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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【参章】其の狐の如く
51/158

<八>静の夜に惜別を(陸)



 ※ ※



 日輪の社、憩殿にて。


 久しぶりに妖の世界に帰ることのできた翔は、呪符によって腫れていた手足首に塗り薬を施してもらうと、早速食事を取っていた。

 一心不乱に白飯を掻き込み、鮭の身をほぐしてはまた白飯を。味噌汁を啜って喉の詰まりを解消すると、佃煮を口に入れて咀嚼する。


「ご飯。おかわり」


 その食べっぷりは室内にいた者達を圧倒させるものだった。


「あ、味噌汁もおかわり」


「翔さま。もう少し、落ち着いて食べて下さいまし。食事は逃げませぬよ」


 そんなに急いで食べては体に毒だ。お椀を受け取った紀緒が注意してくるが、翔は空腹で仕方がないのだと苦笑いを浮かべた。


「妖祓の部屋じゃ、思いっきり食べられなかったんだ。一日一食の日もあったし」


 そう告げて、鰹節のかかったほうれん草のお浸しを口に放る。

 心置きなく食べられる幸せを噛み締める翔に、食事は取らせてもらえなかったのか、と青葉がおずおず尋ねた。


 そんなことはない。ちゃんと食事はもらっていた。翔は首を振る。


 ただ、あそこでは常に心のどこかで緊迫していた。それだけ妖祓達に恐怖を抱いていたのだと翔は箸を銜える。


「思いきり食べられたのは、稲荷寿司だけだったな」


 あれ以降はおにぎりやサンドイッチといった軽食ばかり口にしていた。そのせいで、あまり腹は満たされなかったのだと顔を顰める。


『だったら、ちゃんと食べないとねぇ。坊や、よく噛んでお食べ』


「お、おばば。子ども扱いしないでくれよ」


 子供じゃないか、おばばに揶揄されてしまう。そりゃあ四百歳も生きている猫又からすれば子供だろうが……。


 クン。膝の上で丸くなっているギンコが、物欲しそうに見上げてきたため、鮭の身をほぐして与える。

 傍らで唸り声が聞こえた。


「わーったよ、ツネキ。お前にもやるって」


 不機嫌に睨んでくる金狐に肩を竦める。勿論、そういう意味で唸ったわけではない。翔もそれは分かっていた。

 よほど悔しかったのか、ツネキが無理やり翔の膝に乗ると鮭の切り身を一口で食べてしまう。


「あーっ! おまえっ……」


 翔が顔を引き攣らせる中、ギンコがどうして膝に乗ってくるのだと不満げにクックッと鳴き、尾っぽでツネキを押した。一方、ツネキはギンコに寄り添って離れない。どうやらこのオス狐は翔に見せ付けているらしい。


 嫌がるギンコと、戯れたいツネキが掻いている胡坐の上で暴れるため、翔は眉をつり上げた。

 無言で箸を置くと狐達の首根っこを抓み、左右へ身を落とす。畳の上に着地したギンコが抗議するように、フンフンと鼻を鳴らしてまた翔の膝へ。必然的にツネキも膝に乗るため、振り出しに戻ってしまう。


 重たいやらメシが食えないやら邪魔やら、翔は暴れる狐達に膝にいたいならジッとしてろ、と一喝。それによって狐達もおとなしくなる。


 ぶうっと不満げな態度を取るギンコに対し、ツネキは許婚の隣を陣取ることができてとても嬉しそうである。


「ったくもう」


 二匹分の体重を膝に受けながら、紀緒から白飯と味噌汁のお椀を受け取った。


「くくっ。なんじゃ、元気ではないか。ぼん」


 様子を見守っていた比良利は脇息に凭れ、大きな笑声を零した。

 妖祓に捕縛されたと聞いた時は、やれどうなることかと思ったが、元気そうで何よりだ。そう言って彼は煙管の吸口を噛む。


「んー……そのことなんだけど」


 翔は自分の腹部に目を落とし、妖力の制御ができない悩みを打ち明ける。


「そのせいで、一時自分を見失っていたみたいなんだ。比良利さん、俺、どうしたんだろう? 医者に診せるべきかな?」


「ふむ。事情は雪之介から聞いておる。食後、わしが診てやろう」


「比良利さん、診れるの?」


「簡単ではあるがのう。酷ければ、医者も手配する。心配するでない」


 翔は安堵の息を漏らす。北の神主がそう言ってくれると、とても心強い。


「それにしても、まさか比良利さん達が来てくれると思わなかったな。ギンコは妖型で迎えに来てくれるし」


 ツネキは来てくれなかったものの、彼は守護獣として留守にする神主達に代わり、日輪の社を守っていたそうだ。それはそれで立派だ。

 膝に乗っているギンコの顔を覗き込めば、狐は誇らしげにクンと鳴く。


「お前、妖型になれるんだな。知らなかったよ」


 そう言うと、『オツネは妖術が上手く使えないからねぇ』と、おばば。妖の器である翔と同じで、妖型に変化することが容易ではないと説明する。

 けれど、妖型になれないわけではない。成功すれば、どの妖狐よりも体躯が大きくなり、神々しい姿を見せる。それこそ神使だと思わせるような姿をする。


(そういえば、ギンコの額に白い勾玉が埋め込まれていたっけ)


 あれはいかにも神使だと匂わせるものだ。

 独り言を零す翔に、比良利が神職を携えている者ならば、誰でも勾玉や勾玉を象った二つ巴が額に浮かぶと教えてくれる。翔も例外ではない。


 ただし、額に模様が浮かばない者もいる。それは神職として未熟者か、不適合者かのどちらかだ。すべては宝珠の御魂の導き次第だと、比良利は意味深長に肩を竦める。


 すると、おばばを抱いていた青葉が小さく項垂れる。


「私は未熟なのでしょうか」


 彼女の呟きを拾ってしまった翔は、誤魔化すように味噌汁を啜る。


(青葉の額には勾玉の証がないのか)


 聞いてはいけないひとり言だろう。話を戻すことにする。


「どうしてギンコは妖型になれたんだ? 今のギンコじゃ難しいんだろう?」


 何を言う、比良利は煙管で脇息を叩いた。


「お主への慕情がそうさせたに決まっておるじゃろう。簡単に言えば、愛じゃ愛。想いは力じゃのう。ツネキ、お主は早く挽回せねば不味いぞ」


 目を点にしてしまう。

 ぎこちなくギンコを見下ろすと、狐は恥ずかしそうに鳴いた。命を懸けて守ってもらった恩は忘れない。恩は恩で返すと言っているらしく、胸部に擦り寄ってくる。

あ、やばい可愛い。抱き締めて体を撫で回してやりたい、が、それをしてしまえば。


「アイテテ!」


 ツネキに腕を噛まれ、翔は悲鳴を上げた。


「馬鹿! 男……じゃないオスの嫉妬は醜いぜ!」


 腕を振り、どうにかツネキの口から逃げる。

 歯形がついている哀れな腕を擦っていた翔は、ツーンとそっぽ向くツネキに溜息をつく。自分も、朔夜にこんな態度を取って嫉妬していたのだろうか? 身に覚えがある過去をほじくり返し、二度溜息をついた。




 食後。翔は比良利に宝珠の御魂が宿った体を診てもらうため、座敷の上で寝そべり、ジャージをたくし上げていた。

 ギンコが大丈夫かと言わんばかりに見下ろしてくる。それに一笑を向けるものの、胸部から腹部をなぞり、妖力の流れを診る比良利の表情は険しい。助手の紀緒と青葉に薬草を摘んでくるよう指示している。


『坊やはどうなんだい?』


 見かねたおばばが、翔に代わって質問する。

 比良利は翔のジャージを下ろすと、静かに息をついた。


「ぼんの体と、妖力が不協和音を起こしておる。妖として成熟せねばならない体が、まだ出来上がっておらず、しかし妖力だけ一人前に昂ぶっておるのじゃ」


 何故このようなことに、通常では考えられない異変だと比良利。


「変なものでも食ったかな」


 身を起こして腹部を擦る。


「盛られたのかもしれんのう」


 比良利が低い声で唸った。

 目を見開いてしまう翔に対し、比良利は糸目に冷気を纏わせ、仮説を述べているだけだと肩を竦めた。


「しかし、ぼん一人の力では成しえぬこと。ならば、誰かがぼんに手を加えたしか考えられぬ。宝珠の御魂を狙った行為なのか、それとも……どちらにせよ、同胞に対する裏切りじゃな。一歩間違えれば、ぼんは多大な妖気に呑まれ、理性も何もない妖と化しておったじゃろう。成熟しておらぬ体と妖力の不協和音は、それだけ危険なことなんじゃ」


 背筋が凍ってしまう。


「じゃ、じゃあ俺……いつか自我を失った、理性も何もない妖になるのか?」


 生唾を呑んで身震いした。

 すると比良利が柔和に綻ぶ。今のは極論、薬を呑めば大丈夫だと言う。体が妖力を受け止められるまでに成熟すれば、なんてことはない。妖の器だからこそ危険に晒されただと北の神主は答えた。


「仮に神職に携わっている者であれば、わし自らが裁かねばならぬ。どのような事情であれ、私利私欲に同胞を危機に晒さした罪は重い。神に仕えている妖は他の妖より位が高い。並行して、追う罪も他の妖より重い」


 比良利が重い腰を上げ、追加でこの薬草を頼むと、紀緒の後に続こうとする青葉の肩を叩く。

 びくりと体を震わせる青葉は恭しく頭を下げ、急いで先輩巫女の後を追った。


『まさか……』


 おばばのしゃがれた独り言は翔の耳に届かず、記憶を探って唸り声を上げる。


「盛られたって言ってもな……まったく身に覚えがない」


 翔は傍らにいたギンコを抱き上げ、首を右に捻る。


「犯人は俺に薬を盛ってどうする気だったんだろう? そんなに宝珠の御魂が欲しかったのかなぁ」


 翔に倣ってうんっと右に首を捻るギンコに笑い、小さな体躯を腕に抱える。

 ついでに不機嫌なツネキも強引に腕に抱えた。こうでもしないとまた噛まれるだろう。



 ※




 巫女達が薬草の入ったカゴを持ってくると、比良利はそれを持って場所を移動した。


 文殿と呼ばれる部屋で調合を行うというのだ。見学させてもらうため、翔は狐達を抱いたまま彼について行く。目的は別にあったが、自分の薬を作ってくれるのだから、一目光景を見ておきたかった。


 四面板張りの文殿に足を踏み入れると、辺りは闇に包まれている。

 置行灯の蝋燭に灯が点ると、書架に眠っている巻物や紐で背を縛っている和書、木版などが顔を出す。


 己の背丈の二倍はある書架に圧倒されながら、比良利の後について行くと、彼は薬草の入ったカゴを床に置き、棚から和書を、そして四隅の棚から薬研(やげん)と呼ばれる道具を取り出す。それで薬種を擂り潰すというのだ。


 小舟の器に草を落とすと中央の握り手を持ち、比良利は円盤状の石車輪を前後に往復させる。その光景は、時代劇で見るような昔ならではのもの。


「比良利さんって薬も作れるんだな」


 二匹の狐を抱いたまま興味津々に調合の光景を見ていた翔は、凄いなぁと感嘆を漏らす。

 細切れになった木の根っこを薬研に落とし、北の神主は答える。


「神主は何でも知っておかないといかんのじゃよ」


 調合が記されている和書の頁を捲り、彼は干からびた木の実を数個器に落とした。

 妖の頭領である以上、知識は豊富に持っていた方が好ましい。自分は医師ではないため、難しい病気は治せないが、簡単な調合は知識として得ている。


 それだけではない、その地の生態や気候、経済、ヒトと妖の暮らしや結びつき、多くのことを知る必要があるという。


 狐から妖狐になった比良利にとって、知識を得るという行為は非常に難しいらしく、今でも苦手な類いに入っているらしい。しかも、先代の南の神主に、その優秀さを見せ付けられる始末。何度勉学を投げ出そうと思ったかも分からないという。


 それでも、妖を、社を、皆を守るために知識を得たい。そんな気持ちが勝り、今に至るそうだ。


「宝珠の御魂に選ばれたことは天命じゃと思っておる。わしに可能性を見出し、宝珠が選んでくれたというのならば、わしは身を尽くしていきたい」


「……それって怖くないの?」


 自分の意思関係なく選ばれる恐怖を知っている翔は、比良利にすかさず問う。


「恐怖はあったのう」


 神主は包み隠さず心情を明かした。寧ろ、当時の自分は拒んでばかりで天命から逃げようとしていたという。狐から妖狐になることすら恐怖していた。ゆえに、ヒトから妖狐になった翔の恐怖心も理解できると目尻を下げる。


 しかし一度、己の中で志が決まると、恐怖は拭えるのだと神主。

 妖の頭領になってからも苦労は絶えないが、今は天命を受け入れてよかったと思っている。小さく苦笑を零した。


「対であった、先代の南の神主と気が合えば、もっとよかったと思えるのじゃがのう」


 恍惚に話を聞いていた翔の視線に気付き、「少しは尊敬したかのう?」比良利は大袈裟におどけた。

 素直に首肯し、破顔する。


「比良利さんは本当に凄いよ。志ができても、俺は怖くていっぱいだから」


 そう返した後、翔は自分にもそれはできるのかと薬研を指差す。

 自分の薬だから自分で調合してみたい。相手を見つめれば、比良利の糸目がやや開く。すぐに表情を戻した彼は、ちょいちょいと手招きした。許可してくれたようだ。


 退屈そうに欠伸を噛み締めている狐達に気付いた翔は、「遊んで来いよ」腕の中にいる二匹を解放してやる。


 己の心中を察してくれたのだろう。

 珍しくギンコの方からツネキを呼んで、先に外へ出た。慌てて許婚の後を追う金狐に一笑を零した後、翔は腰を上げて、比良利の隣で正座を組む。


 見よう見真似で薬研の握りを持ち前後に動かす。重量感ある石車輪は見た目以上に重く、なかなか上手く動かせない。


「ぼん。薬種の様子を見ながら擂るんじゃ」


 ただ動かせばよいという話ではない。

 神主に指導され、翔はどのように観察すればよいのか尋ねた。彼は薬種の細粉を見るのだと熱心に教え、翔の掌に微量の薬種をのせる。

 擂る力が弱ければ薬種は大きく砕かれ、強ければ細かく砕かれる。この後、水を差すのだが、その時は色も見ておかなければならない。事細かに指導する比良利の言葉に頷き、時に確認して掌にのった薬種を指で触る。


 舐めて確かめることもあると教えられたため、おもむろに人差し指の腹を舐めた。


「にっ、苦ぇ!」


 痺れそうな苦さだと舌を出す翔に、「出来上がった薬の話じゃがな」と比良利。


「なんだそれ! 早く言ってくれよ」


 頓狂な声を上げてしまう。舌を出したまま顔を顰める翔に大きな笑声を上げ、北の神主は肩を震わせる。


「ぼんはからかいがあるのう」


 この狐、絶対に他人をおちょくりたいタイプだ。

 不機嫌に白眼していると、調合の続きをしようかと比良利が背を叩いた。真剣に教えてくれているのだか、ふざけているのだか分からない北の神主である。


(せっかく尊敬していたのに)


 心中で毒づきつつ、翔は微量の薬種を小舟の器に戻す。比良利の指導の下、ぎこちない手つきで石車輪を前後に動かし薬種に水を加える。

 そうして人生初めての調合に挑んでいた翔だが、前触れもなしに神主から質問を投げかけられ、手を止める。


「ぼんは何故妖の世界を選んだのじゃ?」


 すぐに作業を再開し、彼の疑問に疑問で返す。


「どうして比良利さんは、俺が妖の世界に帰りたいと分かったの?」


「コタマから聞いておったからのう。それを聞いてわしは思ったのじゃ。お主は既にヒトの血が薄れ、妖の血が勝っている。ぼんは妖の心を持つようになったのじゃろうと」


 要因として妖力が増したことも一理、挙げられるだろう。

 体が成熟してなくとも、一人前の妖の力を持つようになった翔の心を思い、彼は妖の世界に帰りたいのだろうと判断したようだ。


 変な話である。あれほどヒトでありたいと願い思いを寄せていたというのに、大切にしていた幼馴染達にすら背を向ける自分がいるなんて。

 しかし、比良利の言う通り、翔の心は妖に染まっていた。


「妖の世界に帰りたかったのは、それだけじゃないんだ」


 翔は今度こそ作業の手を止め、両手を膝に置く。


「人間の妖祓が……俺の中の宝珠の御魂を狙った。危うく奪われそうになったんだ」


 それは自分にとって大きなショックだったと翔。

 けれど、妖祓も無闇に奪おうとしたわけではない。事情があって奪おうとしたのだ。

 静聴する比良利の様子を見る限り、事情は知っているようだが、翔は自分の口から伝える。


 鬼門の祠と呼ばれる結界が解けかけそうになっている。そこから溢れ出す瘴気により、当てられた妖が凶暴化。ヒトの住む町に侵入し、人間に被害を与えている。だから妖祓達は結界と瘴気ごと祠を封印するため、妖の重宝を狙った。妖祓達は妖祓の務めを果たそうとしたのだ。


 しかし自分はそれが許せなかった。妖の宝は妖のもの。妖の社の賑わいを、妖達の憩いの場を、化け物達の温かさを知っているからこそ、渡す気になどなれなかった。


「妖を優先したことで、俺は心から自分が化け物になっていると気付いたよ」


 体ごと比良利の方を向くと、視線を持ち上げ、聞き手を見つめる。


「でもさ。俺は人間を嫌いになれないんだ」


 だって自分も、元々は人間なのだから。北の神主に真剣に訴える。


「比良利さん。正直に答えて欲しい。もし、宝珠がヒトの手に渡ってしまったら、比良利さんは今日以上に人間と戦っていた?」


 間髪容れず、北の神主は頷く。


「わしは妖の頭領、第一に妖のことを考えなければならぬ」


 予想していた返事を貰った翔は、そっと相づちを打ち、自分の決意を口にする。


「俺は妖も、ヒトも好きなんだ」


 ヒトの中には、月日を共にした幼馴染達がいる。そして妖には、比良利のように自分と仲良くしてくれた妖達がいる。

 諍いは必ず双方を傷付けあう。両者が戦うところなど見たくない。どちらも大切なのだと吐露した。


 鬼門の祠の結界が解けかけているせいで、南の神主が管理しなければならない祠が放置されているせいで、瘴気は溢れ、妖の、ヒトの生活は脅かされている。宝珠をめぐって諍いが起きる。


 それを知った時、自分は思ったのだ。


 だったら南の神主が管理していた仕事を、誰かが代行すれば良い。

 それができるのは宝珠を宿している者だけだ。比良利はいつぞか言った。宝珠を持っている今の自分は南の神主の代行人、だと。


「ぼん、それは覚悟があっての考えか」


 考えを先読みした比良利が、厳しいかんばせを浮かべた。思いつきであれば、止した方がいい。一度実行に移してしまえば、もう逃れられない運命に放られるのだから。

 泣き言を漏らすことすら許されない役を、翔は持とうとしている。神主であれ、その代行であれ、それは同じこと。


「祠の管理のことならば、なぜわしに頼まぬ」


 神主に頼れば良いではないか、比良利のご尤もな指摘に動じず、意見を述べる。


「比良利さん一人じゃ限度があると知ったから」


 妖を第一思う比良利が、ずさんな管理体制になるまで祠を放置するわけがない。つまりそれは、手が足りていない証拠だ。


「俺は正直、頭領とか、そんなものに興味はないんだ。だけど、妖とヒトが諍いを起こして、お互いが傷付くのは嫌だ。どちらかを取って、片方を無視するなんて俺には出来なかったんだ」


 額に薄っすらと額に二つ巴を浮かぶ。己の顔を見ることができない翔は、それに気付かず、決意を述べ続ける。


 手が足りていないのならば、誰かが結界の管理をしなければならないのならば、宝珠を宿している自分がそれを受け持つ。これは誰に言われたわけでもない、自分の意思。

 家族に、友人に、慣れ親しんだヒトの世界に背を向け、妖の世界に飛び込んだのも自分の意思なのだ。


「朔夜や飛鳥に止められたんだ。妖の世界に行くなって。ヒトでなくてしまうって。それでも、俺は耳を貸せなかった。どうしても譲れなかったから」


 一度、呼吸を置くために口を閉じた。熱くなる胸を冷ますため、懸命に言いたい言葉を整理する。


「では、お主に問おう。今すぐヒトの血を捨てられると言い切れるかのう」


 比良利が覚悟を追究した。

 翔の志すことは、半人前の妖では無理な話。それこそ一人前の妖でなければ成せない。ヒトの血を捨てるということは、人間の自分と決別するということ。

いずれは決別する機がくるだろう。それが今となっても同じことが言えるか? 北の神主の容赦ない問いに、翔は目を伏せ、ゆっくりと頷いた。


「そのために俺はここに戻って来たんだ。比良利さんの言葉を借りるなら宝珠が宿ったのは俺の天命……なのかもしれない。怖くないと言ったら嘘になる。だけど、俺はそれ以上に大好きな妖が、ヒトが傷付くことが怖い」


「己より他者を選ぶか」


「俺を含んだ皆を選んだ答えだよ。欲張りだろ?」


 口角を持ち上げると、北の神主が本当にそうだとつられて笑う。


「南の神主になろうとは思わぬのか」


 比良利が新たに胸の内を探ってくる。翔は何を言っているのかとばかりに目を見開く。


「今の俺には無理だろ? 半人前だし、妖の世界のことは何も知らないよ」


 まずは代行人から始めなければ、南の地に住む妖達も不安を抱くに違いない。長寿の妖から見れば自分なんて坊やも坊やだろうから。

 思ったことを素直に口にすると、変なところで謙虚になる男だと比良利は苦笑を零す。妖ならば、誰しもが頭領を狙うところなのに。


「宝珠を得れば、妖を支配することもできるというのに」


「えー? なにそれ。じゃあ聞くけど、比良利さんは妖を支配しているの?」


 翔は間の抜けた顔で首を傾げる。

 自分にとって神主の手本といえば比良利。様子を見ている限り、まったく支配しているように見えないと頬を掻く。


「もし、比良利さんが支配しているって答えたら、俺……神主を勘違いしていることになるんだけど」


 すると比良利も間の抜けた顔を作り、次の瞬間、噴き出した。


「まったく、己に置き換えないところがぼんらしいのう」


 彼はクスクスと笑声を漏らし、だから宝珠は主を選んだのかもしれないと独り言を零す。


「なるほど、話は分かった」


 やがて笑いを止めると、比良利は真顔を作り、翔の覚悟を改めて確認する。


「お主がそこまで言うのであれば、この比良利も出来る限りを尽くそう。されど、逃げればどうなるか、分かっておるのう」


 事によっては、宝珠の御魂を抜かなければならない。それこそ生命力の回復を待たずして。それは、翔にとって死を意味する。その覚悟はあるか。比良利の問いに、翔はうんっと頷いた。

 けれど、すぐに思案を巡らせ、今のは不適切な返事だと気付く。


「はい。覚悟しております」


 畏まった返事に変えると、開眼した彼の瞳と視線がぶつかる。


「出来なかった、では終われぬ話じゃぞ」


「終わらせるつもりはないです。俺は出来るまでします。出来る出来ないじゃない、するんです」


「この比良利、甘えも泣き言も聞き入れぬぞ」


「すべて覚悟しております。だから、俺は家族を、友人を、ヒトの自分を捨てました」


 緊張感漂う空気に、身を強張らせてしまうが、精一杯の覚悟を伝える。また言葉だけではなく、態度でそれを示すため、自分の知る限りの礼儀作法をしなければと一歩分、身を引き、床についた両手を添えて深く頭を下げる。


「比良利さまの知る限りを教えて下さい。宜しくお願い致します」


 どれほど頭を下げていたのか。気圧される空気は、小さな笑声によって掻き消された。


「三尾の妖狐、白狐の南条翔。お主の覚悟は、しかと確かめさせてもらった。この六尾の妖狐、赤狐の比良利が責任持ってお主の覚悟を受け持とう。面を上げよ」


 そっと頭を上げると、北の神主の慈悲溢れた笑みとぶつかる。彼は翔の頭に手を置き、優しい言葉を投げかけた。


「強くなったのう。出逢った頃はひとりでは何も決められない、人任せな狐じゃったというのに」


 目まぐるしい成長だと比良利は評価してくれる。


「違うよ」


 翔は否定した。自分は強くなどない。恐怖が拭えたわけでもないし、自分に代行が務まるのか不安も抱く。親を心配させていることや、幼馴染達を傷付けた罪悪感だってある。


 けれども、自分の中でどうしても抑えられずにいる、妖とヒトを愛する、この気持ち。守りたい気持ち。傷付き合って欲しくない気持ち。


「俺が強く見えるなら、それはきっと周りの皆が強くしてくれたんだよ。ヒトも妖も、ぼんぼんの俺に優しくしてくれたから」


 上体を起こし、照れ笑いを浮かべる。

 眦を和らげる比良利は相槌を打つと、調合の続きをしようと言葉を重ねた。

 まずは己の薬を作れるようになることから始めよう。できるようになれば、自分の仕事が一つ減る。北の神主も楽ではないのだ。そう、比良利は戯言を述べる。


「これから俺のお守をしなきゃいけないしね」


「まったくじゃよ。はあ、なんで神主なんてなってしまったのか。辞めたいのう」


「あれ? 比良利さん。それ泣き言って言うんじゃないの?」


「わしは良いんじゃよわしは。なにせ、北の神主なのじゃからのう」


 それはずるい。いたく真面目に眉を寄せる翔に、比良利は大きな笑声を上げたのだった。




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