<七>静の夜に惜別を(伍)
「ああくそっ、体が重てぇんだけど! 食っちゃ寝の生活が祟った!」
久しぶりに外の空気を吸うことができた翔は、己の体の重たさに嘆いていた。
それもそうだ。幾日も座敷に閉じ込められ、自分のしていたことと言えば、食うか、寝るか、朔夜に貸してもらったゲームをするか、漫画を読むか……である。これっぽっちも体を動かしていなかったため、走る足が鈍りのように重い。
三人の中では一番運動ができると自負しているが、彼等の身体能力もそれなりに高い。妖祓の日々が値を上げているのだろう。
「でっ! 俺、これから何処に行けばいいんだよっ!」
取りあえず、さよならをして外に出たは良いものの、これからどうすれば良いのか、皆目見当もつかない。
ひとまず、敷地の外へ出るべきだろう。結界の外に行かなければ。
「ショウくん。だめだよ!」
玄関門に手を掛けたと同時に、玄関から飛鳥が飛び出してきた。真ん丸に目を見開いた翔は、急いでその手から逃れるために、玄関門から離れて踵を返す。
振り返れば、鋭い眼光を放つ朔夜が迫っていた。挟み撃ちにする気なのだ。
「おいマジかよ! ここで捕まったら、俺がダサイだろ!」
捕まったら元も子もない。翔は前後を見やり、猪突猛進に突っ込んで来る飛鳥を避けると、中庭へ続く道に逃げ込む。
表玄関がだめなら中庭だ。他の妖祓に見つかる危険性はあるが、背に腹は代えられない。
「朔夜ん家の塀くらいなら、乗り越えられる。どうにか二人を撒いて外に……げっ」
中庭に足を踏み入れた翔は、思わずたたらを踏んで立ち止まる。
見つからない危険性があるどころか、和泉と楢崎の当主やら、家族やらが集まっているではないか。彼らは錫杖や呪符といった法具を持ち、何か、と対峙している。複数いるようだが、ただの人間と成り下がっている翔には、多くのものは視えない。
されどヒト型の妖であれば、人間の翔にも視える。まずは、あの妖の下に行こう。行けるだろうか? いや、迷っている場合ではない。とにかく逃げなければ。
「くそ、来たな! 頼むから、俺に考えさせる時間をくれよ!」
背後に迫る幼馴染達を振り切るために、戦となっている中庭へ飛び込む。
その姿を目にした、月彦は目を見開き、すぐに表情を戻した。
「そうか、今日はあの子の“静の夜”。計ったな、北の神主よ」
対照的に和傘を振るう比良利は、それはそれは愉しげに、糸目をつり上げた。
「やはり、自らの意思で出てきおったな。紀緒よ、人型に戻り、あやつの下へ。今のぼんには人型の我らしか見えぬ。隙を見て、あやつを結界の外へ誘導せよ。わしが引きつける」
『承知。比良利さま、ご武運を』
灰色の化け狐が、持ち前の足を活かし、颯爽と逃げまどう子どもの下へ向かう。その成りをヒトに変えることで、翔の目にようやく紀緒の姿が映った。
「紀緒さん!」
美しいかんばせが、やさしく微笑む。
「翔さま、お元気そうでなによりです。少しお痩せになりましたか?」
そんな他愛もない世間話を、後でたくさんしよう。
彼女はそう言うや、翔の背を押して真っ直ぐ走るよう促す。このまま、脇目も振らす、真っ直ぐに走って、塀を上るよう告げた。
「今、道しるべを作ります。追ってくる子どもらはわたくしがお相手しますので」
翔は小さく頷き、言われるがまま、真っ直ぐ走る。何度も呼ぶ声が聞こえたが、振り返ることはしなかった。振り返れば、きっと揺れ動いてしまう。決心が鈍ってしまう。それでは覚悟をした意味がない。
視界の端で、呪符が投げられる瞬間を目にする。誰が投げたのかは定かではないが、今の翔にとって、それは紙切れ同然。避ける必要もなかった。
「怪火よ。燃えよ、燃えて道を作れよ」
紀緒の呼び声に導かれ、結界の穴から怪火が、わらわらと中庭に侵入する。そして、それらは体を燃やして、翔に道を示した。少しでも道を阻む者や、呪符が現れたら、その火で焼き尽くす。
傍では妖と人間が対立し、戦を繰り広げている。
翔にとって、最も望まない光景であった。
「帰らなきゃ。帰って、俺は……俺のやるべきことをしないと」
運動不足の体に鞭を打ち、コンクリート塀を乗り越える。
しんと静まり返った夜道が左右に広がっていた。道しるべとなっている怪火は、右に行くよう体を燃やしてくる。
「はぁ……右に行けばいいんだな。そこに行けば、おばば達がきっと」
目の前がぐるりと回り、背中が引き倒される。何が起きたかも分からず、翔は素っ頓狂な声を出してしまった。硬いアスファルトに打ち付けられると、悲鳴を嚥下して痛みに耐える。
「ばかっ、お前は本当にばかだよ」
ハッと顔を上げると、朔夜に胸倉を掴まれていた。紀緒が相手にしていたはずの彼が、なぜ。
「あまり、妖祓を舐めてもらっても困るね。父さん達も、妖祓なんだよ」
なるほど。身内に紀緒を任せてきたのか。
首を動かせば、飛鳥も傍にいた。怪火達が助けようと、身を投げてくるが、瞬く間に呪符で吹き消されてしまう。
思わず、翔はやめろと声を上げた。怪火がどのような化け物か知らないが、目の前で調伏されるところなど、見たくもなかった。それも自分を助けようとしての末路。罪悪感を抱く。
「俺はっ、俺は妖なんだよ。帰らせてくれよ。もう、人間の振りなんてできないんだよ」
乾いた音が響く。平手打ちを食らった翔は呆然とし、手を挙げた朔夜は口荒く声を上げた。
「なんでっ、僕達がここまでするのか……お前っ、考えていないだろ」
「さくっ」
「大切なんだよ! 僕も飛鳥も、お前が本当に大切なんだ。お前が妖になっても、あの頃に戻れるなら……べつに妖でも」
震える手が、朔夜の気持ちを教えてくれる。決死が揺らいでしまいそうな表情だった。自分は、この選択肢を間違っているのだろうか。
「置いて行かれる、僕達の気持ちを考えてくれよ。向こうの世界に戻ったら、もうお前はお前じゃなくなる。僕達は妖になるお前が――怖いんだ」
こわい。
冷や水を頭から浴びたような気分になる。
朔夜の訴えは、既に手遅れであった。自分はもう妖になってしまったのだ。怖いと言われようと、もうヒトではなくなった。どうしようもない。
まばたきをして相手を見つめた翔は泣き笑いを零す。
「もう、遅いよ。なにもかも、遅いんだ。人間の俺はもう死んだんだよ」
「お前の気持ち次第で、どうにでもなるって言ってるだろっ」
かぶりを振り、妖の器になったあの夜に、人間の南条翔は死んでしまったのだと伝える。自分の意思に関わらず新たに与えられた妖の血は人の血を喰らい、心身ともに妖へ成熟させていく。
それが怖かった。今も怖い。だけど、それ以上に、妖の世界が恋しくて仕方がない。同族、仲間に、妖に会いたい。
「人間には戻れないんだよ朔夜。血が騒ぐんだっ、妖の血が。狐の血が。妖狐の血が」
朔夜の向こうに、広がる新月の空にゆるりと手を伸ばす。
瞬く星々がとても綺麗だ。澄み渡った青空よりも、星明りに満ちた夜空の方が何倍も魅力的だと思える。
なにより夜は妖の時間。今頃、日輪の社では妖が賑わいを見せている頃だろう。嗚呼、翔は感嘆を漏らし、小さく口角を持ち上げ、目を細めた。
「帰りたい、妖の下に。妖の社に。妖の世界に」
どうかあの世界に自分を帰しておくれ。妖の自分には人の世界には合わないのだと翔。
一変して顔をくしゃくしゃにした朔夜が何度も否定する。
「ショウは人間なんだ!」
自分達と同じ人間なのだ、と。
「朔夜、もう分かっているんだろう? 俺が戻れないことくらい、お前等とは違うことくらい、もう分かっているだろ? お前は頭が良いんだ。分かってるはずだよな?」
だって自分は、こんなにも夜を好み、夜行に動いて朝日と共に眠る。人間は尾も耳も生えていない。妖力も宿っていない。自分は妖狐なのだ。
泣きそうな顔で笑うと、涙目の飛鳥に手を取られ懇願された。
「変わらないっ。ショウくんっ、私達と何も変わらないから」
彼女が縋ってくる。
一緒にいよう。これからも一緒にいよう。妖の世界に飛び込んでしまえば、今以上に妖祓に狙われる可能性だってある。自分の家だって例外じゃない。妖祓に祓われる幼馴染を目の当たりにしたくないのだと飛鳥。
「そんなの嫌でしょう?」
同意を求められても、翔はただただうわ言のように繰り返す。妖の世界に帰りたい、と。
意思を変えるつもりはない。
初めて彼等と別の道に進む覚悟を抱いた。この気持ちを崩す気など毛頭ないのだ。
何を言っても無駄だと思ったのだろう。くしゃくしゃの顔を作ったまま、朔夜が腹部に手を沿え、素早く鳩尾を突いた。
視界がぐにゃりと歪み、翔の四肢は力を失う。かろうじて取り留める意識の中、「ごめんショウ」耳に蚊の鳴くような謝罪が聞こえた。
「失いたく、ないんだ。僕も、飛鳥も。心身妖狐になる君を見ていたくない」
嗚呼、もう心身妖狐になっているというのに。なっているというのに。
底なしの虚しさを抱きながら、ぐったりと頭を垂らす。
泣きじゃくる飛鳥の声が、息を殺す朔夜の声が鼓膜を振動する。大好きな人達を傷付けている罪悪を抱いてしまったが、それでも気持ちは変わらない。変えようがないのだ。
自分はもう、妖そのものになってしまったのだから。
と。
クオーン。クオーン。クオーン。何処からともなく狐の鳴き声が聞こえた。その声により翔の意識は戻って行く。
うめき声を上げ、どうにか飛鳥の手から自分の手を引く。上体を起こそうと腹筋に力を入れた。
「呼ん、でいる。誰かが俺を呼んでいる」
腹部を押さえ、懸命に身を起こそうとすると朔夜と飛鳥が法具を取り出した。戦うつもりらしい。
そんなことはして欲しくない。自分が帰れば済む話なのだから。
「あす、か。さく、やっ……やめっ……たたかう、な」
気持ちを言葉に出そうとした瞬間、音響花火のような音がパパン、パパン、と辺りに飛び出し、目の前に白煙が現れた。
視界が奪われ、混乱する翔の耳にまた鳴き声。
同時に強い突風が自分達の間を吹きぬけていく。ほぼ条件反射で左右に避けた朔夜と飛鳥はしまったと声を上げ、翔は強い浮遊感に襲われた。宙ぶらりんに浮く翔の体は風と共に夜空へ昇る。
何が起きたか分からず、痛む腹部を押さえながら、忙しなく首を動かして自分の置かれた状況を確認する。
次第にはっきりしていく意識は急激に冷めていく。
だって足元は地から随分離れ、体は相変わらず浮遊感が襲い、満目一杯に灯りが点っている夜の住宅街が広がっている。
つまりそれは。
「なっ、なんで飛んでいるんだよぉおお!」
自分の体に異変があったわけではない。
けれど、自分の周りには何もない。小さな街並みや星、それから冷たい夜風が翔を取り巻くばかりである。
悲鳴にならない悲鳴を上げて、どうなっているのだと四肢をばたつかせる。と、視界がぐらりと大きく揺らぎ、宙ぶらりんの体勢から何かに乗っかる体勢へ。
それによって目に映る視界に歪みができ、見えなかった何かが姿を現す。
翔は状況を把握した。自分は巨大な妖獣の背に乗っているのだと。
恐る恐る獣に目を落とす。その獣は銀の体毛を持っていた。ふさふさの一尾を風に靡かせ、空を翔けている。
クオン、甘えたな声と共に妖獣が首をひねり、此方へ振り返った。額に白い勾玉が埋まっている、その妖の顔を目にした翔は頓狂な声を上げてしまう。
「お、お前。ギンコ? もしかしてギンコか?!」
うんうんと首を縦に振る銀狐に、「ちょっと見ない間に随分と成長したな」何を食べたらそんなに大きくなったんだと絶句する。
あんなにも小さな体躯をしていたのに、今のギンコはヒト二人分、余裕で乗せられる体躯をしている。
もしや銀狐の妖型か?
翔は先ほどまでギンコの姿を視ることが出来なかった。ギンコに触れることで、狐から妖力を分けてもらい、見えるにようなったのだからきっとそうだろう。
冷静にギンコを観察し、首辺りを両手で撫でてやる。
すると狐が嬉しそうに鳴き、べろんっと翔の顔を舐めた。いつもより大きな舌に思わず顔を引き攣らせてしまうが、なるべく表に出さないよう努める。
『成功したようですね』
ギンコを撫でていると、右脇から声がした。
視線を流せば、キタキツネの毛並みを持つ妖型の青葉が、背中におばばを乗せて空を翔けている。彼女は自分達の真上に昇ると、姿を人型に変え、おばばを腕に抱いたままギンコの背に飛び乗った。煙幕を張ったのは彼女の仕業だったようだ。
「下手に妖祓と交えたくないですからね」
地上を見下ろす青葉につられ、翔も下を見つめる。
幼馴染達の姿が見受けられたが、どのような表情をしているのかイマイチ分からない。夜目が利いていないせいだろう。
それで良いのだと翔は心底思った。彼等の顔を見ればきっと躊躇いが出るだろうから。
「オツネ。比良利さまの下へ」
青葉の指示に一声鳴き、銀狐は大きく旋回した。
「比良利さまの立てた策はうまくいきました。もう、戦は終わりです」
「策って?」
曰く、比良利と紀緒がオトリとなり、妖祓達を受け持つ役目を買ったらしい。
北の神主が現れることで長達は自分達に集中するだろう。そうすれば翔はより部屋から出やすくなる。翔が妖の世界に帰るだろうと見越し、計画した行動だという。
大変危険な役割を受け持った比良利と紀緒だが、二人は日輪の社を守る神主と巫女。そう簡単にはやられはしないだろう。翔は中庭で見た、戦の光景を思い出す。
「あそこです。オツネ、合図を出します」
青葉が中庭を指差したことにより、銀狐が高度を落とす。
彼女は片手で輪を作ると、合図の指笛を鳴らした。耳の良い化け狐どもは、策が成功したことを知り、その場から飛び退き、家の塀へ移動した。
「我等の勝ちじゃ。妖祓」
クスクスと笑う比良利は、閉じている和傘を天高く翳し、意気揚々と声音を張る。
「三尾の妖狐、白狐の南条翔は確かに返してもらった。同胞は我等の手中にあり」
なにより白狐は自ら妖の世界を望み、ヒトの世界に包まれたあの部屋から出た。これはなんびとも変えられない事実。子は自分達と同じ妖、立派な妖に成熟しているのだと明言する。
比良利は先に獣型となり空へ昇る紀緒を一瞥し、自分も蛇の目模様の和傘を広げ妖祓達に向かって口角を持ち上げた。
「縁があれば、また会おう妖祓。我等は支配する暗夜に身を委ね、己の世界に帰るとする。ヒトの世界は我等には眩しすぎる。突然の訪問、やれ失礼致した」
塀を蹴り、和傘を回して北の神主は空へと舞う。
北の神主が一声鳴くことによって、他の妖狐達も一斉に鳴声を上げ、怪火達がわらわらと空へのぼり、闇が広がる空を翔け始める。
真っ向から吹く風を顔で受け止めつつ、翔は未だに地上を見下ろしていた。
若すぎる妖祓達が目に映る。中庭に回ってくる、ふたりの妖祓。
小さく見える腹心の友が走りながら何かを叫び、想いを寄せている彼女が手を伸ばしている。かろうじて見えたその姿に、翔は眦を和らげて笑みを零した。
(朔夜、飛鳥。ごめん。さよなら)
心の中で謝罪し、地上から目を外した。
「さてさて。早く帰ろうぞ、同胞達よ」
比良利が和傘を一振りする。大きな突風が生まれ、より妖祓から遠ざかった。気流に乗った妖狐達は翔ける足を加速させ、ヒトの世界を顧みることなく帰って行く。
そう、深まる闇夜の向こうの、妖の世界へ。
「そんなっ……ショウくん」
その場で両膝をつく飛鳥は止められなかった、と呟き、残酷な現実に呆けた。彼女を慰める余裕すら生まれず、朔夜は嗚呼、と下唇を噛み締めた。
「馬鹿だよ。君はっ、本当に馬鹿だよ――ショウ」