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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【肆章】九代目南の神主代行
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<一>妖となるために



 目下、翔はヒトの世界に生まれ育った、平成生まれの人間である。


 今でこそ妖であると口にできるが、根本的に人間の中で育った子供である。


 バブル経済が弾け、暗雲の漂う日本国に生まれた翔にとって、電気のある生活が当たり前だった。決して行灯(あんどん)といった灯りは使わない。ましてや、部屋で蝋燭を使用するなど火事の原因になるからと親に止められたことだろう。


 スイッチを押せば光が点る。蛇口を捻れば水が出る。コンロのつまみを回せば火が熾きる。これが当たり前だった翔は、非常に困っていた。



 話は遡ること二十分前。

 夕暮れ時に目覚めた翔は、月輪の社に身を置いている。妖の世界を選んだ翔には帰る家がなく、居候という肩書きで社に滞在していた。


 青葉からは部屋が余っているから気兼ねなくしていて良いと言うが、さすがに何もせずに世話になるのは気が引ける。


「今の俺って、学校に通ってない。働いてもない。食っちゃ寝の生活……」


 翔の脳裏に過ぎるのは“ニート”の三文字である。自分は今、ニートになっているのでは!


 その事実に気付いた翔は少しでも恩を返そうと、青葉に手伝えることはないかと尋ねた。焦りを顔に出していたかもしれない。


 このままではニートなのだと彼女に訴えるものの、生憎片仮名に弱い青葉は首を傾げるばかり。翔の切望があまり伝わっていないようだった。

 しかし手伝いたい気持ちは酌んでくれたようだ。


「それでは、かまどを見ておいて下さい」


 今、米を炊いているため、火の加減を見ていて欲しいと火吹き竹を手渡される。


 翔は目を点にした。竹の穴を覗き込み、「これは何?」と、青葉に質問する。

 すると彼女は驚きの声を上げた。火吹き竹を知らないのか、釜で飯は炊いたことないのか、火の加減は見たことないのか。矢継ぎ早に質問を返され、翔はたじろいでしまう。


「飯は炊いたことあるよ。炊飯器で」


「炊飯器、とは?」


「飯を炊く道具だよ。電気で炊くんだ」


「それはどのようにして?」


「え、えーっと電気で熱を起こす……って言えばいいのかな」


「それは火の加減を見なくても良いのですか?」


 忘れてはならない。

 青葉は幕末生まれの少女なのだ。見た目こそ翔と変わらないものの、実年齢は150歳前後のおばあちゃんなのである。

 同じに日本に生まれようと時代が違えば、暮らしもまるで違うのは否めない。


 翔は炊飯器に興味を示す青葉の眼光に押されてしまう。いや、今は米だ。自分は妖の世界で生きていくと決めたのだ。だったら、やるべきことはひとつ。


「青葉さん。どうか俺に、この道具の使い方を教えて下さい」


 火吹き竹を彼女に差し出し、翔は頭を下げた。



 こうして火吹き竹の使い方と火の加減を見ることになった翔は、悪戦苦闘していた。これでは、まるで江戸時代にタイムスリップした気分である。


「飯焚くだけで、こんなに苦労するなんて」


 揺らめく炎に竹で息を吹きかけ、火の加減を観察する。

妖になると決断したは良いが、不便な暮らしにも慣れていく必要があるとは気が引ける。現代っ子の翔は大きな不安を抱いた。


「ここには、テレビもパソコンもねえもんな。携帯もないし、暮らしていけるかなぁ」


 けれど悪いことばかりではない。

 ぎこちない動きで火の加減を見ている翔に、青葉が何度も声を掛けてくれる。彼女と親しくなりたい気持ちを抱いていた翔にとって、これは絶好の機会だった。

 何気ないやり取りから、少しずつ親密になっていこう。密かな思いを寄せつつ、青葉の説明を熱心に聞く。


「翔殿。火が弱いです。もう少し息を吹きかけないと。もう中ごろですから。ほら“始めちょろちょろ中ぱっぱ赤子泣くとも蓋取るな”ですよ」


「それ、どういう意味?」


 焚きつく木切れに何度か息を吹きかけ、翔は首を捻った。


「上手にご飯を炊くための言葉ですよ。最初は火を弱くして、中ごろから火を強くするんです。最後の言葉は噴きこぼれても、途中で蓋は取ってはいけませんよ。という意味です」


「へえ。そんな言葉があるんだ。全然知らなかった。ごめんな、手伝うつもりが余計な仕事を増やして」


 申し訳ないと頭部を掻く。相手は目尻を下げた。


「いいんですよ。翔殿は手伝ってくれる気持ちがあって、本当に助かります。何処かの誰かさんは手伝うどころか、黒衣をあちらこちらに持っていき、飄々と部屋を糸屑だらけにして汚していきますから」


 あれはまったく手伝わないのだと、青葉は不満げに唇を尖らせる。

 獣型であろうと手伝えることはあるだろうに、誰かさんはタダで飯を食べ、のらりくらりと遊び、やりたい放題をする。守護獣として修行する気がないのなら、少しは手伝って欲しいものだと彼女は腕を組み、翔に同意を求める。


 ここでギンコの肩を持てば、相手の機嫌を損ねるに違いない。


「じゃあ俺から言ってみるよ」


 自分が言えば少しは手伝ってくれるかもしれない。

 そう告げると、是非ともお願いすると青葉は鼻を鳴らした。ギンコに対して、本当に手を焼いているようだ。いや、気が合わないゆえに……かもしれない。


 このままでは、手伝いのことで近々青葉とギンコが喧嘩してしまう。喧嘩に巻き込まれたくない翔は手を打つことにした。


 噂をすれば、土間にギンコがやって来た。

 ひょこひょこと翔に歩み、遊ぼうと鳴いてジャージを食んでくるので、満面の笑みを向けて相手を迎える。


「ギンコ。待ってたよ。ちょっと俺を助けてくれ」


 きょとん顔を作る銀狐に、炊き上がった飯を移し入れておく器、飯櫃(めしびつ)を見せ、これを居間まで持っていてくれないかと頼む。自分は食器を持っていかなければならない。手が塞がって困っていることを伝え、ギンコの力が必要だと微笑む。


 基本的にギンコは、褒めて伸びるタイプである。


 頭ごなしに言いつけてもそっぽを向く奴だと知っていたため、こうして協力を求める形を取る。


「おっ、ギンコ。上手いな」


 飯櫃を頭に載せ、器用に尾で支えながら軽足で居間へ運んで行く銀狐に、上手い上手いと褒めると、ギンコは上機嫌となった。

 すっかりやる気を見せ、食器を運ぶ翔の手伝いをしようと足元にやって来る。茶碗の束を頭に載せてやれば、得意げにそれを居間まで運んで行く。小さな手伝いだが何もしないよりはマシだろう。


 長台に食器を並べる際は、箸の向きが違うとギンコに教えられた。


 正しい向きに変える銀狐に、「ギンコは物知りなんだな」と感心の声を零す。勉強になったと頭を撫でると、鼻高々にクンと鳴いて尾を振っていた。


 こうして、仲良く夕食の準備をすると、皆で頂きます。

 獣型の獣達は長台にのって食事を、翔と青葉は座布団の上に座って夕食を取る。

 献立は白飯にシシャモ、白菜の漬物と梅干し、味噌汁と大変質素だったが翔達にとってこれが朝食であるため十分だった。


『おや?』


 青葉からご飯に味噌汁をかけてもらい、ねこまんまを楽しもうとしたおばばが、今日の白飯はところどころ焦げているねぇ、独り言を零す。

 犯人である翔は身を小さくし、ついでに耳と尾も小さくし、小声で謝罪する。


「すんません。それは俺の仕業です」


 火の加減を見る難しさに唸り声を漏らし、自分の生きていた世界がどれほど恵まれていたのか、よく思い知らされたと肩を竦める。

 しかし、このままでは悔しかったため、今度は焦げない白飯を炊いてみせると皆に宣言した。ぜひ楽しみにしていて欲しい。得意げに告げると青葉が一言。


「では薪の組み方からお教えしますね。翔殿、何も知らなさそうですから」


 翔は羞恥を噛み締めるように頬を紅潮させる。ご尤もであった。



 食後、後片付けをするために翔はギンコと共に食器を運ぶ。

 銀狐に台拭きを頼み、自分は青葉と共に皿洗い。桶に張っている水から食器を取り出し、ぎこちない手で皿を手ぬぐいで擦る。

 基本的に皿は水洗い。洗剤はなく代わりにムクロジという実を湯で溶かし、それを洗剤代わりに使用すると青葉に教えられる。また灰汁(あく)米糠(ぬか)で、脂分を取ることもあるらしく、彼女から実際に使うところを見せてもらった。


 どれも翔にとって新鮮な光景である。


「すげぇな。天然の洗剤がこんなところにあるなんて」


 小さなムクロジの実を手に転がし、宙に翳して感心する。青葉からおかしいとばかりに笑われてしまった。


「翔殿は本当に無知なのですね。今まで、どのようにお暮らしになっていたのですか?」


「こ、これから知恵をつけていくって! 青葉の手伝いができる程度に! ……あ、洗濯とかどうするの? 俺等、夜に行動するじゃん? 服とか乾くの?」


 勿論、洗濯機などないだろうから、洗濯板で揉み洗いするのだろうが。


「明け方に干すし、起床してから取り込むようにしています。ちなみに布団は替えがあるので、交互に使用し、同じく明け方に干します。月明かりでは干せませんからね」


 夜行性の辛いところだと青葉。彼女も元は人間だったため、洗濯には一苦労したという。翔は同調し、自分も慣れるまで苦労したと頷く。

 食事一つで戸惑うと意見すると、それは火の焚き方のことでしょう、と青葉。執拗にからかってくる彼女に勘弁してくれ、と両手を挙げて白旗を振る。


「火の焚き方は、これから覚えるんだ」


 次からちゃんとできるようになる。翔は脹れ面を作った。


「だからまず薪の組み方から、ご指導お願いしますよーだ」


 子供っぽさを目にした青葉が一際笑い声を大きくする。翔もつられて笑ってしまった。




 暮夜の刻になると、翔は参道の松明に火を灯し、月輪の社を光で満たす。

 とはいえ、今の翔は妖狐であるため、夜目が利いている。月明かりで十分だと思えるため、松明の火はやや眩しい。


「狐の目は便利だな」


 翔はしみじみと感心しながら、(たきぎ)を水桶に入れ、轟々と燃える火を消す。本殿の方に松明を灯していた青葉と合流すると、足並みを揃えて土間へ。

 日輪の社に赴くため、支度をしようと家に上がる翔は、ふと足を止めて青葉の姿をまじまじと見つめる。


 視線に気付いた彼女が、どうしたのかと声を掛けてきたため、翔は彼女を指差した。


「俺も、ちゃんとした人型になりたいんだけど……」


 青葉はヒトの成りとして過ごしていることが多い。耳も尾っぽも見受けられない。


「耳は別として、何をするにも尻尾が邪魔なんだ。青葉、どうやったら耳と尾を隠せるの? 俺、どう頑張ってもこれが残るんだけど」


 自分の前に三つの尾を持っていき、それを掴んで邪魔なのだと訴える。

 火の加減を見る時も、尾っぽが燃えないか冷や冷やした! 大袈裟に主張すると、「翔殿が一人前の妖になれば隠せますよ」青葉がそっと頬を崩す。


 今は“妖の器”だからできないのだと青葉。


「でもさ、今までちゃんと狐からヒト、ヒトから狐に変化できていたぜ?」


 そう意見すると、妖力が増しているせいだろうと彼女は指摘した。


「言い換えれば、それが本来、翔殿が好むお姿なのです。オツネのように獣型を好む者もいれば、私達のように人型を好む者もいます」


 これは体質だろう。青葉は自分の考えを述べた。


「私は家事をするため、わざとヒトに姿を変えています。しかし、比良利さまは翔殿のように人型であろうと耳と尾は生やしているでしょう? それは比良利さまが、そのお姿を好んでいるからなのです」


「妖型とはまた違うのか?」


「あれは、私達本来の姿であり、好む姿とはまた別物です」


 なるほど。翔は相づちを打つ。


「まあ、比良利さまの場合、お好みなど無視して人型になっているのでしょうね。大抵、狐から妖狐になった者は獣型を好みますから」


「なんで無視してんの? 獣型が好きなら、それで過ごせばいいじゃん。ギンコみたいに」


「人型の方が神主に適している姿だと思ったのでしょう。あの方は飄々とした助兵衛ですが……あ、なんでもありません。とにかく飄々としてはおりますが、非常に努力されているお方なのですよ」


 鬼才と称されていた九代目南の神主と、同期であり双子の対であったため、余計に腕を比べられ、大変苦労していたと青葉。

 先代、天城惣七も表にこそ出さなかったが、比良利の並々ならぬ努力を高く買っていたという。


 例え、惣七に劣っていようと自分を卑下せず、妖のために先導する姿は立派。寧ろ、庶民からは圧倒的な支持があった。何故ならば彼は、力のない者達の目線に立てる狐なのだから。

 才に恵まれ、妖達から愛されていた惣七だが、時に立場の弱い妖の気持ちが理解できずに苦しんだという。


 彼は時折、このようなことを言ったそうだ。


『比良利がオツネを面倒看ていたら、きっと優秀な守護獣にしていただろうな』


 現にツネキを、優秀で立派な守護獣に育て上げている。自分にはできなかったことを、比良利はしてみせた。惣七はいつも、比良利の努力に尊敬し、羨ましがっていたそうだ。


「とはいえ、ご本人には直接申し上げたことないんですよ。喧嘩ばかりしていましたし」


 とにかく比良利は凄い人物なのだと、青葉は語った。さすがは先代と対になる存在だと唸る。


「ただあの助兵衛心だけは……なんとかならないものでしょうか」


 あれさえなければ、素直に尊敬できるのに。

 切な訴えに翔は何も言えず、「暫くは尻尾とお友達だな」持っている白い尾を撫でてその場を凌いだ。



 ※



 月が真上に昇る頃、翔は身支度を整えておばば達と“日輪の社”へ足を運んだ。

 ちゃっかりギンコもついて来るため、留守を任せたい青葉と危うく喧嘩になりそうだったが、社に二重結界を張っておくことで交渉成立。揃って比良利のいる憩殿を訪れた。

 首を長くして待っていた比良利は、さっそく翔に服装を替えるように命じてくる。


「これじゃ駄目なの? 動きやすい格好なんだけど」


「そのような妙ちきりんな衣装で、代行を務めようなど、わしが許さぬ」


 よく分からないが、ジャージでは駄目なようだ。

そのため紀緒から、用意されていた衣装を受け取る。翔は疑問符を頭上に浮かべた。全身真っ白な和服、比良利が身に纏っている衣に似ているということは分かるが、これは一体……。


 衣を広げてそれを眺めていると、おばばが衣の名を教えてくれる。


『それは白張(はくちょう)だよ。坊や』


 鳥っぽい名前である。


『ヒトの世界では、神事や神社の雑用が着るものなんだ。神輿を担ぐ人もそれを着たりするんだよ。妖の社では、修行服として使用されている。比良利もその昔、これを着て神主修行をしていたんだ』


「へえ。そうなんだ。でもこれ、どうやって着れば」


 困っていると、紀緒が肩に手を置いて綻んできた。


「ご安心下さい。わたくしがお教えします」


 相変わらず、大人の色気がムンムン漂ってくる化け狐である。巫女服といい、緑の黒髪といい、実った胸といい……形の良い唇を目の当たりにすると、男心がついつい擽られてしまう。


「お、お願いします……」


 翔は尾っぽと耳を丸めて、小さく頷くと顔を紅潮させた。


「ぼんも立派なオスじゃのう」


 気持ちは痛いほど分かる。比良利はご機嫌に頷き、同志だと鼻歌を歌いながら紀緒の後ろに立つ。

 しかし、巫女はたいへん優秀で邪悪な気を感じると、すかさず振り返って比良利の腕を掴み、その場に引き倒してしまう。

 絶句する翔を余所に、紀緒は美しい黒髪を背に靡かせ、「修行が足りません」と、相手を白眼視した。

 後頭部を強打した比良利は畳の上で目を回しつつ、さすがは紀緒だと評価する。


「お主がいれば社も安泰じゃのう……まったくもって、安泰じゃ……」


 蚊の鳴くような声でぼやく彼は、これでも一応北の神主である。


(うへえ。俺、絶対紀緒さんには逆らわない。誓っても逆らわないっ!)


 恐ろしい巫女だ。唾を呑んでいると、じっとりした眼が二つ、背中に突き刺さる。

 ぎこちなく振り返れば、青葉とギンコが同じ目をしていた。可愛いギンコにまで冷たい目を向けられ、翔はぶわっと尾っぽの毛を逆立てる。


「ご、ごめんってギンコ! そんな目をしないでくれよ。お前にそんな目をされたら心が痛むじゃないか!」


 必死に機嫌を宥めようとすると、不機嫌ギンコが意味深に鳴いてきた。しゃがめと尾っぽで指示され、素直に足を折って銀狐と目を合わせる。


 次の瞬間、狐が唇に己の口を当ててきた。鼻先ではなく口を当ててくると行為は、狐にとって本気の口付けといったところである。

 目を点にしていると、何処からともなく殺気のこもった狐の鳴声が聞こえてくる。

 お約束の展開に千行の汗が流れる。

 翔は振り返る勇気を得る前に、急いでその場から逃げ出した。グルルッ、電光石火の如く駆けてくる金狐に「今のは不可抗力だって!」


 だから狐火だけは勘弁してほしい、と絶叫して座敷の中を逃げ回る。


『元気なこった。あれぞ青春と呼ぶべき光景なのだろうねぇ……おや、青葉。どうしたんだい?』


 前足を舐めて顔を洗っていたおばばが、青葉の忙しない様子に気付いて声を掛ける。

 自分の身なりを確認していた彼女は、「大慌てでなんでもないです」と、紅の袴をはためかせ、猫又に背を向けた。

 紀緒と自分を比べ、おなごを意識しているのだろう。それを察した猫又は、あれも青春と呼ぶべき光景なのだろうと笑声を漏らしたのだった。




 閑話休題。


 紀緒に白張の着かたを教えてもらい、それに身を包んだ翔は憩殿を後にし比良利と“行集殿(ぎょうしゅうでん)”を訪れた。


 行集殿は月輪の社にもある。構造はまったく変わらず、四面板張りで、四隅に蝋燭台が立てられている他、何もない。


 中央に立った比良利の表情に、先ほどのふざけはなく、ご愛嬌の糸目をつり上げ、静かに翔と向き合った。有無言わせない空気に動ずることなく、相手の言葉を待っていると、低い声で彼が話を切り出す。


「よいか、ぼん。お主が目指す役は、妖の器では務まらぬ。ヒトの血がどうしても邪魔なのじゃ。結界を張る仕事を受け持つ主には、ヒトの血を捨ててもらう」


 その期日は今から約二週間後。

 代行の準備段階や体の成熟、妖力の不一致を考慮する一方で、二週間後に満月が訪れる。満月が“祝の夜”である翔にとって、その夜が真の妖として覚醒する機会に丁度良いと比良利。二週間後に備え、少しずつヒトの血を消していくと彼は低く告げた。


「もはや半妖には戻れぬ。覚悟は良いか」

「はい」


 とうに覚悟は出来ていると返事する。でなければ、自分は、妖になることを恐れ、ヒトの世界を選んでいた。此処にいるのは、妖の己を受け入れた結果なのだ。

 強い眼光を飛ばす比良利を捉え、己の胸の内を明かすと、自分は何をすれば良いのだとハッキリ相手に尋ねた。


「まことに良い目をするようになったのう」


 赤狐は一変して柔和に綻ぶ。


 うん。小さく頷くと、比良利は翔に今から三つのことを伝授すると指を立てた。

 ひとつは大麻(おおぬさ)の使い方。大麻とは、神主が祓いの時に振っている、紙の垂れ下がったあの棒のことである。あれが使えなければ、まず代行は無理だという。

 ふたつは結界の張り方。大麻を使い、鬼門の祠に使用されている結界の張り方を教えると彼は告げた。


「最後は見た方が早いじゃろう」


 比良利が下がるように指示する。

 言われた通り、壁側まで後退すると、彼は懐から二本の白い扇子を取り出し、それを勢いよく開いて、軽足に床を蹴る。


 飛躍した拍子に長い袖が、並行して紅の長髪が、赤い六つの尾が宙を舞った。つま先で着地したと思ったら、ふたたび床を蹴って、狐は宙を舞う。何かの形を描くように、宙を舞う比良利を翔は恍惚に見つめた。


 ただ飛び跳ねているのではない。空気の流れに沿うような形で、赤狐はその場でしゃがんだり、身を回したり、持っている二本の扇子を靡かせたり、あるいは真上に放って綺麗に手中におさめたり。


 その内、比良利の額に二つ巴が浮かぶ。白い二つ巴は神々しく光り、呼応するかのように床が輝き始める。


「これは」


 翔は息を呑む。

 彼の通った道が線引かれ、陰陽勾玉巴(いんようまがたまともえ)となって床に姿を現した。白と黒の勾玉が組み合わさった模様が、神主の動きによって描かれていく。光り輝く陰陽勾玉巴は、比良利が中央に立ち、舞をやめることで音なく消えた。


 音楽も何もない舞だったというのに、それはそれは見事な舞であった。翔は無意識に拍手をして、彼の舞に感嘆の息を漏らす。


 二本の扇子を閉じて、こちらへ歩んでくる比良利に凄かったと目を輝かせると、彼は鼻高々ご機嫌に扇子を投げて手におさめた。 


「これは神主舞と言ってのう。神主が神に捧げる舞踏なのじゃ。確か、ヒトの世界にもあると思うのじゃが……我等妖の神主舞は、神に捧げると共に宝珠の力を高める。ゆえに戦の時はこれを舞うのじゃよ」


「え、舞うだけで宝珠の力が高まるの?」


 あまり想像がつかない。思ったことを素直に口にすると、比良利が笑声を零した。

 そこで。例え話として、妖の社にはいる時の結界反転の術を想像してみて欲しいと彼が人差し指を立てる。

 あれは足の動きで術を発動させるもの。陰陽師の世界では、それを禹歩(うほ)と呼んでいる。


 つまり体全体の動きで術を発動させているのだ。神主舞も舞人が踊ることで、それと同じことをしているのだと比良利が教えてくれる。


 なるほど、翔は納得したように頷く。


 ふと大切なことに気付き、ごくりと唾を飲む。


「あのー……比良利さん。今の、俺もやるの?」


「当たり前であろう。何のために見せたと思っているのじゃ」


 呆れられてしまった。やっぱりやるようだ。


(踊れって言われてもなぁ)


 心の中で涙する。

 踊りの経験など小三の体育祭に踊ったフォークダンスと、小五と六年で踊ったロックソーラン節くらいなものである。しかも、真面目に踊った記憶がないという。


 比良利の美しい舞の動きは単純そうに見えたものの、実際はとても難しそうだ。少しの気の緩みも許されない空気が醸し出されていた。繊細な動きが、果たして自分にできるだろうか。不安を抱くものの、やるしかないと自分に言い聞かせ、何度も慰める。


「あれ。でも、どうして舞を踊るの? これって、俺が妖になることと関係ある?」


 翔は質問を重ねる。良い質問だと比良利は二本の扇子を両手で開いた。


「先ほども申したとおり、妖の神主舞は神に捧げると共に宝珠の力を高める。力は体を成熟させる。ヒトの血は妖の血に呑まれ、やがて泡沫と消えていく。もう、分かるのう? わしが何故、お主に舞を教えるかが。もう始まっているのじゃよ、妖になる儀式が」


 ヒトの血を消すだけならば薬でどうとでもなる。三日足らずで妖になることだろう。

 だが宝珠の力を得て妖になるのと、薬の力を得て妖になるのとでは、まるで成熟が違う。


 少しでも早く、神主代行になりたいのであれば宝珠の力を選ぶべきだ。薬は所詮薬、妖に成熟してもすぐには宝珠を使いこなすことができないだろう。また、翔は現在、薬で妖力の制御を行っている身だ。薬同士の反発を避けたい考慮も含まれている。


「わしが踊れるのじゃ。ぼんも、すぐに踊れるようになる」


 比良利が腰に手を当てた。


「お主を見ると昔を思い出すのう。この舞は神主就任の際、必ず演舞するもので、わしはこれを忌まわしい惣七と踊ったのじゃが……」


 神主舞は一人で踊るパターンと、二人で踊るパターンの二つがあり、比良利が見せたのは前者らしい。ちなみに後者は日月の神主の威厳を示し、双子の関係と絆を神に見せるものだそうだ。


 神主就任の際は、二人で舞うことが必然とされ、比良利は先代の南の神主と演舞したという。


「思い出しても、腹が立つ」


 比良利は扇子を握り締め、わなわなと体を震わせた。


「あやつめ。自分が少しできると、てんでできぬ稽古中のわしに『元狐には二足立ちすら難しいようだな。大変だろう? 演舞は俺一人で十分だぞ』と、同情しおった。いや皮肉を零しおった!」


 糸目がくわっと開眼し、こめかみに青筋を浮かべる北の神主の怒りは凄まじい。

 翔が冷汗を流す中、ぶわっと六つの尾を逆立てる比良利は、思い出す度に胃に穴があきそうだと低く唸る。


「一人で日月の舞と言えようか! いや言えまいっ……何度、奈落に送ってやろうと思ったかっ! 惣七め、あやつだけは許さぬ。絶対に許さぬ」


「ちょ、比良利さっ」


「挙句の果てに、無事に二人で演舞を済ませたら、わしに対する第一声が『お前、練習したか? 合わせるのが大変だった』じゃと? やかましいわ!」


 折れんばかりに扇子を握り締める比良利は、翔をじろりと睨むと、骨張った人差し指で指してくる。


「よいか。惣七のような、小生意気な神主代行になるでないぞ。なれば最後、わしがしばき倒す。性根から叩きなおす」


「そんなっ、理不尽なんですけど。まず惣七さんのこと、よく知らないしさぁ」


 総身を逆立てる比良利と距離を置き、翔はひえっと情けない声を出した。嗚呼、この狐の前では、無闇に先代の話は出さないようにしよう。此方にまでとばっちりが来る。


 遠目を作っていると、比良利が二本の扇子を翔に差し出してきた。


「腹は決まっておるのじゃろう?」


 再三再四、確認を取る指導者に力強く頷いて扇子を受け取る。できるできないではない。やるのだ。これが自分の行く道なのだから。




 思ったとおり、神主舞は予想していた以上に難しかった。


 まずは対面する比良利の動きを真似するように言われたのだが、それすらもついて行けず、何度床に両膝を突いたか分からない。緩やかな動きから、大きな動きまで無駄のない動きを演舞する。これが非常に難しい。


 しかも動きに気を遣うため、余計に疲労するのだ。


 またろくに扇子も触ったことがなかったため、片手で開く行為に苦労した。

 比良利が扇子の両端に鈴をつけ、視覚だけでなく聴覚で覚えてもらおうと工夫してくれるのだが、初心者の翔には演舞は高度なものであった。


 当然動きがぎこちないため、比良利が描く陰陽勾玉巴も姿を現さない。分かっていたとはいえ、これを習得するのは至難の技だと翔は覚悟した。


 二時間程度、神主舞を練習した後、翔は休む間もなく同じ部屋で大麻(おおぬさ)の使い方を教えてもらう。


 比良利が用意した大麻は修行用で紙垂(しで)の色が黒かった。

 本来は白い紙垂なのだが、微量の妖力でも術を出せるよう工夫されているという。妖の器である翔のために作られたもので、これを通して術を出す練習をすると比良利は言った。

 妖術もまともに出せない翔だが、四の五の言っても仕方がない。体で覚えなければと意気込み、どのように使うのかと質問した。


 すると比良利は己の大麻を手中に召喚し、それをそっと斜め下におろして、手本を見せると告げる。


「我等の使う大麻は、ヒトの世界の大麻と違い、穢を祓うだけのものではない。これは神主の武器であり、妖を守る盾であり、時に命を奪う刃と化す。ぼん、覚えておくのじゃ。巨大な力は正しく使わなければ諸刃の剣となる」


 彼は一呼吸置くと大麻を持ち上げ、左、右、左に三回振り、天高く翳して、


「宝珠の主である我が声を聞け。その御身を我に委ねよ――雷鳴解放!」


 声音を張って神主は、一刀両断する如く大麻を振り下ろす。

 耳をつんざく雷鳴が室内を轟かせ、大麻から目の眩むような迸る雷撃が、四方八方へ駆け抜けていく。翔の間を通り抜けた雷撃は天井に集約し、相殺して散っていた。

 声を失ってしまう。これが大麻を使用した術の力なのか。小さな術のようだったが、それですら迫力があった。


「いつ使っても恐ろしい道具よ」


 大麻は己の妖力を倍増させ、敵を討ち、同胞を守る呪具なのだと比良利は吐息をつく。

 使い手によっては恐ろしい殺戮道具になる。誤った使い方をすれば生き物を殺める。矛にも盾にも諸刃の剣にもなる、それが神主の持つ大麻だ。


 だから比良利は、いざという時しか使用せず、普段は形を変えて肌身離さず持っている。彼は大麻を宙に投げた。見る見る紙垂が大きく広がり、一つの和紙となると姿を和傘に変えていく。


「あ! それ」


 翔は和傘を指差した。それはいつも比良利が愛用している、蛇の目模様の和傘ではないか!

 その通りだと比良利は頷き、大麻を持つ神主はこうして物に形を変え、普段は愛用品として扱っているのだと返した。


 歴代の神主を辿ると傘以外に杖や煙管、扇子、和書などに形を変え、他者の手に渡らないよう肌身離さず持っていた。ちなみに先代は、小洒落た小刀にしていたと比良利は懐古、次第に黒い笑みを浮かべて柄を握り締める。


「ふっ、ふふっ……傘を馬鹿にしよった惣七、許さぬ。何が持ち運びに不便だろう、じゃ。わしは傘が好きなんじゃい。晴れた日でも傘を持ち歩く狐で何が悪い。小刀など日常生活の何処に役立つ?」


 青筋を浮かべるところから、芳しくない思い出に浸っている模様。聞くまでもなく、大層先代に対抗心を持っていたようだ。さすが不仲だったと言われるだけある。


 空気を換えたい翔は修行用の大麻に目を落とすと、「俺も使えるようになったら変えられるの?」と、比良利に聞く。

 我に返った神主は頷き、本物の大麻を使いこなせるようになれば、物に変えることが可能だと告げ、翔の持つ大麻を指差した。


「ぼん、南北の地に大麻は二つしか存在せぬ。わしの大麻も先代から譲り受けたもの。ゆえにお主が使う大麻は、南の神主が持つ大麻じゃ。心せよ」


「はい」


 大きく返事をして、翔は大麻を握りなおした。




 比良利が教えてくれた術は木・火・土・金・水の五行を素とした五つの術。


 いたってシンプルな術で大麻を使い、草木を芽吹かせ、火を熾し、地で形を作り、土塊を石に変え、水を生み、それらを操るというもの。これが大麻を扱うための基礎だという。


 しかし、術は非常に難しい。


 考えなしに呼び出そうとしても大麻からは何も出ず、十に一成功しても操るまでには至らず術が爆ぜ、それに巻き込まれて怪我を負ってしまう。


 現に翔は数回の使用で、生傷だらけになってしまった。すでに神主舞でふくらはぎがぱんぱんに張り、疲労は蓄積していた。そこへ追い撃ちをかける大麻の稽古である。


 当然体は悲鳴を上げていたが、懸命に大麻の使い方を習得しようと奮闘した。これが使えなければ結界を張る段階まで行き着けない。


 話を聞く限り、先代はこれと神主舞を三日で習得したそうだ。

 それだけで、先代の鬼才を目の当たりにする。これを三日で習得したなんて、もはや化け物である。常に比べられていた比良利の苦労が身に沁みて分かる。


 だからこそ翔は、決して弱音を吐こうとはしなかった。


 たとえ術が爆ぜ、痛みが襲おうと。大麻が反応せず術の解放に失敗しようと。比良利に手厳しく指導されようと、根性で立ち上がってみせた。これは意地だった。

 翔にとって、ヒトの世界に置いてきた痛みの代償は大きく、にがく、つらい。


 だがそれ以上に鬼門の祠のせいで、ヒトと妖が諍いを起こし、両者の親しい者達が傷付けあう方がもっとつらい。

 誰かが宝珠の力を得て、鬼門の結界を張りなおさなければいけないのならば、なおざりで選ばれた自分が代行しよう。ゆるぎない誓いを立て、己の進むべき道に向かってがむしゃらに走ろう。翔に迷いはなかった。



 月輪の社に帰る刻には足腰立たず、比良利の手を借りて青葉達の下に戻った。


『ぼ、坊や。なんだい、その格好。ぼろぼろじゃあないかっ!』


 自分のなりに彼女達から大層驚かれ、心配性のおばばから初日から無茶し過ぎだとお叱りを頂戴したが、平気だと笑う余裕は残っていた。


 実際、まったく平気ではなく、部屋へ戻ると食事も風呂も着替えも忘れ、布団も敷かず、貪るように畳の上で眠りについてしまう。

 一生懸命、ギンコが毛布を引き摺って、それを掛けてくれたが翔の意識は既に夢路を歩いた。


 それが三日も続くと、さすがに体が思うように動かず、全身筋肉痛となって地獄を見た。

 体を起こすのも一苦労で、翔は湿布が欲しいと切に願ってしまう。しかし、そう言ったって夢は夢で終わる。妖の世界で入手することは難しいだろう。

 そのため青葉の作ってくれる塗り薬や薬湯で凌ぎ、自然治癒に身を委ねる。


「翔殿。少し、稽古の時間を減らしてもらっては如何でしょう?」


 日輪の社から帰宅し、居間で塗り薬を塗ってもらっていた翔はうつ伏せに寝転がり、座布団を抱えて上げそうな悲鳴を懸命に殺していた。

 背中に薬を塗ってくれる青葉が、力なく眉を下げてくる。生傷の酷さに言葉もないようだ。

 流し目にした翔は平気だと強がり、笑ってみせる。


「比良利さん、神主で忙しいのに俺のために時間を割いてくれているんだ。見てもらえる時間は、全部見てもらうようにしないと」


 とはいえ、習得は険しい道のりだと翔。


「先代は凄いな」


 青葉に話題を振り、彼の凄さを痛感していると吐息をついた。三日で神主舞を習得、同じく三日で大麻を使えるようになったなんて、九代目は本当に鬼才だったのだろう。

 同じ三日目を迎えている自分とは大違いだと顔を顰める。


「どんだけ凄い人だったんだ」


 肩を竦めると、ゆっくり身を起こし、ジャージを羽織った。


「ありがとう。いくぶん、楽になったよ」


 薬を塗ってくれた青葉に礼を告げる。

 なんてことない。首を振る彼女は、立ち上がる翔を見上げ、「どうしてそこまでして代行を?」と問い掛けた。


 障子に手を掛け、居間を出ようとしていた翔は首をひねり、「なんでだろうな」と苦笑いを浮かべた。こんなにも苦しい思いをしてまで、代行をしなくても良いのにな、とおどける。


「俺は先代のような神主になれるわけじゃない。南の神主になりたいわけでもない。妖の頭領になりたいわけでもない――でも、俺は自分の決めた代行をやり遂げたい。妖も、ヒトも大好きだから」


 含み笑いを残して縁側に出る。

 その足で“行集殿”に向かった。もう少しだけ、体を動かそうと思ったのだ。大麻は怪我を負う可能性があるため、疲労だけで済む神主舞を復習しようと行集殿へ。


 途中、中庭で銀狐と猫又を見かける。遊んでいるのかと思いきや、ギンコは翔のフリスビーを放り、おばばの指導の下、狐火を出そうと稽古をしていた。驚き、翔は思わず二匹の下へ歩む。


「こんな時間に稽古か? もう夜明け前だぞ」


 声を掛けると、ギンコが力強く鳴き、おばばがおかしそうに笑声を零す。


『オツネったら、坊やの稽古する姿を見て感化されたようなんだ。自分も頑張りと思ったようだよ』


 ここ三日。

 銀狐は翔と比良利の後を追い、金狐と“行集殿”をこっそり覗いていたらしい。失敗しても、怪我しても、叱られても、挫けずに術や神主舞を習得しようとする翔に感銘を受け、許婚や猫又に稽古をつけてもらうよう決めたようだ。


 目標は己の代行を務めるツネキの負担を軽くし、自分は“月輪の社”の守護獣なのだと胸を張って言えるようになること。


 そして、代行人を目指す翔に見合う妖狐になること。

 これらを掲げ、ギンコは妖術をいつでも出せるようになろうと努力しているらしい。

 極めて単純、しかも後者をツネキが聞いたら泣いてしまいそうな話だが、翔は立派な目標じゃないかと相手に一笑する。


 そう、ギンコも守護獣という現実を受け入れる決意を固めたのだ。


 翔と同じように、ギンコもなりたくて守護獣になったわけではない。母が守護獣だったから、必然的に後継者に選ばれただけの身分。ギンコの意志ではない。


 だから先代と大きな溝を作ってしまう、悲しい過去を負ってしまった。九十九年、不自由な生活を強いられ、誰にもぶつけられない怒りを抱いた。常に命を狙われる身となった。ギンコは何度、普通の妖狐になりたいと切望していたことだろう。


 その狐が過去の思いを断ち切り、新たな思いを胸に秘めたのだ。喜ばしいことではないか。


「ギンコ。お前、逞しくなったな」


 わしゃわしゃと頭を撫で、自分も見習わなければと感心を示す。


「大丈夫、お前ならきっとできるようになる。俺は信じてるよ」


 痛む腕を無視して、ギンコを抱き上げた。

 ポッ。右前足を顔に当てるギンコは、クンクンと鳴いて何やら翔に伝えてくる。何を言ったのだろうか? 首を傾げていると、やれやれとおばばが苦笑した。


『オツネったら“あの出逢いの夜は星の導きだったのでしょう。貴方様と(つが)いになれる日を楽しみにしています”と言っているよ。オツネの初恋は、まだまだ熱いねぇ』


 番いは夫婦の意味である。


「つ、番い」


 ツネキに殺されかねない台詞に、翔は引き攣り笑いを浮かべた。奴に果し状を突きつけられる日も近い気がする。


 胸部に頭を擦りつけ、千切れんばかりに尾を振って甘えてくるギンコは、充電ができると翔の腕から飛び出し、稽古の続きをするとおばばに鳴いた。

 覚悟は固いようだ。微笑ましい気持ちに包まれる。


「よし、ギンコ。俺も付き合ってやる。フリスビー貸してみろよ」


 何を言っているのだ、おばばが声を上げる。


『坊や。まだ動くつもりなのかい? 少しお休み。さっきまで比良利と稽古していたんだろう』


「大丈夫だっておばば。少しは気晴らしをしないと、俺も参っちまうしさ」


 どちらにせよ神主舞を練習しようとしていたのだ。狐の稽古に付き合うことくらい屁でもない。


「行くぞギンコ」


 地面に転がっているフリスビーを拾い、向こうへ行くよう指差して、円盤形のそれを翳す。

 大きく鳴いて駆け出す狐の頭上遥か天を狙い、勢いよくフリスビーを投げる。狐は躊躇いなく加速し、高く飛躍して円盤を銜えると体を回して翔に向かって放った。


 片手でキャッチした翔は、円盤が仄かに熱帯びていると口角を持ち上げ、そのことを銀狐に伝えて再びフリスビーを投げた。


 少しずつ、ギンコは妖術を得ようとしている。

 近い内に狐はフリスビーを燃やし、己自身の力で狐火を繰り出すだろう。自分も負けていられない、翔はギンコの努力する姿に励まされながら、痛む体を無視して懸命にフリスビーに回転をかけた。


『坊やもオツネも、逞しく成長しているねぇ。ババアは嬉しい限りだ。子供の成長は本当に嬉しいねぇ。後は……青葉だけなのだけれど』


 巫女の証が出ずに悩む青葉を心配し、おばばが人知れず重い溜息を零した。

 あの子の先代に対する想いはしごく閉鎖的、それは自分も北の神主も、北の巫女も見抜いている。自分の殻に閉じ篭って、先代を想うばかりでは本当の巫女になれない。あの子の抱く想いは、誰かを傷付けることすらある。


 傷付けることを厭わない巫女が、どうして本物の巫女になれようか。



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