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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【参章】其の狐の如く
49/164

<五>いなり寿司


 ◆◆◆

 

 

 はてさて。

 翔は飲まず食わず生活十日目を迎えていた。

 今日も今日とて押入れに閉じこもり、自堕落に眠っていた翔だが、さすがに連日眠り過ぎてしまったのか、ちっとも眠気がこない。

 おかげで暇な時間を過ごすことになるのだが…………。


(飯のことしか考えられねえ)


 当然、暇になれば考えることは食事になる。

 翔はひどい空腹に頭を悩まされていた。

 空腹のせいで手足の感覚がおかしいし、眩暈がひどい。渇き切った喉は焼けるように痛い。唾液を嚥下する度に、粘膜が張りつくような感触がして気持ち悪い。


 妖祓が食事を用意しているのに、それを拒んでいる翔なので、これは自業自得としか言いようがない。ないのだが、しょうがないではないか。持ち前の警戒心が人間の用意する食事を拒んでしまうのだから。

 これは翔でも制御できないのだ。


(おばば。ギンコ。青葉。比良利さん……俺、帰りてえよ)


 妖のみんなに会いたい。ここはあまりにも孤独だ。誰も彼も翔を白狐として扱い、妖として接し、法具を構えてくる。味方なんぞいない。

 なにより押入れに閉じこもるばかりの生活に限界を感じる。

 自ら作り上げた環境とはいえ、誰とも接することなく、会話もなく、ひとりで過ごす時間は孤独そのもの。


(……はら減り過ぎてネガティブなことばっかり考えちまうな)


 翔は唸る。

 家族は今どうしているのだろう。形代で身代わりを作っているが、きっとあれも限界は近いことだろう。家族の目を誤魔化し通せるとは思えない。


(なんかムカついてきた)


 感情が一周回って怒りがこみ上げてくる。


(俺なんか悪いことしたかよ。あんまりだろ、こんなの!)


 翔は自分の尾を捩じりながら、これまた制御できない感情を噛み締めていた。

 完全に情緒不安定になっていたが怒ることができるので、まだまだ元気なのかもしれない。


(ん?)


 捩じった尾っぽを毛づくろいしていると、翔の耳にヒトの足音が聞こえてくる。


(廊下からか)


 これは誰の足音だろうか。

 朔夜の両親のものなのか、飛鳥の両親のものなのか、それとも妖祓長のものか。

 誰にせよ翔の警戒心は強まるばかりだ。食事を持ってこられようと、説得されようと、翔は人間に心を開けずにいる。どうしようもないほど臆病になっている。

 足音が遠ざかる。

 それに安堵の息をつく間もなく、今度は窓から音が聞こえた。


 なぜ窓から音が?


 総身の毛を立てて警戒心を最大に高める翔をよそに、窓から気配が二つ。それらは無遠慮に座敷へ侵入すると、迷わず押入れに向かって来た。

 急いで壁際に避難する翔の背後で、引き戸が遠慮がちに開かれる。


(このニオイっ、この気配っ)


 正体に気づいた翔は、ぶわっと尾っぽを膨らませ、急いで耳ごと頭を押さえた。少しの音でも拾ってしまう耳に何も入れたくない。その一心で耳を押さえる。

 だってこの部屋に入ってきたのは、今まで姿を現さなかった人間ふたり――。


「ショウ」


 名前を呼ばれたが、振り返る勇気が出ない。


「ショウくん」


 怖くて振り返ることができない。

 ふたりは今、翔の姿を見て、どう思っているのだろうか。

 化け物だと軽蔑しているだろうか。


「できるだけ早く出て来てくれよ。じいさま達に追い出される覚悟なんだから」


 ……は? 何の話だ。

 おずおずと後ろを振り返る。

 そこには誰もいないが、鼻腔に酸っぱい香りが纏わりついてくる。これは酢の匂い?


(なんで酢の匂いがしてくるんだよ)


 翔は開きっぱなしの引き戸をじっと見つめ、恐々と押入れから顔を出す。

 驚愕してしまった。数日ぶりに目にする幼馴染らが奇妙奇怪なことをしていたのだから。

 翔の正体を知って思うことがあるだろうに、二人はそれを面に出さず、部屋の中央を陣取って作業をしていた。


 どうやらボウルやトレイ、皿を並べて、せっせと何か作っている様子。


(こんなところで何してんだ? あいつら………あ)


 油揚げがトレイに載っている!

 つい生唾をのんでしまった。妖狐の大好物は伝承通りの油揚げ。翔も例外ではない。

 翔が作業を見守るなか、朔夜が三角に切った油揚げの口を広げ、飛鳥が人参の細切りが混ざったすし飯を、素早く詰める。

 きれいに形を整えて皿に盛るすし飯は手作りのいなり寿司だった。


(ご、拷問だろ)


 極限まで腹が減っている中、いなり寿司を見せつけられるとは。


(なにもこんなところで作らなくても)


 鼻腔を擽る酢と油揚げの匂いに腹の虫を鳴らしてしまう。それは一度に留まらない。

 大層な音を鳴らしてしまった翔は気恥ずかしくなり、いそいそと押入れに戻る。が、「ショウ」「ショウくん」と、二人に呼び止められて、それが叶わなくなる。


(ああくそ。なんで呼ぶんだよ)


 引き戸の枠にしがみついてしまう翔は、極力二人と視線を合わせないように努めた。

 恐怖心を表に出さないように努力するものの、生えている耳と尾っぽは非常に正直で翔の感情に伴った反応を起こしてしまう。

 こういった反応が二人を傷つけるのだろう。

 だから正体を明かす時機を見計らいたかったのに。


(ん?)


 畳の上を何かが滑ってくる。

 そして、それらは押入れの下段へ勢いよく入ってしまった。


(いまのは)


 頭だけ突っ込み、逆さになって覗き込む。

 そこには数珠と呪符の束が転がっていた。

 あれは幼馴染らが妖を祓う時に法具。大切な物だろうに、どうして自分の方に滑らせたのだろう?


「ショウくん。いっしょに食べよう。私たちの手作りだよ」


 視線を戻すと飛鳥が突然、いなり寿司の説明を始めた。

 油揚げの下ごしらえは朔夜が、すし飯は飛鳥が作ったらしい。

 やたら明るく振る舞う、意中の彼女は無理をしていた。皿にも盛ったいなり寿司を見せ、「美味しそうでしょう?」と笑顔を作る。それはそれは泣きそうな笑みであった。

 それに気づいてしまった翔は押入れに戻る。

 引き戸に尾っぽを掛けたところで、先程よりも大きな声が飛んできた。


「味は保証する! ショウくん好みに味は濃くしたよ!」


 必死に呼び呼び止める声は翔の動きを止めてしまう。

 追い撃ちを掛けるように朔夜がこう告げた。


「いまの僕たちは丸腰だ。僕たちの法具は君がいる押入れにある。君を祓うことはできない。そのうえ僕と飛鳥は一応、妖祓長の命令でショウと接触禁止を命じられているんだけど、わざわざ破っているわけだ」


 この意味分かるかい?

 朔夜が謎かけのように言葉を投げてきた。


「念のために襖につっかえ棒を入れているけど、たぶんあんまり持たないかな」


 どうやら朔夜と飛鳥は大人たちの心配を足蹴にして、座敷に侵入したらしい。


「僕の家なのに窓から侵入する羽目になるなんてね」


 後で笑い話になりそうだと朔夜。

 そこまで翔に会いに来たのだと告げる彼は、翔に約束すると言った。

 法具は使用しない。無理に近づくこともしない。押入れから引きずり出すこともしない。翔の心を傷つける行為はしない、と。


「僕も飛鳥もまだ夕飯を食べていないんだ。いっしょに食べよう」


 幼馴染らのやさしさは痛いほど伝わってくる。

 それでも未だに動けずにいる翔は何も言えず、答えられず、すとんとその場に座り込んだ。

 大好きな二人に対して分厚い心の壁を築いてしまうのは、脳裏に捕縛の記憶が蝕んでいるからだろう。


 すると焦れた飛鳥が「早く来ないと食べてしまうからね」と涙声で訴えた。

 彼女は本当に美味しいのだと伝え、素手でいなり寿司を掴むと、自分の口に放った。


「出来立てでおいしい。ほら、見て、毒なんて入っていないよ。私たちがショウくんのために作ったんだから」


 口いっぱいに頬張り、飛鳥は目尻に涙を浮かべながら微笑んでくる。

 直視してしまった翔は後悔した。

 そんな表情をされると、どうして良いか分からなくなる。


 飛鳥に倣って、朔夜もいなり寿司を口に入れる。


「まあまあかな」

「朔夜くん、そこは美味しいでしょ」

「店の味には負けるよ」

「そりゃそうでしょ」


 らしくもない明るさで飛鳥と会話を繰り広げる朔夜は、あっという間に一個を食べてしまうと、おかわりに手を伸ばしていた。


(……うまそう)


 警戒心を持って観察をしていた翔の目が物欲しい目に変化していた。

 かすかに聞こえる咀嚼音、酢の香り、手作りいなり寿司の姿。どれも食欲をそそる。連動するように、きゅるると腹の虫を鳴らせてしまい、苦い顔を作ってしまった。

 少しずつ恐怖が食欲に塗りかわっていく。


「おいでよショウくん」


 空腹の音を聞いた飛鳥が懸命に手招きしてくる。


「絶対に美味しいから」


 どうしても食べられないなら、自分の物と半分しよう。

 そう言って飛鳥はボウルに放置していた菜箸を取ると、いなり寿司を半分に割った。


「これにもし毒が入っていたら私も危ない。先に食べて見せるから、ね? ちょっとだけ。一口でいいから」

「なら、僕のも半分にしよう。ショウ、君と同じ条件だ」


 菜箸で割られたいなり寿司が皿の真ん中に置かれる。

 そして先に幼馴染らが半分を実食し、それに毒がないことを証明してみせた。

 どちらも美味しそうに噛みしめている。


 そんな姿を見たものだから、翔に大きな迷いが生まれた。


(……分かってるんだ。俺のために食事させようとしているのは)


 けれど幼馴染らは人間で翔は妖。

 翔は人間ではないのだ。


「俺は紅緒ばあちゃんを爪で引っ掻いた。腕から血を流していた」


 ようやっと幼馴染らと会話をする勇気を掴んだ翔は、ここ数日の行いを吐露する。


「俺は月彦じいちゃんも爪で引っ掻こうとした」


 未遂で終わったが法具を使用させる事態となった。


「心配する朔おじちゃんだって噛みついた」


 相手が妖祓。

 それだけの理由で翔は臆病風に吹かれてしまっている。

 同じ理由で朔夜と飛鳥を傷つけるやもしれない。どんなに大丈夫と言い聞かせても、持ち前の警戒心が強まると爪を振り下ろす可能性がある。

 そうすればどうなる? 丸腰の朔夜と飛鳥は大怪我を負いかねない。


 大好きな彼らが傷つくなら、押入れから出ない方がマシだ――分かっている、この言い分は卑怯だ。二人が傷つくこと以上に、翔は己が傷つきたくないと思っている。正体を知った彼らから、冷たい言葉を投げられることが怖くて仕方が無いのだ。


「私はショウくんがこのまま食事をしない方が嫌だよ」


 翔は垂らしていた耳と尾っぽを立て、飛鳥の言葉に耳を傾ける。


「このまま、ショウくんが弱る方が嫌だよ」

「俺は食べなくてもヘーキだ」

「でも弱っていくでしょ。嫌だよ、そんなの」

「なんで」

「ショウくんが私の立場になったら分かるよ」

「引っ掻くことも噛みつくことも抑えられねえよ」


「大丈夫。ショウくんが怖くなるまで、私も朔夜くんも待ち続ける。約束したでしょ? ショウくんが話してくれるまで私たちは『待つ』って」


 だから焦らなくて良いと飛鳥。翔の歩調で押入れから出てきてほしい。そして自分たちと食事をしてほしい。そうこい願った。

 翔は握り拳を作ると、ゆるりと幼馴染らの様子を窺う。

 待つと言ってくれた幼馴染らだが、一向に動かない翔の態度に少々傷ついた顔をしていた。

 あの顔は翔と同じ『怯え』に近い顔であった。


(俺が……妖祓を怯えているせいか)


 翔と同じように朔夜と飛鳥も『妖祓』のことを翔に隠していた。ばれた先を考えて、恐怖する未来を何度も想像したのやもしれない。

 それこそ翔よりも沢山恐怖していたのやもしれない。


(……ばかだな俺は)


 翔は気づく。

 あれほどヒトだの妖だの理由をつけて避けられたくないと願っていたくせに、自分こそ妖祓だの化け物だの理由をつけて避けているではないか。

 雪之介と種族を超えた関係になりたいと語り合っていたというのに、いまの自分はどうだ?


(思い出した)


 ふと脳裏に過ぎる。

 ここから逃げ出そうとした夜。

 朔夜と飛鳥が翔を守ろうと、他の妖祓から守ってくれたっけ。


(守ろうとしてくれた気持ちにうそはねえよな。朔夜と飛鳥だもんな)


 翔は大きな勇気を掴むと引き戸の影から出る。三つの尾っぽと耳を立て、人間の動きを観察した後、押入れを右往左往した。

 そうして自分なりに心を落ち着けると、恐々畳に足をつける。

 いなり寿司と翔の距離は目分、大また三歩。幼馴染らは五歩といったところ。


(だい、じょうぶ)


 一歩の距離を踏み出すが、持ち前の警戒心が高まる。


(だ、だ、だいじょうぶ)


 人間は翔を襲わない。調伏しない。法具を向けない。大丈夫、だいじょうぶ。

 分かっているのに、心臓が早鐘のように鳴る。冷や汗が止まらない。眩暈がしてきた。手足の感覚が完全に消えてしまっている。

 静かに混乱する翔を、幼馴染らはむやみに口や手を出さない。

 ただ見守ってくれた。静かに待ってくれていた。有り難い心遣いであった。


(お、落ち着いてきた)


 忘れていた呼吸を再開させると半歩、近づいて二人の様子を窺う。彼らの表情は明るい。もう半歩、様子は変わらない。勇気を出して一歩、いなり寿司との距離は目と鼻の先。手を伸ばせば届くところまできた。


(うまそう)


 空腹に後押しされ、翔はいなり寿司を素手で取る。

 最初は表面をぺろぺろと舐め、食べられるか確認する。醤油の甘辛さが舌にじんと伝わり、空腹が増す。

 堪え切れなくなり、とうとうそれを口に入れた。

 咀嚼すると溢れるすし飯の酸味、仄かに香る人参と白ごま。それから煮付けられた油揚げの甘味。噛む動きが速くなる。もう一口齧ると、静かに涙がこぼれた。


「さくや、あすか。おれ」


 自分がどれほど空腹だったのか。心さみしかったのか。そして恐怖していたのか、食を通して実感させられる。

 涙を拭うことも忘れ、恐怖も意地も自尊心も彼方に投げ、翔は二人に心を見せた。


「ニンゲンじゃなくなったよ」


 待ってくれている幼馴染らに、


「ばけきつねになっちまったよ」


 ようやっと抱えていた隠しごとの一片を伝えることができた。

 大粒の涙をこぼしながら自分の言葉で正体を伝えると、朔夜が翔の肩に手を置いた。飛鳥が翔の開いた手を両手で包んだ。

 そして二人は同じ顔をして、「僕は妖祓だよ」と「私も妖祓だよ」と正体を告げられた。

 隠しごとを伝え、伝えられたことで、翔はようやっと人間のやさしさを受け入れることができた。信じることができた。思い出すことができた。


「うまいな。いなり寿司」


 すごくおいしいと笑う翔は涙をぬぐい、いなり寿司を口に押し込む。濁流のように食欲が湧いてきた。腹の虫が止まらない。

 様子を見守っていた朔夜が苦笑した。


「とりあえず夕飯にしよう。四合分のいなり寿司を用意したから足りると思うけど……ショウ、ゆっくり食べろよ。一週間以上、飲まず食わずだったんだから」

「ほらショウくん。お茶も飲んで」


 飛鳥からペットボトルを手渡され、素直にそれを受け取って喉を潤す。


 あれほど食事を拒んでいたが、幼馴染らの気持ちを受け入れたことで、いなり寿司を食べる手は止まらなくなる。


 いなり寿司はおいしかった。

 四合分のいなり寿司をほぼひとりで食べてしまい、幼馴染らを仰天させてしまったが、幼馴染(かれら)の作ってくれたいなり寿司は、短い人生の中でも三本指に入るほど、とてもおいしかった。おいしかったのだ。

 

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