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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【参章】其の狐の如く
50/166

<六>依り代、ただの狐と思うことなかれ


  

 いなり寿司を食べた夜から翔は押入れ生活をやめた。


 相変わらず妖祓や人間に対するつよい警戒心は拭えないが、幼馴染らが食事を拒む翔を救おうと懸命に接してくれた姿を目にして、意固地な態度を少し改めようと反省したのである。


 翔は気づいたのだ。

 妖狐だのヒトだの区別されたくないと心から願っているくせに、当の本人が幼馴染らをヒトだの、妖祓だの理由をつけて区別していた。うんと距離を置こうとしていた。

 そうしてほしくないと願っていたのは自分なのに、これではまるで説得力がない。

 だから押入れ生活をやめた。

 

 翔なりに妖祓と歩み寄る覚悟の第一歩であった。



 とはいえ、そう簡単に事が前進するのならば苦労はしない。

 極端に妖祓を拒むことはなくなったものの、翔は幼馴染ら以外に心を開けていないので、座敷に大人たちが入ってくると威嚇の鳴き声を発してしまう。どうしても恐怖心が拭えずにいる。近寄って来ると物理的に距離を置こうと部屋の四隅に逃げてしまう。


 そして興奮すると己の意思とは関係なく相手を引っ掻いたり、噛みつこうとしたり、訳も分からず鳴いてしまうので翔と妖祓の距離は依然遠いままだ。手負いの獣とは翔を指すのだろう。


 そこで大人たちは手を打ってきた。

 座敷に入る際は必ず朔夜か飛鳥を同行させ、警戒心を強めるあまり興奮する翔を落ち着かせる策を講じたのである。接触禁止を命じていたにも関わらず、勝手な行動を起こした幼馴染らには何やら思うことがあるようだが、それはさておき。


 幼馴染らが座敷に来るようになると、翔は少しずつ調子を取り戻すことに成功する。

 心配を寄せてくる大人たちを『妖祓』ではなく、『よく知る人間』として認識できることが多くなったのである。が、そのおかげで弊害も少々中々多々出ている。


 たとえば、翔は座敷に入って来た飛鳥から説得されることがあった。


「ショウくん。私が傍にいるから少しだけ、ね?」

「む、むりむり、飛鳥、俺むり」


 翔は頭が取れそうな勢いで首を振る。

 飛鳥は困り果てた。


「おばあちゃんはショウくんの両手足首に巻いた呪符を剥がしたいだけなの。呪符のせいで皮膚が爛れているだろうから、ちゃんと薬を塗って包帯をしてあげたいって言っていたよ」


「薬いらない」

「おばあちゃんの腕は確かだよ。妖に関する医術も多少心得ているし、薬学の知識もすごい。安心して良いよ」

「我慢できるっ」


「診てもらうべきだって。ひどいよ、それ」

「まじ無理なんだよ飛鳥っ! 俺、殺されるっ!」


 好意を寄せている飛鳥に嘆くなんぞ情けないの極みだが、こればかりは背に腹は代えられない。本当に会いたくないのだ。

 飛鳥は大慌てで嘆く翔を慰める。


「大丈夫。ショウくんを調伏しないよ」

「……俺、紅緒ばあちゃんを引っ掻いて怪我させたんだ」

「それは私も聞いているけど、わざとじゃないことは分かっているよ」

「ばかっ。紅緒ばあちゃん怖いだろ!」

「あー……ショウくんの怖いっていうのは」


「昔から紅緒ばあちゃんの説教はねちっこいし、どこをどう反省したのか言うまで放してくれないから苦手なんだよ。怖ぇよ。怪我させたことは謝らなきゃいけないと思うんだけど、紅緒ばあちゃんになんて言われるか……ぜってぇ、ねっちこい説教に殺される」


 頭を抱えて身を震わせる翔に、飛鳥は小さなため息をついた。


「ショウくんは昔からおばあちゃんを苦手にしているよね」

「出逢った人間の中で二番目に怖い。飛鳥のばあちゃん超怖い」

「一応聞くけど一番は」

「もちろん朔夜のじいちゃんだよっ! ほんと、月彦じいちゃんの厳しさなんなの? 顔を合わせただけでチビりそうになるんだけどっ!」


「怒られる原因の大半はショウくんの悪戯だったじゃん」

「うっせえ、そのとおりだよ!」


 大人たちを『妖祓』ではなく、『よく知る人間』と認識できるようになったことで、翔は普段から胸に秘めている幼馴染らの祖父母に対する恐怖を口にするようになった。

 楢崎紅緒を怪我させたことや、和泉月彦に生意気な口を叩いた行為を顧みて、絶対に会えない。説教される。あの息苦しい空気に殺されると半べそを掻いた。


 結局あれよあれよと紅緒に怪我の具合を診てもらったが、翔は始終石化してしまい、大いに飛鳥を呆れさせてしまった。様子を見に来た和泉月彦が座敷に入ったことで、持ち前の耳と三つの尾っぽを限界まで縮ませてしまったのは余談としておく。




 閑話休題。

 翔の幽閉は未だに続いていた。

 朝昼は深い眠りに就き、夕夜に起床して活動する、じつに妖らしい生活を送っている。起きている間は何もない座敷で過ごしているので、翔はいつも暇を弄ばせている。


 この時間が苦痛となっているのだが良い出来事もあった。

 翔の妖祓に対する態度が軟化したことで、一時的に座敷から出ることが叶ったのである。


 基本的に座敷で過ごさなければいけないのだが、条件つきで入浴の許可が下りた。

 その条件とは妖祓が傍にいること。消去法で必然的に朔夜が傍につくことになるが、なにもない座敷で過ごすばかりだった翔にとってこれは願ってもない吉報であった。


(十日以上、風呂に入ってなかったから単純に臭いと思ったのかもしれねえな)


 翔としてもお湯に浸かって心身癒したいところなので、入浴はとても楽しみだった。

 

 

 しかし、ここで二つの事件が起きる。

 それは初めて座敷から出た夜のこと。


「朔夜。ごめん、長風呂しちまうかも」

「気にせず入ってきなよ。適当に携帯を弄っておくしさ。秀夜(しゅうや)兄さんのお古で悪いね」


「いいよ。下着は新しいのみたいだし、着替えを用意してもらっただけでも有り難いから。ただちょっとデカいかも? 秀夜兄ちゃんは体大きいもんな。いま大学生だっけ?」


「うん、大学二年生で留年の危機って聞いてる」

「……それ月彦じいちゃん知ったらやばくね?」


「確実に半殺しなんじゃないかな。念願のひとり暮らしを勝ち取ったのに何をやってるんだか。まあ、とにかく先にジャージを着てみてよ。大きかったから別の服を用意するから」


 翔はお古のジャージを朔夜から受け取り、脱衣所でそれを試し着していた。

 太い尾っぽが尾てい骨から三本も生えているものの、あら不思議。しっかりとジャージをすり抜けて尾っぽが外に出てくれた。


(尻尾が服を貫通してるのって、どういう原理なんだろう。実体はあるようなんだけど、着替えで邪魔って思ったことは無いんだよな。体を洗う時くらいか? 尻尾が邪魔って思うの)


 翔は洗面台の前に立ち、ジャージの着心地を確認する。

 やはり少しジャージのサイズが大きいが、まったく不便もないのでこれを借りよう。


「ううっ。なんだろう、急に背筋に悪寒が走った」


 ぶるっと身震いをした翔は風邪だろうか、と首を傾げる。

 しかし悪寒は止まらないし、何やら気配も感じる。妖祓の霊気ではなさそうだが、妙に空気が冷たい。


「え、誰かいるのか?」


 まさか和泉月彦か。

 翔が最も苦手としている人間がそこにいるのだろうか。

 素早く背後を振り返ると、そこには青白い肌を持った見知らぬ人間が立っていた。もう一度言う。見知らぬ人間が立っていた。体こそあれど足は透けている。殆ど無いに等しい。


 ギョッと総身の毛を立てる翔を他所に、青白い人間が小さく、けれど不気味に笑った。翔の頬に手を伸ばして、その手が通り抜けていく。

 ヒトは、いや今は狐ではあるが、本当に怖いことが起こると声も出せなくなるらしい。


 翔は目を白黒させたまま、呼吸をすることも忘れ、無言で三秒ほど静止。


「ショウ。一夜(いちや)兄さんのジャージもあったから持ってきたけど入って大丈夫かい?」


 朔夜の声が聞こえた瞬間、脱兎の如く脱衣所から逃げ出した。

 それはもう脱衣所にあった洗濯カゴや洗濯機にぶつかるやら、逃げ出す翔の足音は激しいやら、とにかくかまびすしい音を立ててしまった。

 おかげで玄人の妖祓たちが様子を見に来る事態になったが、翔はそれどころではない。

 廊下に出るや否やジャージを持った朔夜に飛びつき、声なき声をあげながら、持ち前の尾っぽを壁や床板に何度も叩きつけた。


「ささっ、さささ、朔夜っ、ででで、でっ、でっ!」

「しょ、ショウッ……重いんだけどっ、何が遭ったんだい」

「そ、そこの、だ、だ、脱衣所っ」

「脱衣所?」

「で、でっ、ででで、出た」

「あだだだっ! ショウ、痛いからっ! そんなにしがみつくなって」

「な、なな、南無阿弥陀仏って言えばいいのか?」

「待って待って。その唱え詞はショウが言うとまずいからっ。何か出たんだね?」


 大混乱になりながら、激しく頷く翔は脱衣所を何度も指さした。

 騒動を聞きつけた月彦が、「浮遊霊がいるようだな」と言ったことで、翔はようやく狐の鳴き声まじりに悲鳴を上げることに成功する。

 完全に大パニックに陥ってしまった。


「さ、さ、さ、朔夜、幽霊っ。出た幽霊!」

「ショウ。ただの浮遊霊だよ。霊能者が集まるところに幽霊も寄りつきやすいんだ。僕の家ではよく出るよ」


「ユーレイだぞ! ゆ、ゆ、ゆぅ!」

「えーっと。もしかして初めて見たのかい?」


「初めてに決まってんじゃんかよ。なんだよ浮遊霊って! 俺、とうとう霊が視えるようになったのか? え、意味分かんねえ!」

「半妖なんだから視える意味は分かるんじゃ」


「分かんねえんですけどぉ! なんで視えんの! 泣いちまうぞ!」

「……僕も初めて見たよ。幽霊にビビる半妖狐……ショウ、本当に妖の卵かい?」


 かくして初めて幽霊を目にした翔が入浴できたのは、それから一時間後のこと。

 半妖狐のくせに幽霊に青ざめ、慌てふためき、パニックになってしまった姿が妖祓側の視点では大変滑稽だったらしい。

 そりゃあ冷静に考えれば、半妖とて化け物なので幽霊と類似の存在なのやもしれないが、言い訳をさせてほしい。


 翔は半妖になってまだ一か月あまり。

 妖ですら恐怖することが多いのに、苦手な心霊が視えるようになってしまったなんて悪夢としか言いようがないではないか。

 負けず嫌いな性格なので普段幽霊が怖いとは口が裂けても言えないが……ああ、本当に参った。幽霊が視えるようになるなんて。


(妖が視えるんだ。ユーレイも視えて当然なんだろうけどさ)


 ぼうっと湯船に浸かりながら、翔は深いため息をこぼす。

 ふと壁掛け鏡に目を向ける。

 そこには半透明の南条翔がぼやけて映っていた。鏡は正直に翔を化け物だと捉えているらしい。いまのお前は人間でも妖でもない、中途半端な存在だと翔に教えているようにも見えた。


(風呂のおかげで、これからのことをちゃんと考えられそう)


 ここ数日、人間の優しさや食事を拒んで冷静を欠いていたが、ようやく現実問題と向き合う余裕が生まれた。

 冷静に考えても現実は厳しい。

 妖祓に正体はばれるわ、幽閉生活は続いているわ、ちっとも外に出してもらえないわ。


 なにより表向き一歩前進したようで、幼馴染らの関係がたいへん微妙になっている。


(朔夜も飛鳥も目が正直なんだよな)

 

 座敷に来るようになった彼らは、献身的に翔を支えてくれている。

 人間や妖祓を恐れると気を落ち着かせようと優しく声を掛けてくれるし、食事だって幼馴染らが用意したものであれば警戒心無く食べられるので、わざわざ二人が用意してくれる。

 逃走防止の呪符のせいで皮膚が爛れてしまいがちの両手足首も、定期的に診て包帯を取り替えてくれる。

 翔が半妖狐であっても、朔夜と飛鳥は変わらず翔を幼馴染として接してくれる。


 その反面、幼馴染らは目で訴えてくることがある。

 どうして『半妖』になったことを、真っ先に相談してくれなかったのか、と。


(……俺があいつらの立場なら同じことを思う)


 幼馴染らの瞳には無言の困惑が、静かな怒りが、ぶつけられない不満が宿っている。

 きっと本音は一から十まで翔に詰問したいのだろう。


 そっとしてくれているのは、翔が情緒不安定になっているからなのだろうが………。


(まず幽閉生活をどうやって終わらせるか、だな)


 幼馴染らのことは深い悩みの種だが、それ以上に問題は幽閉されている現状だ。

 家にも帰れず、異界にも帰れず、学校にも通えず、自分はこれからどうなるのか。妖祓は翔を調伏したいのか、それとも宝珠の御魂を抜きたいのか、それごと翔を封じたいのか。



――封印されたら天命を果たせない。なぜ、ふたたび双子と離れなければいけないのだ。我らの誓いは、生まれた意味は、いにしえより決まっている。言を食んではならない。かえらなければ。



 内なるところで厳かな、でも、かなしさを含む声が聞こえた気がした。


(まずい)


 急いで湯船から上がると、おもむろに蛇口をひねってシャワーの冷水を頭からかぶった。

 昂る妖力が急激に上がっていくのを感じる。止められない。制御できない。腹が熱い。抑えられない妖力が、そして感情が、確かに翔の中に芽生えている。


(これは雪之介と一緒に遊んだ夜と同じ現象っ)


 あの後、翔は妖力の制御ができず、本能だけで動いてしまった。妖祓に捕縛されることになってしまった。ああ、早く妖力を下げなければ。


(あついっ)


 翔はくしゃくしゃに顔を歪め、右手で腹部を押さえると、左手で右腕を掴み、それに爪を立てた。痛みが遠い。シャワーの水と共に血が排水溝に流れる。

 ふと持ち前の瞳を赤く光らせると、翔はうわ言を呟いた。

 

「かえらなきゃ」



 どこに?

 それはもちろん――となりに、となり、に。




「翔。息をしなさい」


 我に返った翔は頭からかぶっていたはずのシャワーの冷水が止まり、バスタオルが両肩に掛かっていることに気づく。

 熱帯びる腹を押さえたまま顔を上げると、またしても翔の苦手としている月彦がそこにいた。

 片膝をついて、忙しなく数珠を鳴らしている。不快な音に顔を顰めてしまうが、おかげで意識を取り戻すことができた。


「何が遭った翔」


 月彦の問いに、翔は必死に昂る妖力を抑えながら小さく鳴く。


「妖力がッ、抑えられない」


 このままでは、また白狐となった夜のように本能だけで動き回るやもしれない、と翔。


「それに声がきこえる」

「声?」


「約束を破るな。双子と誓いを果たせ。俺たちはそのために生まれた。泣きそうな声が聞こえてくる。俺の約束じゃないけど、それは俺の約束なんだ。九十九年、俺は約束を破っている」


 その事実が心苦しい。

 翔が約束を破っているわけではないのに、内から聞こえてくる声があまりにも泣きそうな声で訴えてくるものだから、翔もつらくなっている。


「守らなきゃ」


 誓い合った約束を。


「護らなきゃ」


 悪しき妖が溢れてしまった荒れ果てる南の地を。


「まもらなきゃ」


 南の地で懸命に生きる妖らを、昇り沈むいのちを。

 そのために大御魂から二組の双子が生まれ、片組の双子は『日月の双子』と呼ばれ、南北の地に下り立った。宝珠の御魂が生まれてきた意味は『まもる』それだけだ。


「九十九年、ずっとあいつをひとりにしてきた。俺は帰らなきゃいけない。あいつが限界なのはとっくに分かっている。俺たちは天命を果たすために生まれてきた。ひとりに押し付けるのはきっと間違いなんだ」


 うわ言を繰り返す翔は、汗を流しながら腹部を押さえ続ける。

 ああ腹が熱い。とても熱い。あつい。


「翔……お前は本当に依り代なんだな」


 月彦がバスタオル越しに翔の両肩に手を置いた直後、朔夜が巾着袋を持って浴室に飛び込んでくる。


「じいさまっ、例の薬です!」

「残りはいくつある?」

「二つです」

「分かった。一つを翔に呑ませなさい」


 翔の前で朔夜が両膝を折る。

 妖力が制御できない翔は、自分に近づいてはだめだ。怪我をさせるやもしれない、と弱々しく訴えるが、「大丈夫だから」と言って朔夜が巾着袋から黒光りの粒を取り出した。ビー玉ほどあるそれは妖力を下げる丸薬らしく、以前も翔を救っているとのこと。


「ショウ。急いでこれを呑むんだ」


 朔夜が翔の手のひらに丸薬を置く。

 少しでも苦痛から逃れたい翔は縋る勢いで口に放り込む。大きい丸薬だったので噛み砕いてしまったが、特有の苦味があるだけで、どうにか嚥下することに成功する。

 間もなく腹の熱が引いていくので、薬は即効性だったようだ。


「大丈夫かい? ショウ」


 肩で息をする翔は何度も頷き、ありがとうと力なく笑う。


「すごく楽になった」

「良かった。風呂場から物凄い音が聞こえてきたから、また浮遊霊に驚いているのかと思ったよ」


 周りを見渡すと浴室にあるボトル類がなぎ倒され、浴室の窓や鏡に大きなひびが入っていた。これはすべて翔の仕業なのだろう。申し訳ないことをしてしまった。


(あ、)


 ひび割れた鏡の向こうに、三つの尾っぽを持った白い狐が映っている。ヒトの姿はそこにない。半透明の人間もいない。白い狐の額には勾玉模様の二つ巴が開示されていた。


 これが三尾の妖狐、白狐の南条翔――本来の姿、化け物の南条翔の姿。

 

 鏡を遮るように月彦がすくりと立ち上がる。


「水で冷えた体を湯で(ぬく)めたいだろうが、(ぬく)めるのは布団の方が良いだろう。腕の手当てもしたい。立てるか? 着替えて座敷に戻ろう」


 翔としてもこれ以上の入浴は迷惑を掛けると思っているので、月彦の提案は素直に受け入れた。

 妖祓らといっしょに浴室を出ると、二人は廊下で待ってもらい、翔は濡れた体を拭いて着替えに袖を通す。

 風呂に入って心身癒すはずが、心底くたびれてしまった。


(こんなつもりじゃなかったのに)


 腹部をさすりながら、廊下にいる朔夜、そして月彦と共に座敷に戻る。

 しかし翔はすぐに足を止めてしまった。

 ぴんと両耳を立たせるや否や、わき目も振らず廊下を走り抜ける。


「ショウ、どこに行くんだ!」

「翔!」


 逃走防止のための呪符が発動しても、つよい痛みが走っても、構わず中庭へ飛び出した。それ以上は走れず座り込んでしまうが、それでも月が顔を出す夜空に向かって大きく鳴き声を発した。

 五感に優れた翔の耳は、確かに町中のどこかにいるであろう、狐らの鳴き声を拾った。


(会いたいッ)


 きゃいきゃい、きゃあきゃあ。

 翔は己の居場所を教えるように鳴き続ける。

 いびつな化け物らが自分に向けて鳴いてくれる、その声が恋しくて。みんなに会いたくて。ここは人間ばかりで、いびつな生き物は誰もいなくて、いびつを区別されることが怖くて、ただただ孤独で。守らなければいけない天命を果たしたくて。


「ショウっ、落ち着いてくれよ。大丈夫だから」


 朔夜が必死に呼びかけていることも分からず。

 応援にきた朔夜の父が法具を使用し、それを朔夜が止めに入っていることも分からず。双方が口論になっていることも分からず。


 少し離れたところで、数珠を構える月彦が近くの一軒家にいる妖狐を見据えていたことも分からず。苦々しい顔をする月彦が悪態をついたことも分からず。


「赤狐、まだ新月の日ではないぞ」


 そっと、その場を去る妖狐が嫌味を吐いたことも分からず。


「ただの半妖と思うことなかれ。それは宝珠の御魂に見定められた狐。仮初めでもぼんが『依り代』である以上、賜った天命に従って行動を起こす――ぼんはすでに人間の手に負える存在ではない」


 何も分からず、理性なく翔は鳴き続けた。

 いびつ恋しさに、同胞の化け物を求め、ただひすたらに。


 そう、翔は本格的に人間の己を失い始めているのだ。


 

 

 いつの間にか座敷の布団に寝かされていた翔は、すぐにそこから抜け出して壁に背中をあずける。両耳はしっかりと廊下を向いていた。

 少し遠いところではあったが、狐の五感は鋭いので、言い合う人間たちの会話は翔の耳に届いていた。


「じいさま、ショウを僕の部屋に置いてください。何もない座敷に閉じ込めているから、あいつはおかしくなり始めているんです。もっと人間らしい生活をさせてください」


「白狐は引き続き座敷に置く。近々妖祓と所縁ある神社か寺に一時的な保護も考える」


「そんなことをしてしまえば、ますますあいつは」


「我々が思っている以上に、白狐は厄介な存在になっている。半妖だけであれば、妖祓の手に負えたが、土地神の依り代については甘くみていた。土地神は天命のためなら何だって依り代にさせる。それこそ依り代の意思関係なく、天命をまっとうさせる。慎重に手を打たなければ最悪、翔は祟り狐になる。人間の厄災となる」


「だから人間らしい生活をさせるんです。ショウは家にも帰れず、学校にも通えず、外にも出してもらえず、説明もなく座敷に閉じ込められているんですよ。誰だって気がおかしくなります。あんなに狐の鳴き声で鳴くなんてっ……」


「南条翔は半妖狐。気がおかしくなっているのではなく、狐の本能が強く出ているのだ。認識を改めなさい」


「じいさまっ」


「朔夜。我々が最も重んじなければいけないのは人間であって、白狐ではないのだ。お前の気持ちは理解できるが命令だ。引きなさい」


「ふざけるなッ! なにが命令だっ、じいさまは病院に行っていないからそんなこと言えるんだろッ」


 言い合いは朔夜の怒声によって打ち切られる。

 二階に上がっていく足音を耳にしながら、翔は鏡に映った己を思い出し、小さく苦笑いをこぼした。


「俺、しっかりと化け物になっているんだな」

 

 人間と名乗れなくなる日は、きっと近い。


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