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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【参章】其の狐の如く
49/158

<六>静の夜に惜別を(肆)



 ※ ※



 其の人々が知らぬ、其の妖の世界。


 其の地を統べる赤き妖狐は憩殿の中庭を過ぎり、紅きヒガンバナ畑を突き進んでいた。



 刻は黄昏時。暮れる空に耳を傾け、彼は嗜好品の煙管を片手に家屋を出る。誰もいない本殿や拝殿を通り過ぎ、静けさを保つ参道の前に立つ。彼が通れば、参道の両脇に備わる松明にぼっ、ぼっ、と妖しく火が灯った。今宵も“妖の聖域”である“妖の社”は日暮れと共に目を覚ます。


 比良利は鳥居を潜る。


 等間隔に並ぶ鳥居には目もくれず、先へ続く石段を下っていくと、其のヒトの世界が顔を出した。

 ここ妖の社は、其の人の世界の神社と繋がっている。


 比良利の目に飛び込む世界は寂然とした神社だった。


「ヒトは神社を不要だと思っておるのじゃろうか。あの頃に比べ、廃れたものじゃ」


 侘しいものだと北の頭領は吐息をつく。澄んだ空気を保つ其の妖の世界と違い、ヒトの世界の臭いは何処となく篭っていた。


 また、ヒトの世界は喧騒に満ち溢れている。


 ここに立つだけで様々な音が己の鼓膜を振動するのだ。小鳥のさえずり、木々の葉がこすれる音、風の歌声は機械的な音によって掻き消されている。

 まことに、喧しい世界だと比良利は思った。人間の耳は麻痺しているのだろうか? そう首を傾げてしまうほど。


 狐から妖狐となった彼にとって、ヒトの世界は到底理解できるような世界ではなかった。


 忘れ去られている社殿の屋根まで飛躍する。鎮守の森という名目でそれなりに木々に囲まれた神社を見渡した後、酉の方角を仰いだ。


 喧騒の中に聞こえる。

 嗚呼、聞こえる。

 同胞の求める声。若すぎる雄妖狐の鳴き声。


 比良利は柔和に口角を持ち上げると、方角に向かって一声鳴いた。轟く妖狐の一声は空を満たす。


 間もなく、それに応えるように返ってきた、若い雄妖狐の鳴き声。風に乗って比良利の下まで届く。煙管を袂に仕舞い、手中に和傘を召喚する。赤い下地に白の弧を描いた蛇の目模様が大層目を引いた。


 紅き長髪を靡かせ、北の頭領は同胞の思いをしかと受け止める。


「三尾の妖狐、白狐の南条翔。我が対よ。既にお主は“妖の血”にヒトの血も、其の心も食われておるのじゃな」


 切に聞こえてくる同胞を求める声。

 彼は嘆いている、身を置くヒトの世界に。彼は悲しんでいる、理解のできぬヒトの世界に。彼は帰りたがっている、此の妖の世界に。


 例え生まれ育った世界がヒトの世界だったとしても、それはヒトだった頃の己が求める世界。妖と種族転換した彼にとって求めるべき世界は、同種の妖の世界なのだ。愛すべき家族や友人がいようと、住み慣れた世界がそこにあろうと、妖の彼の心は満たされない。


 南の神主に、そして己の対になるかもしれない若すぎる妖狐を想い、比良利は頬を崩す。



「ぼんはヒトではない。獣でもない。姿かたちが歪な生き物よ。同胞と呼べるのは同じ歪な存在である我等のみ――そうであろう?」



 迷子となっている同胞よ。

 さあ、かえっておいで。


 お前の生きるべき世界は其処ではない。此の妖の世界にある。かえっておいで。


 我が対よ、かえっておいで。


 歪な我等は、歪なお前の帰りを待っている。



 ※


 翔は眠るたびに懐かしい夢を見ていた。

 どのような夢か。それは瞼を下ろす度に違うが、大半が朔夜や飛鳥と過ごす平凡な日々だった。幼少から小学生、中学生、高校生、どのページも代わり映えのしない思い出。


 しかし、愛おしい思い出であった。

 あの頃、翔は二人の後を、金魚の糞のようにくっ付いて回っていた。うざったいくらい共に居たがった。あまりにも一緒に行動したがるため、母に何度お小言を貰ったか分からない。


 時折、二人からも疎ましそうに溜息をもらった気がする。

 翔は自分でも制御できないほど、幼馴染達に依存していた。


 けれど気にしなかった。二人と行動することによって、新たな世界が開けると知っていたし、孤独にもならずに安心だと思っていた。


 幼馴染達に任せておけばいい。自分は彼等の後についていけばいい。そうすれば何も怖くない。自分で自分のことを決めることが苦手な翔にとって、幼馴染達は道しるべでもあった。


 嗚呼、こうやって大人になっても三人で肩を並べていくのだろう。否、自分は先を歩く二人を追い駆けていくのだろう。

 朔夜は自分の道を勝手に進み、彼に恋をする飛鳥が背中を追い、自分はその二人を追い駆ける。

 この関係は必然的なのだと、翔は感じていた。

 何も知らなかったあの頃は、そう思い描いていた。



(呪符の痛みが薄れている。俺の妖力が下がり始めている証拠かな)


 正午過ぎ。

 珍しく昼間に目が覚めた翔は、頭から毛布を被り、布団の上で体の異変を観察していた。


 包帯の上から貼られた呪符を恐る恐るなぞる。下手に触れば痛みが走る呪符だが、今日は何も感じない。無理に呪符を剥がそうとすれば痛みを感じるが、それも夕暮れの刻には無くなるだろう。


 今宵は“静の夜”であり新月の夜。


 おばばと交わした、約束の夜を前にしている。

 ヒトの自分を優先したければ妖祓の手を、妖の自分を優先したければ妖の手を取るよう促されている夜。運命の夜を前にしているせいで、とても翔の目は冴えていた。


 さて一昨日の夜、圧倒的な力の差で敗北してしまった翔だが、こんにちまで命も宝珠も取られずに生かされている。不思議な気持ちだった。容赦なく宝珠を取られると思っていたのだから。


 怪我の介抱は幼馴染がしてくれる。


 しかし、その表情は悲しみに暮れているため、多大な罪悪感を覚えるもの。きっと自分の怪我に責任を感じているのだろう。翔は慰めの言葉として、「これはしょうがなかったんだ」と告げた。


 お互いに譲れないものがあったのだ。それゆえの衝突だったのだから、怪我を負っても仕方がない。けれど、二人を恨んでいるわけでもない。安心して手当てを任せられる、と言って微笑みを送った。


 あまり慰めにならなかったようで、二人を余計に落ち込ませてしまい、翔の方が困ってしまったのは蛇足としておく。


「ねえショウ。どうしても、宝珠は渡せないのかい? なにか理由があるのかい?」


 宝珠を渡せない理由を尋ねられる度に、答えられずに黙秘してしまう。

 命に関わる、といえるわけもない。幼馴染達には無用な心配を掛けたくない。態度に幼馴染達は不満を抱いているようだったが、深い追究はなかった。常に自分の怪我を優先してくれた。


 一件の出来事で、翔は妖祓達に強い警戒心を持ってしまったが、妖祓達に魔封の結界と五行星の結界の二重結界に閉じ込められていようと、宝珠の御魂が狙われていると知っていようと、幼馴染達にだけは変わらぬ態度を貫いていた。


 相手が変わらぬ態度で接してきてくれるのだ。それが嬉しくてうれしくて翔もそれに応えている。

 やっぱり自分は幼馴染達が大好きなのだ。種族が変わろうと、相容れぬ存在になろうと、人でなくなろうと、朔夜と飛鳥に大きな親愛を寄せてしまう。


「一尾お前さんに向ける笑みくりゃさんせ。二尾お前さんと共に悲しむ涙くりゃさんせ」


 軽く右腕の呪符を叩き、翔は幾度目のわらべ歌を口ずさむ。抱く寂しさはこの歌一つで紛れるのだ。


 朔夜の母親が様子を見に来ようとも、長が説得しに来ようとも、それこそ幼馴染達が会いに来ようとも、翔は歌を飽きずに口ずさむ。


「三尾慕情の花が咲き、四尾別れを惜しむ情もあり五尾切なさ時にあれども」


 短い歌ではあるが勇気が貰える。妖狐のわらべ歌だからだろうか。真上に昇る太陽が西に沈んでいく様子を眺めながら、延々と翔はわらべ歌を口にする。


「六尾怒りで我を忘れることもあれども、あるいは七尾弱き心に打ちひしがれることもあれども」


 嗚呼、空が茜に染まる。なんて美しいのだろう。

 感傷に浸っていると襖が開かれる。誰が来たのかは、聞こえてくる足音で分かった。構わず翔は歌い続ける。


「八尾強き心が芽吹き、九尾お前さんと生きる喜びに目覚めぞよ。嗚呼、九つ尾っぽにゃ情がある。まことに嬉しきかな嬉しきかな」


 歌い終わった余韻は心地良く、思わず瞼を閉じて、歌詞を反芻する。

 フンフンと鼻歌でわらべ歌を繰り返していると、「また歌っていたの?」と、セーラー服姿の飛鳥が右隣に腰を下ろしてきた。左隣には学ラン姿の朔夜が腰を下ろす。


 膝を抱える彼女、胡坐を掻く彼を交互に見やり、大好きな歌なのだとはにかむ。この歌を口ずさむだけで胸があたたかくなる。寂しさが紛れるのだと素直に白状した。


 なんとも言えない顔を作る二人に、「もう歌わないよ。お前等が帰ってきたから」と、笑声を零しておどけてみせる。


「おかえり」


 遅めの挨拶に、ただいまと返される。

 それだけのやり取りだけで嬉しくなった。

 昼通し歌っていたから喉が渇いてしまった。翔は被った毛布をそのままに、体を引き摺って枕元に置いているペットボトルに手を伸ばす。


 不安定な布団の上に置いていたせいか、ペットボトルがころんと畳の向こうへ転がった。慌てて手を伸ばすと結界によって拒まれる。


「いてぇ!」


 手を振り、転がっていくペットボトルを目で追う。

 これでは飲めないではないか。口を曲げていると、朔夜がさり気ない動作で茶を取ってくれる。


「はい。ショウ」


 差し出してくれる彼に破顔し、礼を告げて茶を受け取った。ぬるい緑茶で喉を潤していると腹の虫が鳴り、自分が空腹であることに気付く。


「腹減ったな。うーんと、確かおばちゃんが昼食を置いていったんだけど」


「ああ、サンドイッチのことかい? ちょっと待ってて」


 再び朔夜が手を伸ばし、サンドイッチの皿を翔の前に差し出す。

 タマゴやツナ、イチゴジャム、カツなどが入った具沢山のサンドイッチは見るからに美味しそうである。

 しかし、翔は必要以上に耳を立て、角度を変えて、それを観察する。作った相手が朔夜の母親だと知っているために強い警戒心を抱いてしまうのだ。

 じっーとサンドイッチを見つめていると、おもむろに飛鳥が手を伸ばし、タマゴが入ったそれを半分にして口に放る。


「うん。手作りの味」


 美味しいと微笑む彼女が、もう半分を翔に差し出した。

 警戒心を解いた翔は、安心してサンドイッチを口にする。マヨネーズがきいたタマゴを咀嚼し、その美味しさにクンと鳴いて喜ぶ翔だが、ふと唸り声を上げてしまう。


「んー。狐の本能ってのも、めんどくせぇよな」


 少しでも疑心を抱いたら、馬鹿みたいにそれを疑ってしまうのだから。

 サンドイッチを咀嚼する翔は、狐の本能に溜息をついてしまう。この警戒心の強さは狐によるものだと気付いている。以前の自分なら疑いもせず、口に入れていただろうに。それだけ朔夜の母親を信用していない証拠なのだろう。


 胡坐を掻くと、自分の膝の上に皿を置き、次のサンドイッチに手を掛ける。一度疑心が晴れると食べる手も止まらないのだ。


「あっ。俺だけ食べているけど、お前等いるか?」


 双方に聞くと、「ショウが食べなよ。なにも食べていないんだろう?」と、朔夜に苦笑される。自分達は昼食を取っている。まだ食事には早い。そう言われ、遠慮なくサンドイッチを一人で頬張る。


 あっという間に一人前を平らげると翔はごちそうさまと手を合わせ、その指先をぺろぺろと舐めた。本音を言えばまだ足りないのだが、取り敢えず腹は満たされたからよしとしよう。


 手馴れた手つきで己の三尾を前に持ってくると、ふさふさの体毛を手櫛で梳き、時に体毛を舐めて毛づくろいを始める。


 日課となってしまっているので翔はこれをしないと、とても気持ちが悪いのだが、幼馴染達は未だに見慣れない光景らしく微妙な顔を作ってくる。きっと自分をヒトだと見ているからだろう。仕方が無いのだが、こればかりは譲れない。


「ミミとおんなじことしてるね」

「一応俺も獣だしな」


 苦笑してくる飛鳥に、翔は整った一尾にご満悦しながら返事をする。


「ほら半分は狐だから、動物とおんなじことをしたがるんだって……どうしようかな。仮に家に帰ってもさ、狐の本能は残っているだろうし。親をドン引かせそうな行動を起こしそうで怖い。な、生肉とか平気で食っちまいそう」


「狐は雑食に近い肉食だからね。それは仕方が無いよ、ショウ」


 でも、お前は人間の心を持つ妖狐だからね。

 朔夜が意味深に言葉を重ねた。

 静かに首を縦に振り、翔は綺麗に整った尾の一本を抱きかかえる。


「なあ。学校、今、どうなっているんだ? 授業、何処まで進んでいるか不安なんだけど」


 元々勉強は得意ではない。翔は常日頃から気になっていた、学校生活について二人に尋ねる。自分はどういう扱いになっているのだろうか?


 すると飛鳥曰く、長期欠席扱いになっているらしい。なんでも親が休み届けを出したとか。


 翔は家族を思うと気が重くなってしまう。やたら成績を気にする口煩い父母だったが、今頃は目覚めない息子に涙しているに違いない。多大な心配を掛けていることに、力なく眉を下げてしまう。


 身代わり人形は、今も眠り続けているだろう。そして一人息子の昏睡に両親は奔走しているに違いない。


「家に帰りたいな」


 思わず口に出してしまった本音に、「大丈夫だよ」と飛鳥。


「ショウくんは家に帰してもらえる。祓われることも、封印されることも、絶対にさせないから」


 ただし、それには宝珠のことが解決しなければならないだろう。

 複雑な気持ちを抱く翔に、二人がどうしても宝珠を渡せないのかと切り出してきた。

 翔はのろのろとかぶりを振る。これは簡単に渡させない。それは幼馴染達の願いであろうと聞けないのだと目を伏せる。何故なら自分は妖を嫌っていないのだから。寧ろ――。


「もうこの話は仕舞い! お前等道連れだ!」


 空になった皿を布団の隅に置くと、腕を広げて二人に飛び掛る。

 驚く幼馴染達と共に、布団の上へ倒れこんで笑声を上げた。


 子供っぽいやり取りに二人から叱られてしまうが、構わず尾を揺らしてクンと鳴く。


 足をばたつかせ、毎日来てくれる幼馴染達にじゃれついた。


「重いよ!」

「ショウ。勘弁してくれよ」


 幼馴染達の抗議に頬を崩す。心中で呟いた。お前等のこと、大好きだ、本当に大好きだと。


 そうして戯れた時間を過ごしていると、廊下の向こうから朔夜の母親の声がした。

 茶菓子の用意をしてくれたらしく、取りに来るよう息子を呼んでいる。警戒心を抱いている翔のためを思っての配慮だろう。


「ちょっと行って来るよ」


 朔夜が腰を上げた。


「あ、手伝うよ」


 飛鳥が後を追い駆ける。本当はその後を自分がついて行くのだが、今の翔には叶わないことである。


 それに気付いた飛鳥が躊躇いを見せたが、いいから行けと手で払う。一人では大変だろうから、そう言って背中を押してやると、飛鳥は肩まで伸びた髪を靡かせて朔夜の後に続く。


 幼馴染を見送った翔は、す、と真顔を作り、腕に貼ってある呪符に触れる。

 容易に呪符は剥がせることに気付き、五行星の結界も抜けられると腕を伸ばして試した。


 しかし、まだ耳と尾が残っているため、完全に人間へ変化したわけではない。暮れてしまいそうな空を睨み、早く夜が来てくれることを願った。




 一方、台所から茶菓子を持って出た朔夜と飛鳥は、翔の様子に気掛かりを覚えていた。

 何がどう、おかしいのかは分からない。

 ただ何処となく違和感を抱いていた。長年の付き合いが、六感を疼かせているのである。気のせいだと思いたいが、胸騒ぎがおさまらない。


 視線を合わせ、気のせいであることを確認しあう。


「あのショウだよ。きっと大丈夫」


 誰よりも幼馴染の傍にいたがる彼だ。自分達を置いて何処かへ行くわけがない。朔夜は苦々しい面持ちで、飛鳥に同意を求める。

 うん、彼女は頷いた。


「昔から私達に引っ付いていたよね」


 きっと大丈夫、翔はこれからも自分達の傍にいることだろう。いたいと思ってくれるだろう。


「……ちょっと違うね。私達がショウくんの傍にいたいんだよね」


 飛鳥は訂正を入れた。

 翔ばかりだと思っていたが、自分達だってこんなにも傍にいたがっている。それだけ大切な人になっている。彼女は足を止めた。


「私と朔夜くんはいつも一緒だったね」


 彼女は縁側から中庭を眺めた。


「それは妖祓の家系に生まれた子供だから。私達の結びつきは、これだけだった」


 必然的な組み合わせだったよね、と飛鳥は吐息をつく。

 先を歩く朔夜も足を止める。

 紫がかった空を見つめる彼女は、ほのかに笑みを浮かべ、ゆるりと目を伏せた。


「でもショウくんは一般人の子供だった」


 ゆえにいつも一緒にいる必要はなかった。と、声を窄める。

 けれども、翔は自分達の傍にいたがった。彼がいたから、普通の子供として過ごせる毎日があったと言っても過言ではない。自分達だけだったら、きっと毎日が妖の話題で鬱々としていたことだろう。それだけ自分達の間で、妖は根付いているのだ。


 だが翔は妖も何も知らない一般の子供。この地に引っ越してきた彼は、自分達の仲間に入り、一般の子供が見る世界を自分達に見せてくれた。


 何もなくとも遊びに行こうと誘ってくれたし、三人だけの秘密を作って周囲にはない絆を作ってくれた。彼の見せてくれる自由な時間に、ひと時でも妖祓のことを忘れられたのだ。


「贅沢な時間を貰っていたのに、私はそれにすら気付けなかった」


 決して表に出さなかったが、翔は一般の子供だからと、妖など知らない子供だからと、心のどこかで妬ましく思っていたのだ。並行して普通の子供でいられる幸せに羨望を抱いた。なんて、愚かで醜い感情なのか。


「ショウくんって、こんなにも私に、夢を見せてくれていたんだね」


 唇を噛み締める飛鳥は吐露する。翔を失いたくない。傍にいて欲しい。あの優しい時間を、三人で過ごせる幸せを、これからも味わっていきたい。

 なにより、失いそうになって彼の大切さに気付いた。


「私、守るよ。ショウくんが妖狐になっても……おばあちゃん達なんかに、絶対に封印なんかさせない。祓わせないんだ。妖祓を破門にされたって、私はショウくんを守る。守りたい」


 彼女はくしゃっと顔を歪め、茶菓子が載った盆を握り締めた。

 静聴していた朔夜は、飛鳥の言葉に気付く。自分の、知らぬ心に。


 そうか、自分こそ幼馴染達を手放したくなかったのだ。翔ばかりが幼馴染の自分達と共にいたいと思い込んでいたが、自分こそ手放したくなかった。


 誰が欠けても駄目なのだ。

 誰かが欠けることで、幸せな均衡は崩れてしまう。


(米倉が言っていた意味が分かった。僕達こそ、ショウに執着をしていたんだ)


 一般の子と同じ世界を翔が見せてくれる。絶対に手放したくない。そんなずるい思いを抱き、けれど相手の執着心を理由に、自分達の気持ちを隠していたのだ。

 本当にずるいものだ。幼馴染病を患っていたのは、こっちだというのに。


(ショウが、自由な世界を見せてくれていた。)


 だから、こんなにも世界は色づいていたのだ。どうしてそのことに気付かなかったのだろう? 大切なことなのに。


(今ならハッキリ言える。僕は飛鳥やショウと、これからも一緒にいたい。もっと幼馴染達を大切にしたい)


 強い気持ちに駆られた朔夜は、守ると決意を固める飛鳥に歩み寄る。


「僕もショウを守るよ。飛鳥、君と同じだ」

「朔夜くん……」


「失いたくないんだ。この関係も、幼馴染も。大丈夫、また元の関係にもどれるよ」


 今はぎこちなさを感じ、違和感を抱くだろう。しかし、すぐに修復できる。自分達の気持ち一つで。


「ショウに言わないとね。お前ばかりが、幼馴染のことを好きなわけじゃないんだぞって」


 泣き顔を作っていた飛鳥に、今の気持ちを伝えればきっと伝わる。彼に思いは届くと眦を和らげた。

 瞳を濡らす彼女は力強く頷き、スンスンと鼻を啜って泣き笑いを浮かべた、その時であった。


 飛鳥は石化したように、身を強張らせる。それは朔夜も同じであった。

 二人はぎこちなく目線を持ち上げる。


 見つけてしまう。家をぐるっと囲むブロック塀の上、暗紫に深まる空を背景に、和傘を差す男と、巫女装束の女が肩を並べている姿を。


 浄衣姿の男に見覚えがある。長い紅の髪を持つ青年は、自分達に自己紹介をしたことがあった。狐耳と六つの赤い尾っぽを揺らす輩は二人の視線に気付くと、おどけたように蛇の目傘を回し、緑の黒髪を持った巫女と共に庭の敷地へ。


 軽やかに着地した輩は、含みある糸目を二人に向け、ニッと口角を持ち上げてくる。


「また会ったのう。若すぎる妖祓」


 雪のように白い浄衣姿。それによって映える紅の髪。六つの尾っぽに狐の耳。愛用しているであろう和傘――北の神主。妖の頭領。


 お盆を落とす飛鳥は、相手の桁違いな妖気に身を震わせる。

 後退する彼女の前に立つ朔夜も、湯呑の載った盆を落とし、その肌刺す妖気の強さには固唾を呑んでしまう。


 二人の反応とは対照的に、北の神主は残念そうに眉を下げた。


「勿体無いのう」


 折角の茶菓子が台無しじゃないか、と肩を竦める。


「変わった家屋じゃのう」


 北の神主は周囲を見渡し、見たこともない家の造りで興味深いと感想を述べる。まず部屋の明かりが昼のように明るい。まことに不思議だと、大袈裟に声を上げていた。

 それに対して、連れの巫女が呆れた面持ちを作っているが、朔夜と飛鳥に反応する余裕はない。


 何故、妖を統べる北の神主が此処に。何故、結界を張っている妖祓の家にいとも容易く侵入している。なぜ、のこのこと姿を現した。

 疑問が花火のように脳内で浮かんでは散る。


「久しい再会ゆえ、改めて自己紹介でもしておくかのう」


 北の神主は傘を閉じ、頭を下げて一礼。倣って巫女も深々と頭を下げる。


「わしの名は六尾の妖狐、赤狐の比良利。またの名を四代目北の神主と申す。突然の訪問を失礼致す」


「私は二尾の妖狐、ハイイロギツネの紀緒。またの名を六代目北の巫女と申します。以後、お見知りおきを」


 懇切丁寧に挨拶する妖狐達だが、警戒心は膨張するばかりである。

 石化している朔夜と飛鳥が反応を示さずにいると、「若いのう」と、赤狐の比良利。自分達の妖気で固まってしまうとは、なんて可愛い反応か。彼はけらけらと笑い声を上げた。


「比良利さま。相手は子どもですよ」


 お供の紀緒が注意をするも、彼の笑声は止まらない。

 一頻り笑ったところで比良利は笑みを深めた。糸目を二人に向け、狐はくつりと喉を鳴らす。


「双方、なかなかの霊気。上玉と見た。じゃが、わしの敵ではない」


 朔夜の思考が回り始める。

 北の神主が直々に我が家を訪れた。おおかた結界を破って、侵入してきたのだろう。辿り着く一つの結論、まさか、彼等は。


 朔夜は素早く数珠を取り出すと、飛鳥に構えるよう喝破する。

 まだ混乱している彼女に気をしっかり持つよう告げ、己の導き出した結論を述べる。


「北の神主の目的はショウだ。妖狐達はあいつを連れ去りに来たんだよっ!」


 血相を変えていた飛鳥の表情が一変して、敵意に満ちる。呪符をポケットから取り出すと、両指に挟んだ。


「鋭いのう。賢い人間と見た」


 北の神主が口角を持ち上げる。ご名答だと肩を竦め、ゆらゆらと六尾を揺らす。


「べつに争いに来たわけではない」


 赤き狐は糸目を開眼し、その燃え盛る瞳を二人に向ける。対面するだけでも分かる妖気の桁に悪寒を感じた。


「わしは返してもらいたいだけじゃよ。我が対を――此処におるじゃろう? 三尾の妖狐、白狐の南条翔は」


 比良利の申し出に、朔夜と飛鳥の肝が凍りついた。敵から目的を明かされると、今更ながら恐怖を感じる。それを知ってか知らずか、赤狐は今すぐに南条翔を返すように願い申し出てくる。


「あやつは、九十九年待った、次なる神主。そして、この比良利と魂の双子。我らの世界にとって、あやつは必要不可欠な存在なのじゃよ」


 比良利は続ける。


「また、ぼんもヒトの心を失いかけておる。心身、化け狐となりつつある。このような、狭い家屋に閉じ込めて如何する? 宝珠の御魂を狙っていると耳にしたが」


 それが事実ならば、人間と戦をしなければなるまい。

 北の神主は笑みを深める。何を考えているか分からない、その瞳には確かな殺気が宿っていた。それに畏怖しない妖祓が、果たしてどれだけいるだろう。

 震えそうになる体を振り切り、朔夜は声音を張った。


「ショウは人の世界で生まれ育った人間だ! お前達とは違う!」


「違った、過去の話ではなかろうか? 白狐がヒトの子出身であることは重々承知の上。しかし、我等にとってどうでも良いこと。着眼するべきところは今のぼんよ。あやつは既にヒトではない。獣でもない。歪で奇怪な生き物よ。これを人は“妖”と呼ぶ。そうであろう?」


 そんなこと他人に言われずとも分かっている。分かっているのだ。


「お前達はあいつの宝珠の御魂を返して欲しいだけじゃないのか。だったら、宝珠の御魂は返してやる。だからショウから手を引け!」


 頭領相手に口汚い言葉を使うも、比良利は気にするそぶりを見せない。また一つ喉を鳴らすように笑う


「ほほう。あくまで、友を取るか。若き妖祓よ」


「正直興味がなくてね。ショウを失わずに済むのなら、じいさまに逆らおうとお前に宝珠は返す」


 交渉を持ち出すも、北の神主は朔夜の案を退けた。


「宝珠の御魂を返して欲しい、確かにそれも一理ある。じゃがのう、先ほども申した通り、あの狐はわしと双子の関係。そして、愛すべき同胞のひとりじゃ」


 歪で奇怪な生き物を、同胞と呼べるのはヒトではない。獣でもない。同じ歪な生き物である妖なのだ。

 人間はいびつな化け狐を、いつまで同胞と言えるのか。言えるのだろうか。


 比良利は問いかける。


「白狐は“宝珠の御魂”に選ばれた妖狐。“宝珠の御魂”の導きによって生かされ、意志を持ってあやつの体内に宿っておる」


 九十九年、眠りに就いていた宝珠の御魂が一人の小僧を選んだ。これは天命だ。


「神職の道を選ぶか、どうかはぼん次第。じゃが三尾の妖狐、南条翔はまごうことなき時期“南の神主”の可能性を秘めておる」


 北の神主として一同胞を迎えに行く一方で、新たな神主の卵を自分の手元に置いておきたいのだと赤狐は主張。あくまで、狙いは宝珠の御魂ではなく“白狐”なのだと言い放つ。

 到底、交渉など成立するはずもない。朔夜は数珠を握り締めた。


「渡すものか。お前になんて言われようが、あいつは人間なんだ!」


 じゃら。じゃら。数珠を鳴らし、霊力を集約していく。


「命知らずめ。わしと対峙する覚悟か」


 人間の小僧が、何百年も生きている頭領とやり合えるとでも?

 比良利の揶揄に、「知るかよ」朔夜は吐き捨てる。例え相手が強敵であろうが、敵わない相手だろうが構わない。守るべき人間を狙う妖と分かった以上、全力を出し切るまでなのだ。


「ショウは僕の親友だ。攫うと分かっておいて、何もしない馬鹿が何処にいる?」


 寸の間、飛鳥の呪符が放たれる。霊気帯びた呪符はやがて炎を纏い、空気を焦がしながら妖狐達に向かっていく。


「友を守るため、か。そういう輩は嫌いではない」


 比良利は慈しむように朔夜と飛鳥を見やり、紀緒に下がっておくよう指示する。

 刹那、握っていた和傘を一振り。突風によって炎は鎮火する。

それに怯むことなく、朔夜は暗紫に発光する数珠から霊気を放出させる。まるで雨あられのように降り注ぐそれは、妖狐達に狙いを定めるものの、比良利が和傘を広げたことにより直撃する前に見る見る術が消えてしまった。


 和傘にすら触れず術を破られてしまうなんて。これが北の神主と呼ばれた頭領の力。朔夜は奥歯を噛みしめる。


「ぼんは良い友を持ったものじゃ」


 比良利は広がったままの和傘を横に構える。


「しかし、お主等は妖祓。ぼんは妖。決して交えぬことのできぬ存在。いつまで友と言えよう? あやつはいずれ妖に成熟する化け物よ」


 妖狐が和傘を薙ぐ。再び突風が二人の脇を通り過ぎ、体が浮き上がる。状況を判断する前に体が廊下の壁に打ち付けられた。


 隔てている襖は倒れ、窓硝子は無残に砕け散る。


 片膝をついて、どうにか痛みに耐えると、朔夜は相棒に大丈夫かと声を掛けた。背中を強く打ったと苦言する彼女は、どうにか大丈夫だと返事し、新たな呪符を取り出す。頼もしい相棒だ。朔夜は眼鏡のブリッジを押した。


「飛鳥。援護を頼む」


 転がっていた湯飲みを拾い、比良利に投げると、朔夜は走り出した。化け物の懐に入るため、わずかな隙を見逃さぬよう、傘で湯飲みを弾いた瞬間を狙う。


 目論見通り、湯飲みを傘で弾いた、その懐に空きを見つける。ここだ。朔夜は飛鳥の放つ呪符を盾に、比良利の懐に入って、その数珠に巻いた右の手を力の限り振り下ろす。


「ほほう。わしの懐に入るとは、度胸の据わったぼんぼんじゃのう」


 さも、楽しそうに笑う狐のみぞおちに拳は届かない。持ち前の六尾が、わらわらと壁になり、それが器用に腕に絡みついて動きを制止した。

 盛大な舌打ちを鳴らし、朔夜は赤狐を睨む。


「大層な尻尾だね。切り落としてやりたいよ」


「わしは北の神主、頭領に立つ妖狐。そう易々と手玉に取れると思うな。身のほどを知るが良い」


 六本の尾っぽが、朔夜の腕や首、胴に絡むと、それは軽々と彼の体を投げ飛ばしてしまう。

 背中で受け身を取った朔夜は、また一つ舌打ちを鳴らして眉を顰める。


「いって……くそっ、完全に遊ばれてる。嫌味な狐だ」


 身を起こして、赤狐を見やると、彼は上機嫌に傘を回していた。


「怪我を負わぬ内に、白狐を渡すがよい。これはわしからの慈悲じゃ」


「なにが慈悲だ。ひとを投げ飛ばしておいて。意味を辞書で引いてこい」


「渡さぬと言うのであれば、少々泣かせてしまおうか。やれ、子どもを泣かせることは、あまり気が進まぬのじゃが。怪我は負いたくないじゃろう?」


「心にもないことを。言ってろ」


 白々しい心配を足蹴にし、上体を起こして構えを取った時だった。



「まったく。人の家に侵入してきた挙句、物壊すとは。物騒な狐だな、北の神主」



 第三者の声。顔を上げて首を捻ると、玄関側から回ってきた朔夜の祖父と、飛鳥の祖母が中庭に現れた。


「じいさま」


 タイミング良く現れた妖祓長に目を見開いてしまう。いくらなんでもタイミングが良過ぎる。

 朔夜の疑問に、月彦が答えた。


「強大な妖力が動けば嫌でも分かる。また、その狐はこちらの結界を利用し、我々を包囲している」


 包囲とは?


「空を見るがいい」


 言われるがまま、空を仰ぐ。驚愕してしまった。数多の怪火が、この家を囲んでいる。今の今まで気づかなかった。結界が妖気を阻んでいたせいか。


「あれは妖が生んだ怪異。赤狐が集めた、意志ある怪火だ。まったく結界に穴をあけても、気づかれないよう動いていたとは、さすが北の神主としか言いようがあるまい」


 下手に動けば、ヒトを焼きかねない。この家は包囲されているだけでなく、脅されているのだ。月彦は臆することもなく、北を統べる頭領を見据えた。


「ずいぶんな挨拶だな。北の神主」


「何を申すか。先に戦を仕掛けてきたのは、そちらであろう。よくもまあ、鬼門の祠に結界を張りおって」


 いや、今はそんな話、どうでもいい。

 比良利は不法侵入を素直に詫び、用事が済み次第、すぐに帰ると肩を竦めた。


「……白狐か」


 目を細める月彦に、「いかにも」赤狐は返してもらおうかと一笑を零した。

 反面、北の神主は静かに妖気を奮い立たせると、持ち前の妖気を全身に纏わせ紅蓮に色づかせた。うねる妖気は六尾に集中して纏って見る見る満ちていく。

 傍らで待機していた紀緒が一声鳴き、人型から美しい毛並みを持つ妖型へと変化する。


 狐よりも一回り大きい体躯、ハイイロギツネを彷彿させる毛並み、額に埋め込まれた紅い勾玉は昇る月の光によって妖しく光る。


「大人しくぼんを返すのであれば、我等も大人しく帰ると約束しよう。今ならば、白狐の体内にある宝珠の御魂を狙ったことも見過ごしてやろうぞよ」


 あれは人に触れて良いものではない。妖の重宝は妖の物なのだから。

 仄かに映す、紅蓮の瞳が激情を宿していた。笑みを浮かべる神主は冷たく殺気だっている。

 けれども、楢崎家の長は毅然と返した。


「無闇に狙うほど、ヒトも愚かではありません」


 妖の重宝は百も承知。此方とて諍いは起こしたくないが、低俗な妖のせいでヒトの暮らしが脅かされている。

 そう、鬼門の祠の管理がずさんなせいで瘴気が溢れ出し、人間が口を出さなければいけない状況に陥っているのだ。それは妖に責任があるのでは?


 紅緒が問う。

 これ以上、祠の結界を見逃していると人の暮らしに影響が出る。いやもう出ている。

 だから宝珠が必要だと告げる妖祓長に、


「それは失礼致した。ずさんな管理になっていることは、此方も認知している」


 比良利が真摯に詫びを口にした。

 とはいえ、ヒトの手に宝珠を渡すことはできない。あれは妖達にとって大切な宝、ヒトの手に渡ったと知れば妖の世界は混沌に放られる。


 どちらにせよ、一件を解決にするには白狐の存在が必要不可欠なのだ。妖のため、あの子のためにも解放してやるべきだと比良利。


 再三再四、三尾の妖狐、白狐の南条翔を渡すように促す。


「簡単にできるのであれば、このような辛酸を味わうこともありません」


 かぶりを振り、紅緒は要求を拒んだ。南条翔はヒトの世界で生まれ、自分の孫と共に成長し、これまでを歩んできた。

 この世界に家族がいる。友人がいる。慣れ親しんだ家がある。妖に引き渡すということはヒトの自分を捨てるに値するだろう。


 あまりに酷な運命を背負うことになる。


 なにより妖祓の孫達が傷付くことだろう。孫達は幼馴染を失いたくないのだ。子供の悲しむ顔は見たくない、一祖母としての切に思う。紅緒は力なく吐息をついた。

 紅緒の言葉に、朔夜と飛鳥は目を白黒させた。長は長達で一応幼馴染や自分達のことを考えていたらしい。


「それはぼんとて同じ。あやつも随分悩んでいた」


 比良利は閉じている和傘を片手でくるっと回し、同調を示す。


「じゃがのう。ぼんはもう生粋なヒトではない。ヒトの世界は妖のぼんにとって、過酷な世界なのじゃよ。ヒトの世界で暮らす妖もおるじゃろうが、今のあやつには向いておらん」


 これ以上、妖の卵である子供を閉じ込めても孤独しか与えない。あまりにも不憫ではないか。北の神主は和傘の先端を妖祓長達に向けた。


「白狐の南条翔は、妖の世界に連れて帰る。それ以上も以下もない。我等の要求が呑めぬというのならば、もはや言葉は不要。そこを退くが良い。妖祓」


 グルル、唸り声を上げる赤狐が次の瞬間、大きく咆哮する。

 音波が妖力を宿して二重三重に波動を作る。少しでも気を緩ませれば、体勢が崩れてしまいそうだ。


「すぐに息子達が来る」


 それまで持ちこたえろ。月彦は数珠を構えると、呪符を取り出した紅緒を一瞥し、次に朔夜と飛鳥を見やった。


「行け」


 妖祓長は命じる。

 何処へ行くべきか。聞き直す時間も惜しい。朔夜は飛鳥を連れて家の奥に入った。向かうは妖狐達が標的にしている妖、守るべきは苦楽を共にしてきた幼馴染。





 大きな足音を立て、廊下を一直線に走っていた朔夜は飛鳥と縋る思いで座敷に向かう。

 赤狐が対となる白狐を迎えに来た。嗚呼、まさか、そんな……いや本当は何処かで来るのではないかと予想していた。

 妖の世界に返して欲しいと申し出る比良利の言葉に、恐怖を覚えながら、部屋の前に立つと襖に手を掛ける。


「ショウくん!」


 先に部屋へ飛び込んだのは飛鳥だった。


「ショウ!」


 声音を張る彼女の後に続き、朔夜も中へ飛び込む。

 二人の目に飛び込んできた光景。何もない部屋につくねんと敷かれた布団、毛布は抜け殻だ。

 しかし部屋に捕らわれの白狐はちゃんといる。窓辺に立ち、ほぼ暮れている空を見上げていた。ゆらゆらと三つの尾を揺らす翔は、空を見つめたまま笑声を漏らす。


「どうした? 揃って走ってきちゃって。らしくねぇぞ」


 布団の下に張られた五行星の結界を掻い潜って、窓辺に立っている翔に違和感を覚える。


「どうして結界を……」


 飛鳥が早口で尋ねる。


「ああ。今夜は俺にとって“静の夜”なんだ。なんでも妖力が下がっちまう夜なんだって」


 翔は肩を竦める。だから結界を通り抜けられた。もう時期、妖狐から人間に戻ることだろう。久しぶりに人間に戻れる、でもなんだか変な気分だと翔は一笑した。

 十余年も人間として暮らしてきた筈なのに、人間より妖の方がしっくり来ると彼は吐露した。


「そう、思うのは俺が妖だからなんだと思う。まだ二ヶ月しか経っていないのに」

「違う、ショウは人間だ」


 朔夜が訂正を入れるが、間延びした生返事をするだけで翔は振り返ってくれない。肯定の返事はない。


 とにかく翔を部屋から出さないようにしなければ。


 そして妖達が迎えに来たことを悟られないようにしなければ。同胞が迎えに来たと知れば、きっと彼の心は揺れる。どんなに自分達の傍にいたがる彼でも、妖への仲間意識は既に息づいているのだから。


 朔夜は全開になっている襖をそっと閉める。後は窓辺に立っている幼馴染を此方に呼び寄せればいい。


「お前等。それより菓子は? 取りに行ったんじゃねえの?」


 問いが飛んできたため、「え。ああ、ちょっとね」うやむやに返事をする。

 明らかに動じた反応だったが、翔は気にしてないようだ。三尾を宙に漂わせ、恍惚に外を見つめている。その様はまるで、同胞を恋しがっているよう。


「そうそう。約束があったよな」


 ぴんと耳を立たせる翔は、思い出したと言わんばかりに声のトーンを上げる。

 今すぐにでも近寄りたいのに、彼の取り巻く空気がそれを許してくれない。

 約束とは? 飛鳥がおずおず尋ねると、「いつか話すって言ったじゃんか」春休みに入る前に結んだあの約束だと翔。


「お前達にいつか必ずと話すって言ったよな。俺がお前等に作った、最初で最後の隠し事――それは俺が妖になってしまったこと。その日、俺はお前等の秘密を知った。俺さ、お前等がドタキャンばっかしていたことに不信感を覚えていたんだ」


 幾度となく揃いも揃ってドタキャンされ、腹を立てた自分は二人を尾行してやろうと思いつく。


 ドタキャンしたのは、きっと二人で何かしているからだ。


 幼少から二人の間柄に何かがあると常々感じていた自分は、秘密を暴いてやろうと実行に移したのだ。もしかして付き合っているのでは? 疑心を抱き、二人を尾行した結果、掴んだのは未知なる世界だった。


 化け物に数珠を向け、呪符を放り、念を唱えて調伏する幼馴染達に衝撃を覚えた。

 まずあの化け物はなんだ。数珠や呪符を持っている二人は霊媒師だったのか。恐怖をもろともせず化け物を祓う二人は何者なのだ。


 混乱、戸惑い、恐れ、そして大きな空虚感が自分を襲った。長い付き合いだったのに、それこそ自分達の間に隠し事はなしと言っていたのに、二人はこんなにも大きな隠し事をしていたなんて。


「抱いたのは疎外感だった。ほら、俺って馬鹿みたいにお前等に執着しているだろ? だから余計に落ち込んで。独り善がりもいいところだな」


 何でも言える関係でありたかった。否、二人とはきっと無二の関係でありたかったのだ。

 勝手に落ち込み、不貞腐れ、機嫌を損ねていた、その直後に妖に襲われてしまう。見えない何かに襲われた恐怖は半端なのものではなかった。自分を救ってくれた妖狐がいなければ、今頃黄泉へ旅立っていただろう。


「皮肉だよな。お前等の秘密を知った夜に、今度は俺が秘密を作るなんて」


 自嘲する翔に耳が、尾が、徐々に薄れていく。妖力が低下し、ヒトに戻り始めているのだろう。


「今なら分かるよ、どうしてお前等が俺に隠し事をしていたのかが。だって俺もお前等に大きな隠し事をしていたんだから」


 スンと鼻を啜る翔は声音を震わせた。



「なんで俺がお前等に隠していたと思う? 相手が妖祓だから? 信用できないから? 祓われるかもしれないから? ……違う。俺は嫌われることが怖かった。お前等と一緒にいられない未来が怖かったんだ」



 だって二人は、妖を祓う仕事をしている。

 その一方で自分は祓われる妖の身。妖と人は相容れぬ存在。正体を明かせば一緒にはいられないのだ。

 

 妖になったと告げることで、二人に軽蔑されるかもしれない。嫌悪されるかもしれない。距離を置かれるかもしれない。


 それが怖かった。なにより怖かった。祓われる恐怖以上に。



「嫌われたくない。大好きなお前等にだけは嫌われたくない。もっと傍にいたい。一緒に過ごしたいッ、俺はずっと怖かったんだ――っ!」



 一室を裂くような叫びが座敷に轟く。

 肩で息をする翔の胸の内に、今しばらく何も言えなかったが、「だい、じょうぶだよ」飛鳥がようやく声を振り絞って答える。


 自分達は翔を嫌ったりなどしない。


 確かに正体を知った時は多大なショックを覚えたが、今は平気だ。姿かたちは妖であろうと、その心は人間だと知っている。ヒトを襲う妖とは違う生き物だと知っているのだ。誰が嫌うものか。


「ショウくんは今も人間だよ」


 自分達と同じ人間なのだと飛鳥。


「そうだよショウ」


 だから安心していいんだよ、と朔夜。 

 二人が努めて優しく言うと、俯いていた顔を持ち上げる翔が、そっと振り返ってくる。


 す、と消えていく耳と尾、そして感じていた妖気。

 完全にヒトと化した幼馴染は、顔をくしゃくしゃにした。


「ごめん。お前等の気持ちはもう受け取れない」


 言うや否や、畳を蹴って二人に飛びついて縋る。驚きかえる飛鳥と朔夜に、「ごめん。ごめんな」そう言ってくれるのは嬉しいけれど、でも、もう無理だ。偽ることに限界を感じているのだと翔は項垂れる。


「俺は妖だよ。心身、妖に染まっちまった。もうヒトには戻れない」


 できることなら、二人ともっと一緒にいたかった。けれど、それは叶わない夢だと翔。


「お前等の幼馴染は……もう化け狐なんだよ」


 人間の幼馴染は、もうじき消える。彼は縋る腕の力を強くした。


「な……何を言っているんだよ、お前」


 朔夜は怒声を張った。気持ち一つでヒトにも妖にもなれると、そう言ったではないか。妖の血に屈してしまえば、本当に妖になってしまう。ここで希望を捨ててしまったら、何もかも終わりだと朔夜は顔を顰めた。


 飛鳥も思わず背に腕を回し、相手を叱った。どうしてそんなにも寂しいことを言うのだ。自分達は嫌わないと言ったではないか。


 これからも一緒にいるのだ。共に学校に通い、受験生として勉学に勤しみ、下校に寄り道をして遊ぶのだ。それこそ花見をするという約束があるではないか。弱気になるとそれがすべて霧散してしまう。


 それでいいのか。相手に詰問すると暗い一室の中、顔を上げた翔が淡く笑った。


「寂しい。本当に寂しい。お前達のことは今もこんなに大好きなのに、時々ヒトの価値観が理解できなくなる。とても寂しいよ」


 でもそれ以上に妖の世界に帰れない、この状況が寂しい。


「俺は恋しいんだ。化け物達が……人間じゃなくて、いびつな生き物が、すごく」


 どうか仲間に会わせておくれ。

 どうか自分を妖の世界に帰しておくれ。

 どうかヒトの血が薄れ、妖の血が濃くなる自分を忘れておくれ。


 そして不肖の身となった自分を恨んでおくれ。


 嗚呼、妖とヒトは相容れることのできない存在。自分達も相容れることはできない。なんて寂しいことだろう。


「寂しい。とても寂しい」


 切々に謳う翔が呆けている飛鳥と朔夜にそっと「ありがとう」と、「さようなら」と、「幸せだった」を笑顔で伝える。稲荷寿司、本当に美味しかった。世話してもらった恩は忘れない。二人と過ごした日々は絶対に忘れない。


 頬を緩める翔がおもむろに窓辺に視線を流した。瞬きをして、窓の向こうを見つめる幼馴染の心情を察し、朔夜が強く腕を握り締める。


「駄目だよショウ!」


 行ってしまえば、取り返しがつかなくなる。行ってしまっては駄目だ。駄目なんだ。

 繰り返したところで、翔は聞く耳を持ってくれない。固い友情を結んでいる朔夜にも、恋心を抱く飛鳥にも、しっかりと別れを告げて、己の覚悟を口にする。



「俺は俺のやりたいことを見つけた。今までお前等について行くだけだったけど、自分のことで優柔不断になっていた俺だけど、やっと自分に何ができるか分かったんだ――だから俺は帰る、妖の世界に」



 次の瞬間、朔夜は翔に腕を振り払われ、反対に掴んでいた手を取られる。

 力の限り引き倒され、飛鳥の方へ体重を崩してしまった。華奢な相棒は、非力ゆえ朔夜の体重が支えられず、二人して畳の上に倒れる。


「ごめん飛鳥」


 下敷きにしてしまった朔夜は肘を立て、彼女に謝罪する。拍子に眼鏡が落ちた。

普段なら近いと悲鳴を上げて焦るところだろうが、飛鳥は簡単に大丈夫だと返し、倒れたまま窓の方を見て「ショウくん!」と、幼馴染の名を呼ぶ。


 急いで眼鏡を拾い、窓へ目を向ける。翔は腕に貼られた呪符を剥がし、触れることの出来ない窓硝子に手を掛け、鍵を開けると、躊躇なく窓の外に身を投じた。


(しまった。人間に戻ったショウに、魔封の呪符は効かないんだ!)


 五行星の結界を潜り抜けた時点で気付くべきだった。

 畳を拳で叩き、急いで身を起こす。


「ショウ!」


 窓枠に足を掛けた朔夜が左右を交互に見やる。外に出た翔は細い路を通って、中庭とはまったく逆の玄関側に駆けて行く。


「飛鳥! 玄関から外に出てくれ!」


 素早い動きで、飛鳥は座敷から出て行く。

 これだけで作戦が伝わるため、相棒とは頼りになるものだ。朔夜も窓を乗り越えると、迷わず玄関に通じる路を辿った。


 行かせない、行かせたくない、行かせてなるものか。妖の世界に帰ると断言した幼馴染の言葉を思い出し、知らず知らずに下唇を噛み締めてしまう。今の関係が失ってしまうその前に、嗚呼、間に合え!


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