿論、白張は悪臭を放ち、痛い目を見ることになる。


 すると、紀緒が薫物(たきもの)を使ってはどうかと助言してくれた。


 曰く、それは種々の香を調合して作った、練り香だという。

 これを焚いて体臭を消すらしく、ヒトの世界では平安時代、月一度程度しか風呂に入らなかった貴族達が使用していたそうだ。


「へ、平安時代って……風呂に月一しか入らなったのかよ」


 風呂に入る習慣が当たり前の翔にとって、一ヶ月も湯に浸からない生活など、考えがたいものである。四季折々を楽しみ、鮮やかな着物を纏う、当時の貴族は垢だらけのふけだらけだったのだろうか、と想像。

 ついつい身震いをしてしまったのは余談にしておく。


 とにもかくにも、どうしても洗えない時は使ってみると良いと紀緒に言われたため、翔は試しに梅花(ばいか)の練り香を焚いてもらった。


 梅に似た香りが鼻腔を擽り、その匂いは確かに体臭を消してくれる。が、異様なほど白張に染み付き、稽古の時ですら気になったため、やっぱり毎日洗おうと決心する。薫物は最後の手段として取っておこう。


 妖になる前までは洗濯一つ気にすることなく、服など数日同じものを着用していたこともあったが、狐の五感を持つと色々不便である。

 人間に化ければ五感に悩まされることもないだろうが、もう暫くは人型の妖狐のままだろう。


(今日も水浴び後に洗濯板で白張を洗わないとなぁ)


 翔は面倒だな、と思いながら廊下を進む。

 その後ろを、ひょこひょことギンコとツネキがついて来るため、ぴたりっと足を止めて振り返る。


 すると二匹も足を止めた。


「俺。風呂に行くんだけど……」


 期待に尾を振ってくるギンコと、重い重い溜息をつくツネキを交互に見やる。なんでついて来るのだと尋ねかけたが、きらきらと上目遣いで見つめてくる銀狐に押され、思わず口を閉じてしまう。


 読めた。一緒に風呂に入りたいのだ、この狐。


 翔自身、狐と風呂に入ることに、まったく躊躇いはないものの、妖狐達の視点では男女仲良く混浴しているようなものだ、当然、許婚が許さないだろう。

 いまいち狐の価値観が分からない翔だが、以前青葉から教わった知識を手繰り寄せ、やんわりと断りを入れる。


「ギンコ。俺はオス狐だ。若いメス狐と一緒に入るのはちょっとなぁ。お前には、許婚もいるし」


 しっかりとツネキのことを気遣う。狐火はごめんである。

 すると賢いギンコは、先を読んでいたらしく、ツネキを尾っぽで指した。彼も一緒に入るから文句はないだろう。以前も青葉と自分達で入ったではないか、そう言わんばかりに鼻高々と鳴き、ぶんぶんと尾っぽを振った。


「うへえ。お前。そこまで見越して、ツネキを連れてきたのかよ」


 狐の機転に、思わず脱帽してしまう。

 翔はツネキを一瞥する。金狐は耳を地に垂らし、それはそれは重い溜息をついていた。


 この様子だと、ギンコは強い我が儘をツネキにぶつけたようだ。大かた、大反対したものの許婚の我が儘と誘惑に負けて、渋々承諾したとみる。彼女と一緒に風呂に入れる嬉しさ半分、複雑半分といったところだろう。


 はてさて、どうしたものか。前回は白狐になって共に入ったが、今回の狐に変化できるかどうか。


「うーん。妖狐達からしたら、不健全に見られねーかな」


 翔が腕を組むと、ギンコが可愛らしく鳴いた。こんなにも稽古を頑張っているのだから、自分にご褒美をくれと言っているらしい。我が儘なお狐様である。

 その我が儘なお狐様に弱いのが翔だ。心底猫かわいがり、じゃない、狐かわいがりしているため、基本的にギンコの我が儘に弱い。それはきっとツネキも同じだろう。


 顎に指を当て、思案をめぐらす。


 ツネキもいることだし、変に意識しても仕方がない。狐の体に興奮するわけでもないし、裸体は人間の女性に限る。ギンコだって、ヒトの姿より狐の姿を好む。まあいいだろうと結論付けた。


「分かった。じゃあ一緒に入ろう。頑張っているお前等を俺が綺麗にしてやるからな」


 頬を緩め、翔は二匹の狐を腕に抱く。

 それはそれは嬉しそうに尾っぽを振るギンコ、その一方でツネキはやっぱりこうなるのかと四肢を垂らした。


「あ、なんだよツネキ。その目は」


 じっとりと、不機嫌に見上げてくるツネキは、彼女に変なことだけはするなよ、と言わんばかりに唸った。とんだ言い掛かりである。


「お前なぁ。比良利さんじゃあるまいし」


 翔は疲れたように肩を落とした。狐相手にどうやって変なことをするのだ?



 こうして、和気藹々金銀狐と湯殿に向かった翔は、先に狐達を浴室に入れ、自分はいそいそとジャージやら下着やら手ぬぐいやらを準備する。


 勢いで妖の世界に飛び込んだせいで、翔の私服は少ない。


 しかし、気の利く友人が現代育ちの自分のために、下着は必要だろうと新品のものを贈ってくれた。でなければ(ひとえ)だの、大口(現代でいう十分丈のトランクスのようなもの)だの、肌小袖だの、(ふんどし)だの、時代を思わせる用意されてしまう。

 現代っ子の翔には着こなす自信がなく、しかもそれを比良利に聞く勇気はない。当然、女性の青葉や紀緒に聞くなど、言語道断な話。


 翔は有難く雪之介の厚意を受け入れ、これからも必需品は頼んでよいかと縋った。


(妖の世界の住人って、何かと時代を感じさせるんだよな。長寿だからか?)


 おばばは戦国生まれ、比良利は江戸生まれ、青葉は幕末生まれ……時代を感じる筈である。

 つくづく、平成生まれの雪之介の存在が有難い。翔は彼に今度お礼をしなければ、と思考を巡らせながら浴室に足を踏み入れた。

 すると早速ヒノキの香りがする大きな浴室で、狐達がばちゃばちゃと泳いでいた。


「また俺が保護者をしなきゃいけないのかよ」


 翔は額に手を当てる。ここはプールではないのだが。


「こらギンコ。ツネキ。先に体を洗え、体を! 風呂のマナーだろ!」


 注意して狐達を湯から掬い上げる。

 怒られた意味を分かっていない狐達を外に出し、まずはツネキに湯を浴びせて、わしゃわしゃと石鹸で洗った。盛大に嫌がるツネキに暴れるなと一喝。胴を両手でマッサージしてやり、綺麗な金色の毛に付着している汚れを丁寧に落としてやった。


 今か今かと待っているギンコを手招きすると、同じように銀色の毛に付着している汚れを丁寧に落とす。

 見事に泡だるまになる二匹に笑いを零し、交互に湯を流して泡を落としてやる。


 さて次は自分の番だ。

 鼻歌を歌いながら、自分の三尾の一本を前にもっていき湯をかける。


「尻尾って、手入れがメンドクサイんだよな」


 体以上に汚れが目立つ。自分の毛色が白だということもあり、念入りに洗わなければいけない。尾が生えるとは面倒である。


「比良利さんとか六本もあるけど、どうやって手入れしてんだろ。完全な人型になっているのかな?」


 すると、頭の上に桶をのせたギンコが、のらりくらりとやって来た。自分も洗う手伝いをしたいらしく、長い尾で石鹸を持つと、放置されている翔の尾の一本にそれをこすりつけた。大変器用な銀狐である。


「上手いうまい」


 ギンコを褒めていると、彼女を取られて面白くないと思ったのか、それとも先ほどの礼なのか。ツネキも輪に入って、嫌々三本目の尾を洗ってくれる。


「ツネキもあんがとな」


 助かると手を挙げ、仲良く洗いっこする。フンフンと鼻を鳴らすギンコ、許婚に付き合うツネキの溜息すら笑いの種だった。


 極めて健全な入浴を終えると、ジャージに着替え、脱ぎ捨てていた白張を持って井戸へ向かう。


「洗濯が終わったら出店を覗いてみっか」


 綺麗さっぱりになった狐二匹と足並みを揃え、後で参道に行ってみないかと誘う。たまには遊んでもいいだろう。


「なんかお勧めの店とかあるか?」


 ギンコとツネキが顔を見合わせ、それぞれ鳴いてくる。申し訳ないが、ちんぷんかんぷんである。


「できたら、食い物の店がいいんだけど。腹減ってきた。俺、おばばから少しだけ、金をもらってるから、なんか買ってやるぞ」


 だったら良い店があると、ギンコが尾っぽを立てて、ふくらはぎを押してくる。洗濯が終わってからだというのに、銀狐はどうしても行きたい店があるようだ。

 すると、ツネキが抗議するように、尾っぽを左に向け、きゃいきゃいと鳴き始める。おおかた、こっちの方が良い店だと主張しているのだろう。

 瞬く間に喧嘩が始まり、翔は困ってしまった。手の掛かる許婚達である。


「分かったわかった。どっちも覗いてみようぜ。な?」


 ぎゃあぎゃあ騒ぐ狐達と共に、裏手の井戸にたどり着く。


「あれは」


 先客がいることに気付き、白張を脇に挟むと慌てて狐達を抱え、建物の陰に隠れる。

 どうしたのだ。見上げてくる狐達に人差し指を立て、翔はそっと井戸の方を覗き込んだ。


 向こう側に見えるのは、巫女装束を身に纏った黒髪の少女。髪を一つに結っている後ろ姿は誰でもない、青葉だ。

 笊一杯の野草を洗うために井戸を訪れたようだ。能面のまま縄を手繰り寄せ、井戸の桶を引いている。心は読めない。


(……青葉)


 翔は無意識に警戒心を募らせてしまう。

 薬を盛られた、その現実が杭となって胸に刺さっている今、心構えを持って彼女に接しなければ本音が零れそうなのだ。そう、薬を盛って自分をどうしたかったのか? と、尋ねそうな自分がいる。かろうじて保っている関係を壊す言動を起こしかねない。


 きょとん顔のギンコに対し、ツネキが察したのか、ぎこちなく翔のジャージを食んで引いてくる。


 金狐の気遣いに頷いて視線を戻した。出直してきた方がいいのかもしれない。




「ぼんが一人前の妖になれず、安堵半分、遺憾半分という顔じゃのう。青葉よ」




 この声と、独特の口調は北の神主。

 足の裏が大地に縫い付けられたように、ぴくりとも動かなくなってしまった。

 再び物陰から、そっと視線を流す。そこには浄衣の袖を夜風に靡かせ、巫女に歩む比良利の姿。


 能面こそ崩れないものの、青葉の表情は青褪めていた。神主に向かって恭しく会釈する彼女の手から縄が手放され、桶が音を立てて井戸底に落ちていく。

 からからと鳴り響く滑車が鳴り止むと青葉は俯いていた顔を上げ、仰る意味がよく分からない、とシラを切る返事をした。


 本当は分かっているだろうに、彼女は誤魔化すつもりなのだろう。自分の罪の重さを自覚しているゆえ、なのだろうか? 翔は青葉の気持ちが察せずにいる。


「分からぬ、か」


 吐息をつく比良利は、それならそれで良いと静かに答える。


 青葉の摘んだ花のついた野草を手に取り、それを指で回しながら全体を眺める彼もまた、能面に近い表情をしていた。心なしか巫女は身を小さくしている。比良利を恐れているようにも見えた。


 笊に野草を戻し、北の神主がそっと口を開く。


「正直に答えよ、青葉。お主はぼんの神主代行をどう思っておる?」


 問いに巫女は思案する素振りを見せた。答えを探している青葉を余所に、比良利は言葉を重ねた。


「いずれ、ぼんは神主の器となろうのう」


 今は代行を志しているが、彼のような輩は必ずのし上がってくる。遅かれ早かれ神主の器に成熟すると、自分は睨んでいる。


「あれが真の神主になる日も、近いやもしれぬのう」

比良利は懐から煙管を取り出すと、指先に火を点し、ゆっくりと先端を銜えた。


「まことのことでしょうか?」


 食い下がるように意見する、青葉の表情が一変する。

 怯えが消え、激情を宿した瞳が比良利を捉えた。


「ご贔屓をしているのではありませぬか?」


 彼女の口から思わぬ言葉が出たため、翔は声が出そうになった。どうにか嚥下し、高鳴る鼓動を抑えながら聞き耳を立てる。

 贔屓という言葉に反応した比良利が、それこそ、どういう意味かと尋ねる。彼女は我に返ったように、決まり悪く顔を顰めた。表に出すつもりはなかったようだ。


 しかし言ってしまった以上、言わねばならないと思ったのだろう。


 意を決した面持ちで青葉は意見した。

 贔屓とまではいかないが、北の神主は少々、あの少年を色眼鏡で見ているところがある。宝珠が宿っているあの少年は、半ば強制的に重宝を得ただけ。大層な才能があるともいえない。


 なのに、比良利は少年を代行にしようとしている。ましてや、神主になると口にしているなんて、正直自分は納得がいかない。巫女は吐露した。

 本音を言えば、南の神主代行すら納得していない。少年が先代の代わりなど務まるものだろうか! 青葉は苦言を露にする。


「翔殿が頭領になれる器とは思いません。神主舞もお粗末でした。日月の神主舞は惣七さまがあってこそです。大麻だってろくに使えません」


 なにも、そこまで言わなくても。翔はうなだれてしまう。これでも、努力はしているのだ。努力は。



「彼は妖の世界に入って間もない子。私から言わせてもらえば、オツネから無理やり宝珠を持たされたただの少年にございます。代わりなど無理がございます。決して悪い子ではないと思いますが、比良利さまの対は今昔変わらず惣七さま、ただお一人です。なのに、どうして神主の器があると言えるのでしょう?」



 宝珠が選んだからでは、理由にすらならない。

 堰切った青葉の呼吸は忙しない。気持ちが昂ぶっているらしい。随分、溜め込んでいたようだ。

 袴を握り締め、気持ちを静めようとする巫女に対し、比良利は努めて冷静に返す。


「だから、ぼんは薬を盛られたと? 才がない、そんな理由で命が脅かされたというのであれば、あやつはとんだ災難じゃのう」


 それこそ理由にすらならない。

 比良利は純粋な疑問を口にした。誰が犯人と述べているわけではない。ただ、哀れむように、その命を狙われた子どもに同情した。


 青葉の顔色が青から土色に変化していく。気付かない振りをする比良利は紫煙を吐き、たゆたう煙をじっと見つめる。


「青葉よ、お主は一つ勘違いしている。お主はわしがぼんを代行にしたと思っているようじゃが、わしは一言も、ぼんに代行になれとは言っておらぬ」


「え」蚊の鳴くような声を漏らす青葉に、


「ぼんがわしに頭を下げたのじゃ」


 比良利は真実を語る。熱意を買い、それに報いるため、稽古をつけている。ただそれだけなのだと、赤狐は糸目をつり上げた。

 寧ろ、自分も生半可な気持ちで代行をしたいのならば、やめた方がいいと言った側。それを蹴ってまで、あの少年は北の神主に頭を下げ、代行になりたいとこいねがった。


 少年は頭領になりたいのではない。妖達の上に立ちたいわけでもない。ましてや、神主の座を狙っているわけでもない。


 妖とヒトの調和を取り持ちたい、その一心で代行を目指している。鬼門の祠から溢れ出した瘴気のせいで、愛すべき妖やヒトの暮らしが脅かされていると知ったから。


 だから、あの少年は神主の器があるのだと比良利。彼は妖を愛し、一妖を最優先しなければいけない神職に向いた性格をしている。


 確かに先代に比べると凡才だろう。

 けれど、神主舞を九日で習得し、修行用の大麻を二週間以内に使えるようになった。十分、神主候補だと名乗れる域だ。迷いのない志と、底知れぬ執念の深さは此方が怖じるほど。


 些少のことでは折れない不屈の精神が、あそこまで少年を成長させている。他者に強制されて目指す代行など、評価にすら値しない結果が出ていたことだろう。


「あやつがここまできたのは、強い志があってこそのもよのう」


 比良利は肩を竦め、まさか自分が少年を贔屓しているように見られていたとは、と吐息をつく。

 慌てて謝罪する青葉だが、彼の心には響いていないようだ。


「ぼんに感化され、オツネも守護獣として、才が一皮剥け始めた。皆、前進しておる。青葉、お主も惣七に囚われてばかりでは何も変わらぬ。お主は七代目南の巫女じゃ」


「だから忘れろと? そのようなこと、私にはできませぬ」


 泣き顔を作る青葉は皆、先代を忘れ始めていると一層袴を握り締めた。対となっている北の神主も、先輩の巫女も、守護獣達も、自分の保護者を買ってくれている猫又も、先代のことなど忘れ、新たな神主候補をすんなり受け入れようとしている。


 それが気に食わないのだ。しゃくり上げる青葉の悲痛な叫びに、翔は息を呑んだ。これこそ彼女の心の奥底に潜んでいた本音なのだろう。

 知らず知らずの内に腕の力を強くする。狐達が見上げてくるが、気にする余裕はない。


「惣七の死を悼まぬ者などおらぬよ。青葉」


 比良利の平坦な声が、青葉の動きを止める。剥がれ落ちる心を垣間見せる巫女に、北の神主は彼の犠牲に誰もが涙し、誰もが哀しんだと告げ、あまりにも早い死に絶望したと天を仰ぐ。


 青葉だけではない。

 みなが悲しみ、絶望し、死に涙した。何故このようなことになったのだと慟哭した。悪しき妖がヒトと手を結び、彼を罠に貶めた事実は殺意すら湧いた。やり切れない思いを抱いたのは、青葉だけではないのだ。


「じゃがのう、我らは神職を携わる者。前に進まなければならぬ。いま、ここで生きる妖達のためにも」


 忘れるのではない、思いを留めて前進するのだ。


「青葉よ、お主は惣七に似て才溢れるおなごじゃ。惣七はお主に期待を寄せておったし、わしもお主の才能の豊かさには、たいへん驚いたもの。何を教えてもすぐ己のものにするのじゃから」


 しかし。


「お主は惣七の短所も受け継いでしまった。思いが先走り、他者の心を疎かにする一面がある。お主の惣七への思いは時として刃であり凶器。他者を傷つける」


 思いは欲となり、やがては悪意と変わる。どのような理由があれ、他者の命を奪うなど言語道断。

 惣七は哀れにも欲のある輩の犠牲となった。

 同じように、少年も欲のある輩の犠牲になるところだった。命奪われる身に理由など純も不純もない。奪われたらそれで終わりなのだから。


「青葉、お主に問おう。犠牲になる者はどのような思いを抱いて散っていくのかのう。自分の思いに綺麗事を述べても、相手は命を奪われたしか思わぬと、わしは思うのじゃが」


「あ」畏怖の念を抱いたのか、青葉の表情が変わる。


 怒ったり、青褪めたり、能面になったり、巫女の顔はまるで信号機のようだと翔は思って仕方がない。


「ぼんは強い意志を持って命を繋ぎとめた。しかし、死ねばどう償うつもりだったのか輩に問いたいものよ」


 比良利は踵返す。


「惣七を想い続けたいのならば、巫女をやめるが良い」


 一妖を優先できない巫女など、宝珠も神職も民達も必要としていない。何故、己に巫女の証が出ないのか、いま一度よく考えてみるが良い。


「覚えておくがよい。どう弁解しようが、私利私欲に他者の命を狙った時点で、惣七の命を奪った輩と同類じゃ」


 冷たく告げて足を動かした。

 何もかもを見透かしたように、辛らつな言葉を置いて去っていく比良利を見送ってどれほど経ったか、青葉はしゃがみ込んでしまう。

 組んだ腕に顔を埋め、何かに耐えるように身を震わせていた。とうてい声を掛けられる空気ではない。翔にはどうすることもできず、ただただその場で佇み、息を殺して狐達を抱き締める。


 自分の決意は間違いだったのだろうか? 思い悩みながら、いつまでも。



『青葉』



 と、しゃがれた声音が鼓膜を振動する。


 井戸に視線を戻すと、猫又が優しく鳴き、しゃがみ込んでいる少女の前に座った。一部始終を見ていたようで、おばばは哀しげに鳴いている。


「おばば様っ」


 上擦った声を零す青葉は、ぬくもりを求めるように、猫又の身を抱き寄せた。


「分かっているのです。自分の罪は分かっているのです」


 弱い心を曝け出す。

 自分はどうしても許せずにいた。新たな南の神主が誕生することに、先代の面影が薄れていくことに、見ず知らずの少年が証を持つことに。


「私は百年以上、巫女を続けているのに……証が出ませぬ」


 二ヶ月足らずの少年には証が出ているのに。

 それが劣等感を駆り立て、余計に翔を許せずにいた。心のどこかで妬んでいた。


 嗚呼、すべては銀狐のせいだ。あの子が此方の忠告を無視して外界に出るから、少年と狐は出逢い、宝珠を他者に手渡すはめになった。あのような人間の子供に。銀狐は先代を怨んでいる。だから平然と宝珠を他者に渡せたのだ。


 しかし、妖の社を守る、此方の身にもなってほしい。


 先代が亡くなって九十九年、献身的に妖の社を守ってきた自分の身になってほしい。


「あの方のために百年近くも妖の社を守っていたのです。私はずっと……」


 まさか、前触れもなしに神主候補が現れるなんて。先代が亡くなって九十九年、献身的に妖の社を守ってきたのに。

 常に喧嘩をしている銀狐が憎いと共に、妖になろうとしている少年が憎い。


 飄々と姿を現したと思ったら、自分の守る領域を荒し、とんとん拍子に神主代行を目指すだなんて。自分には未だ本物の巫女である勾玉の証すら得ていないのに、十年しか生きていない少年の額には既に勾玉が合わさった二つ巴を得ている。


 まるで己には資格がないと言われているようだ。


 こんなことならば初めて会った夜、少年など助けなければ良かった。宝珠だけ取り出し、妖の社に帰ってしまえば良かった。

 そうすれば、苦い気持ちを噛み締めずに済んだのに。


「けれど、けれどもっ……翔殿が悪いわけではないっ。オツネが悪いわけでもないっ。それも分かっているのです。彼が親密に接してくれるっ、その度にっ、そのたびに、私は」


 薬を盛った時の、手の震えが忘れられない。青葉が悲鳴のように、甲高い声を上げた。


『青葉……本当に坊やの命を奪おうとしたのかい? 大丈夫、わたしは神職に携える者じゃない。何を言っても比良利に告げ口はしないさ。翔の、命を奪おうとしたのかい?』


 ゆるりと巫女はかぶりを振る。


「違います。一人前の妖になってもらい、鬼門の祠の結界を張ってもらおうとっ……せめて瘴気を封じてもらおうと“御魂封じの術”を得てもらいたかった。結界を張ってもらったら宝珠を返してもらってっ、普通の妖狐になってもらうつもりだったのです」


 ただ一人前の妖になるにあたって、宝珠の力ではなく、薬の力で成熟してほしかった。でなければ、彼が神主になってしまう。


『青葉っ、それは惣七が最期に使った術じゃないか。“御魂封じの術”は、お前さんが思うほど軽い術ではないよ。未熟な坊やが使えばどうなるか……あの子も、ただでは済まないんだよ』


「それでも妖の社を守るためにはそうするしかないと思ったのですっ。鬼門の祠が壊されては、社が消えてしまいます。瘴気を防ぐことで妖達を守るためなら、些少の犠牲は仕方がないと。私にはもう、あの社しか居場所がないのです。おばば様……どうすれば、私はどうすれば」


 涙一つ零さず、けれどおばばを抱き締めて悲痛な嘆きを零す巫女。

 その慟哭が胸を深く突き刺す。体の力抜けた翔は、狐達と白張を地に落とし、居ても立ってもいられず足先を変えた。



 驚いたのは狐達だ。

 一目散に駆け出す翔の後をギンコ、白張を拾い銜えたツネキが、急いで後を追って来る。


 速度を合わせ、何処に行くのだと心配そうに鳴いてくるギンコの呼び掛けにも答えず、翔は憩殿を大回りして、参道に出ると鳥居を掻い潜った。外界を飛び出し、石段を転がるように下ると、地上で待ち受ける鳥居を軸にして反時計回りに8の字を描く。


 再び石段に足を掛け、一段越しに段をのぼった先には“月輪の社”。

 何度も草履が脱げそうになりながらも、翔は住まいにしている建物の中庭に飛び込んだ。


 白いヒガンバナ畑に踏み入れると、花達を踏まないように気を付け、苔の生えた灯篭に赴く。しゃがんで窪みを覗き込めば、小さな壷が身を潜めていた。

 これは翔があの日、青葉から盗み取った壷だ。まだ彼女には見つかっていない。


 安堵の息をつくと、それを隠すように腕に抱え、翔は表に戻って本殿に早足で向かった。追いついた狐達が両側に並び、自分に向かって鳴いてくる。

 翔は足を止めないまま、ギンコとツネキに告げた。


「また一つ、代行にならなきゃいけない理由が増えた。俺は誰に言われようと、必ず代行になる。それこそ命を狙われようとも」


 拝殿を通り過ぎ、注連縄の門を潜って本殿の木造の階段をのぼる。

 重量感ある扉に右の手を掛け、「お邪魔します」と挨拶をして押し開ける。


 草履を脱ぎ、それを持って素足で中に上がると、翔は狐達が中に入ったことを確認して扉を閉める。


 今日も祭壇のぼんぼりには火が点り、祭壇や辺りをぼんやりと照らしている。四面を囲っている壁や床には二つ巴の印が描かれ、神聖な空気を醸し出していた。

 大麻や浄衣が飾られている祭壇の前に腰を下ろすと壷と草履を前に置き、足を折り畳んで正座をする。両隣に座る狐達の頭に手を置き、「また忍び込んじまった」おばば達には内緒にしてくれよ、と一笑。


 クーンと鳴いてくるギンコに翔は大丈夫と綻んだ。


「俺は大丈夫だよ。多分、今、本当に辛いのは俺なんかじゃない。もっと別にいる。そうだろ? 先代」


 祭壇に笑みを向けた後、翔は壷の蓋を開け、無造作にひっくり返した。

 出てきたのは和書、(ふだ)、それに巾着袋。中には丸薬と、その素になる材料が入っていた。褪せた和書を手に取り、表紙をまじまじと確認する。


「五方魂・南ノ書……?」


 達筆な筆で記されている。頁を開くと崩れ文字が紙を占めていた。崩れ字はまったく読めないのだが、指をなぞっていくと、不思議なことに意味が伝わってくる。見出しの字をなぞり、翔はその字を読み上げた。


「神主舞の五方」


 比良利が翔に見せてくれた、五方結界を思い出す。あれに関係する術だろうか?


「神主、(すなわ)ち妖を導く者。その舞いにて士気を高めん。扇子、即ち神の幸願うを舞い。妖に未来永劫を示す舞い。大麻、即ち神の闘志を燃やす舞い。妖に烈火の道を示す舞い……大麻も神主舞に使えるのか」


 では、もしや妖力を高める方法とは。


 比良利の迷う素振りを思い出し、危険な舞なのかもしれないと翔は思い改める。

頁を捲ると舞の踊りの図が顔を出した。動きに一つ一つ名があり、それには意味があるのだと知る。また頁を捲ると大麻の持ち方から振り方、基礎術、中級術、上級術と段階が記されていた。


 これは神主が持つ、教科書のようなものなのだろうか。流し目に頁を捲っていた翔はある頁に目が留まり、その見出しを口にする。



「御魂封じの術。悪しきを鎮めんとする神主、即ち妖を導く者の心身術。その身、器に悪しき封ずる――青葉が俺にさせたい御魂封じの術って」







「わしもつくづく甘い。あの場で詰問し、尋問することもできたというのに。神主の名が泣くのう」


 自室に戻って煙管を食んでいた比良利は、罪深い巫女に哀れみを抱いていた。


 あの場面で裁くこともできたというのに、どうしてもそうすることができなかった。情が移ったと言ったらそれまで。自分の口から一妖を優先すべきと言った手前、矛盾する態度には溜息が零れる。


 けれども、一個人の願いとして、比良利は巫女に希望を寄せていたのだ。自分の罪を認め、いつか自分から告白してくれるのではないか、と。


 罪の重さを受け止め、後悔と反省を抱き、改悛(かいしゅん)すれば、きっと彼女はより良い巫女になれるだろう。比良利とて、このまま青葉を切り捨てるなど、年上の妖狐としてやりたくないのだ。


 九十九年、彼女は苦労して妖の社を守り抜いてきた。神主不在の中、本当によくやってきてくれたと褒めたい。


 その事実を知っているからこそ、自分が伸ばせる限りの範囲で救済の手を差し伸べたい。まだ彼女は救える。そう比良利は信じたかった。


(言い過ぎとは思わぬが、後味は最悪じゃのう。おなごの悲しむ顔を直視する羽目になろうとは……惣七、お主のせいじゃぞ)


 勝手に死に急いだ先代のせいで大好きなおなごを泣かせる羽目になったではないか。

 つくづく対として成り立たない腹の立つ男だと比良利は毒づくが、勢いはなかった。


(十代目南の神主は既に宝珠が見定めている。蕾である代行はやがて花開き、神主として名を轟かせるじゃろう。しかし、支える巫女が受け入れられないのならば……神主を変えるか。もしくは巫女を変えるか。どうしたものか)


 頭が痛くなってきた。酒でも飲もうか。酔わないとやってられなくなってきた。

 煙管を受け皿に置き、比良利は脇息に凭れ掛かってぐったりと尾を垂らした。


「こういう問題が一番嫌いなんじゃい」


 元々性分に合わないと比良利。全部惣七が悪いと四肢をばたつかせ、脇息にかじりついた。

 紀緒の胸でも揉んで癒されようか、ヤマシイことを目論んでいると頃合を見計らったように紀緒が障子を開けて飛び込んできた。


 丁度良い、顔を上げる比良利だが、彼女の切迫した面持ちに一変する。

 紀緒は比良利の前に膝を突くと、矢継ぎ早に告げた。


「比良利さま、大変でございます。南の鬼門の祠の結界、第一結界である注連縄の門が破られました!」


「なんじゃとっ」


 脇息を倒し、立ち上がった比良利は絶句する。

 そんな馬鹿な。第一結界は白狐が修繕したではないか。意見すると、彼女はこう返事した。


「妖達が第一結界に夜通し集い、結界を破ろうとした結果にございます。どうやら先方の白狐捕縛が悪しき妖達の間で広まったようなのです。今が好機だと、我々の目を盗んで行動していたようでっ、油断しておりました」


 比良利は握り拳を作り、自分の迂闊を悔いた。


「わしも油断しておった。瘴気で力を得た妖は厄介じゃ。ヒトの世界にも影響が及ぶっ……紀緒。支度せよ。わしが赴く」


「しかし比良利さま。貴方様もご無理できない身の上にございますっ。貴方様は北の頭領、民達の拠り所なのでございます」


 どうかご無理だけはおよしになって下さい。他に方法がないか考えましょう。

 畳に額をつけ頭を下げる紀緒の脇をすり抜け、他の方法はどれを取っても“犠牲”しかないのだと比良利。

 我が身可愛さに他者を犠牲にするなど、神主のすることではない。


 しかと言い放ち、半開きの障子に手を掛ける。



「紀緒、これはわしにしか成しえぬこと。わしが行かずして、誰が行く?」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ