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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【参章】其の狐の如く
48/158

<五>静の夜に惜別を(参)



 ※



「ショウ! お前、なんで、こんなところで寝ているんだよ!」


 それは、翌日の昼下がりに起きた。

 布団に潜っていた翔は、学校から帰宅してきた朔夜から叩き起こされ、眠たい目を無理やりこじ開ける。しかし、首が座らず、こくりこくりと夢路を歩いていた。それだけ、起床時間が早いと言える。


 大欠伸をこぼし、尾っぽで頭を掻くと、睨みつけてくる朔夜を見上げた。


「おかえり。早いな。学校は?」


「今日は午前授業で終わったんだよ。後で飛鳥も来てくれるよ」


 ああ、それは嬉しいことだ。けれど、話は夕方にしてくれないだろうか。翔は眠いのである。

 布団の上に寝転がると、布団をひっぺ返された。まだ、寝かせてくれないらしい。


「僕の部屋で寝てろって言っただろ。なんで、座敷で寝てるんだよ、お前。おおかた父さんの仕業だろう? ああもう、座敷で寝かせないから。起きろ!」


 半ば強引に立たせられた翔は、強い力で背中を押されながら座敷を出る。

 魔封の呪符が発動しなかったのは、朔夜が解除してくれたおかげだろう。彼なりに、翔を人間扱いしたいようで、翔が座敷で寝ることを良しとはしなかった。


 よほど、昨晩のことが心に引っ掛かっているらしい。


 勝手に自室を出るなと寝る前も、起床後も口酸っぱく注意されてしまった。

 座敷に戻ったのは、翔の意志ではないのだが、言わずにはいられないのだろう。ここは素直に謝っておくことにする。


「ショウくん。おはよう。すごい寝癖だね」


 また目が覚めると、朔夜の部屋に飛鳥がいた。彼が宣言した通り、遊びに来たようだ。どことなく甘ったるい香りがするのは、菓子の匂いだろうか。

 寝起きながら、翔は飛鳥から漂ってくる匂いが気になってしまう。尋ねれば、手作りのブラウニーを焼いてくれたそうだ。なるほど、匂いが香ばしく甘いのか。


「うひゃっ! 飛鳥なにするんだよ!」


 突然、間の抜けた声を出してしまう。


 というのも、飛鳥が翔の耳に触れてきたのである。どうやら、寝癖を直そうとしてくれたようで、片手には折り畳み式の櫛が握られていた。

 しかし、彼女の興味は寝癖から頭に生えている耳に変わったようだ。右の手で、遠慮なく耳の縁をなぞられる。


「すごい。ぴくぴく動いてる」

「ばっ、馬鹿。それ、本物なんだぞ! 付け耳じゃねえんだからな!」


 なんとも言えない感触に、つい三本の尾を左右にくねらせてしまう。どうにか手を振り払い、頭に手をのせて耳を守ると、飛鳥がごめんごめんと両手を合わせた。


「どんな手触りがするのかなっと思って。嫌がる素振りを見せるところは、うちのミミと一緒だね。獣は耳に触れられたくないのかな?」


 ミミは飛鳥が飼っている猫の名である。


「それにしても改めて見ると……ショウくんの姿って可愛いね」

「へっ?」


 どういう意味だ。

 翔が問うと、そのまんまだと飛鳥。アキバにいそうな、萌えた姿をしていると手を叩いてくる。見ているだけで癒される。可愛い。愛でたい、等々言ってくれる彼女に悪意はなく、寧ろ善意で褒めてくれているのだろう。


 けれど、翔に大きな衝撃が走る。

 実のところ、翔は日頃から気にしていた。頭から耳が生えていることに。嫌がらせのような萌え姿に。この身なりに。

 努めて気にしないようにしていたのだが、ついに他者から言われてしまった。しかも、好きな相手から!


「さ、朔夜。飛鳥が変なことを言ってくるんだけど」

「うん? ああ、確かにアキバにいそうな姿だね。僕は恥ずかしいからごめんだけど」


 救いを求めた朔夜にあっさり裏切られ、翔は半泣きで布団に潜った。罰ゲームばりの恥ずかしい姿だとは思っていたのだが、ああもう、穴があったら入りたい。隠れたい。一生そこで暮らしたい。


「どうせ俺は、恥ずかしい奴だよ。うるせぇ放っとけキモイのは、俺が一番知ってらぁ!」

「しょ、ショウ。冗談だって冗談。可愛いってば」

「そうだよ。朔夜くん。ショウくん、可愛いじゃん。恥ずかしい姿は失礼だって」


 擁護してくれるが、元を辿れば飛鳥が原因である。更に可愛いと連呼されても、ちっとも嬉しくない。

 翔は布団を頭からかぶったまま、わっと叫んで、自分の姿を嘆いた。布団で隠しきれない尾っぽが、感情に比例して、ばたばたと畳を叩きつけている。何処までも気持ちに素直な翔である。


「ショウ。油揚げを買って来たんだ。それで機嫌を直してくれないかい?」

「えっ、油揚げ? 食べる!」


 これまた単純狐は、あっさりと油揚げにつられ、布団から顔を出した。ただし、耳を弄られたことに対しては根深く、それはかぶったままだった。


 朔夜がビニール袋から油揚げを取り出し、封を開けて一枚を自分に差し出してくる。

 目を輝かせ、憤っていた尾っぽを、今度は喜ぶようにパタパタと振りながら油揚げを受け取った。布団の上にも関わらず、油揚げを引き千切るように食らって咀嚼する。


「本当に好きだね。味も何もないだろうに」


 勢いの良い翔の食べっぷりに、朔夜が舌を巻いている。

 そうは言っても、美味しいのだからしょうがないではないか。すっかり油揚げの虜になっている翔は、あっという間に一枚を平らげた。


 ぺろぺろと指を舐めていると、頭から被っていた毛布を奪われる。「あっ!」声音を上げる翔に、「可愛いのになぁ」なんで隠すのだと、飛鳥が毛布を向こうに投げる。

男の子の狐耳なんて、そうは拝めない。

 目を輝かせる彼女は、携帯を取り出し、翔に写真を撮っていいか、と頼んでくる。


「できれば、狐っぽいポーズをして欲しいんだけど。あ、こんこんって鳴く姿もいいなぁ。ショウくん、こんこんって鳴いてよ。ムービーに撮るから」


「ほ、本当の狐はなぁ。こんこんなんて鳴かないっつーの!」


「こういうのはノリだよ。可愛さを売りにするべきだと思うの。ほら、こんこん。ショウくん、こんこん」


 そろそろーっと逃げ腰になるが、そうは問屋が卸さないようだ。飛鳥が身軽に、のしかかってくる。


「うぎゃっ、お前ずるいぞ! 上に乗るんじゃねーよ!」


「ショウくんが逃げるからじゃんか! ちょっとだけでいいから! ね? 写真が駄目なら、ちょっとだけ耳を可愛くさせてよ。我慢できないんだって!」


 背中に飛び乗ってくる飛鳥の顔が、どことなく活き活きとしている。これはあれだ。玩具にされる予感がする。女子特有の、おしゃれ可愛さを追究する顔を作っている。


「勘弁しろって! 俺はまだ死にたくないっ」


「じゃあ尻尾! 尻尾のお手入れ! それならいいでしょ? ほら見てよ、毛がこんなに絡まっているよ? だめじゃん。櫛で梳いてあげないと」


 櫛を構える飛鳥の笑顔が凶悪である。殺される。色んな意味で!


「朔夜ぁああ! 見てないで助けろって!」


「無駄だよ。ああなった飛鳥は、誰も止められない。ショウも知っているだろ?」


 笑顔で見捨てられた翔から、程なくして悲鳴が上がる。

 三十分もすれば、しくしくと涙を流さずにはいられない。翔は手鏡と向かい合い、自分の耳に付けられたリボンや、三つ編みされた哀れな尾っぽに肩を落とした。どうしてこうなった。


「ショウくんの尻尾って、一本一本の毛が長いから三つ編みしやすいなぁ。真っ白で綺麗」


 櫛で尻尾の毛を梳く飛鳥に視線を投げる。彼女は心の底から楽しそうだ。

 仕返しがてらに、ぶるっと身震いするも、しっかりと尾っぽを握って放さない。いつになったら、解放されるのだろう。


「ショウ。人間に変化はできないのかい?」


 能天気に参考書を開き、勉強に勤しんでいた薄情者が問い掛けてくる。遠回りに、人間に化けてしまえば、解放されるのでは、と助言してくれているようだ。


「妖狐は変化が得意なんじゃないの?」


 己を見捨てた男に白目で睨んでいた翔だが、変化の話題を出されると顔を暗くしてしまう。変化できないことはないが、正直妖力を使うことが怖いのである。あの時のように、自我を失ってしまうやもしれない。

 腹が熱くなり、抑え切れなくなった妖力と、当時の自分を思い出す。


「今の俺、おかしいんだ。妖力をうまく制御できなくて。下手すると暴走しちまうかもしれない」


 不安を口にすると、櫛を動かしていた飛鳥が手を止めた。


「今までは変化できていたの?」


「ああ、練習もしていたよ。狐にだってなれたし、人間にだって変化できたんだけど。お前らもないか? 霊力が抑えきれないってこと」


 種類は違えど、二人も特殊な力を宿した身の上。なにかしら、経験がありそうなのだ。

 妖祓の彼等に相談するのも、なんだか変な気分だが、いま悩みを打ち明けることができるのは彼等しかいない。


「もちろん、あるよ」


 翔の疑問に、間髪容れずに答えたのは朔夜だった。

 曰く、調子によって霊力の上がり下がりがあるという。しかし、それは過剰に心配する必要がないこと。一般の人間の体調に変化があるように、霊力も変化がある。それと同じだと朔夜。 


「ショウは半妖だ。妖力の変化に、体がついていっていないんじゃないかい?」


 そうなのだろうか。翔は釈然としない態度で唸る。


「物は試しだ。やってみたらどうだい?」

「こ、怖いこと言うなよ。今言っただろ、暴走するかもしれないって。お前達に怪我させたら、おれ……」


 また自我を失くし、朔夜と飛鳥を襲ってしまう可能性がある。翔はあの夜のことを、よく憶えていた。

 すると、飛鳥が思い出したかのように、通学鞄から巾着袋を取り出す。中に入っていた薬を翔に差し出し、これで妖力の暴走が抑えられるかもしれない、と訴える。


 それは、雪之介から預かっていた薬であった。これを呑んで、翔はヒト型の姿に戻ることができている。


(おばばが言っていた、雪之介が飛鳥達に渡していた薬って奴か)


 飛鳥も朔夜も、薬を入手した詳細について語ることはなかったが、おばばから話を聞いていた翔は、内心で妖達に想いを寄せる。みな同胞を取り戻そうと、水面下で動いている。


 それは喜ばしいことなのに、翔は決心がつかずにいる。

 どうしても、ヒトの世界を捨てられないのだ。家族は当然、友人も幼馴染達も、翔にとって大切なものなのだから。


 飛鳥から薬を受け取り、角度を変えて観察する。

 黒光りの玉は、おどろおどろしい空気を醸し出していた。これを呑んで、果たして本当に妖力が抑えられるかどうか。


「大丈夫だって。何か遭ったら、僕達で止めるから。君より強い自信あるよ」

「……よし。その言葉、信じるぞ。飲んでみる」


 悩みに悩んだ末、翔は意を決し、勢い任せに薬を口に放る。水なしで丸呑みしたせいか、喉通りは最悪だったが、なんとか、胃袋におさめることに成功した。


「どう?」


 麦茶を取って来てくれた朔夜に礼を告げ、グラスを受け取る。


「よく分かんね。即効性じゃないのかな」


「それはないよ。ショウくん、前に呑んだ時はすぐ効いたよ。ちょっと変化してみて」


 言われるがまま、変化を試みる。

 恐る恐る腹部に手をあて、体内に宿る妖力を引き出そうと、ゆっくり息を吐く。これを一度最大にまで引き出し、その後、極限にまで抑えて、晴れて人間の姿になれる。だから、まずは最大限にまで引き出さなければ――が、間もなく、翔は体内の異常を感じた。

 大慌てで妖力を元の値まで戻そうとするのが、時既に遅し。抑えようとしていた妖力が反動され、一気に力が放出された。


 それによって体が光に包まれ、姿かたちが変化する。


「……ショウくん、だよね」

「……ショウ、だよ。うん」


 目を点にする朔夜と飛鳥を見上げ、翔は決まり悪く鳴く。人間に変化するどころか、狐そのものに変化してしまったのである。


『獣型になっちまった。失敗した』


 白狐となってしまった翔は、己の体を隈なく観察し、失敗の原因を探す。妖力を抑えるつもりが爆ぜてしまうなんて。薬を呑んでも、今の自分には安易に扱うことが難しいのかもしれない。


「へえ、初めて見たよ。これが妖狐の変化なのか」


 しゃがんだ朔夜が、マジマジと翔を見つめる。


「私達の言葉は分かるの?」


 飛鳥の問いに、翔はうんっと頷いた。


『姿かたちは変わろうと、俺は人語しか喋らないよ』

「じゃあ例えば、ミミとお喋りできないの?」


『猫と会話するには、獣語を習得しないといけないんだ。今の俺には無理だよ。ただ、獣には俺の正体が分かるみたいで、懐かれることが多いなぁ』


「だから、ショウくんが家に来た時、ミミが傍から離れようとしなかったんだ」


 その通りだ。翔はまた一つ、頷いたところで獣型から人型へ変化する。人間の姿になることは難しいが、獣型とヒト型を使い分けることは容易だった。化け狐であるため、獣に変化することは、人間に変化するよりも負荷が掛からないのかもしれない。


 とはいえ、妖力を使うことに違いはない。翔はその場に座り込むと、腹の虫を鳴かせた。油揚げだけでは力にならなかったようだ。


「あははっ。ショウのために、そろそろ夕飯にしようか。飛鳥、手伝ってくれるかい?」


「いいよ。私も今日はごちそうになるし、これくらい当然だよ。ショウくん、ちょっと待っててね」


 和気藹々とした会話に、柔らかな表情。さり気ない気遣い。どれも、妖狐化する前の幼馴染達そのものであった。


 翔は部屋を出て行く二人を恍惚に見つめ、ただただ現状と向き合う。

 今までどおり、二人は接してくれている。それは自分を“人間”だと思っているから。体は妖でも、心は人間でいてくれるであろうと信じてくれているから。


 もしも。自分がこのまま、人間として振る舞い続けたとしたら、彼等は変わらずに傍に居てくれるのだろうか。変わらず、に。


(俺自身は変わるのにな)


 妖とヒトのはざまで揺れ動く。

 悠長にしている場合ではない。本当は、はやく決断を下さなければいけないのだ。妖達が戦を仕掛ける夜は、静の夜は近い。


(幼馴染病にかかっている、俺があいつ等を捨てられるわけねえじゃんかよ。父さん母さんだって、友達だって、ここにはいるんだぞ。今までずっと人間だったんだぞ)


 誰かに答えを求めたい。

 正しい答えを自分に教えてもらいたい。朔夜の部屋に残された翔は苦悩する。悩み、苦しみ、もがいたって答えは見つからない。まるで、底なし沼にハマったかのように、いつまでも問題ばかりが付き纏う。


 ふと、廊下から(かまびす)しい足音が聞こえた。それは朔夜や飛鳥のものではない。複数の大人の足音。どれも霊力を纏っている。ああ、こっちにやって来る!


「やっぱり、朔夜が勝手に座敷から連れ出したのか」


 無遠慮に襖が開かれた先に、錫杖を持った朔夜の父、朔が姿を現す。背後には飛鳥の父親、時貞が立っていた。その後ろには各々当主までいる。


 前触れもなしに現れた妖祓達に、翔は持ち前の警戒心を最大限までに高め、部屋の四隅に逃げた。体が震えあがるほど怯えているのにも関わらず、オトナ達は無情に部屋に上がり、念を唱えて翔の身を束縛した。

 見下ろしてくる目が、翔を化け狐として見ている。その瞳に映してくる眼が、どこか冷たく、同情を宿していた。


「手荒なことをしてすまない。さあ、座敷に戻ろう。翔くんに話があるんだ」


 なのに、謝罪してくる声音は優しい。

 遊びに来る度に、明るく接してくれる時の、人の好いおじさんの声。どっちだ。どっちを信じれば良いのだ。翔は混乱してしまった。

 目は妖として見ているのに、声と口調は優しい。けれども、その手に握られているのは、妖を殺生するための法具。ああ、自分はヒトなのか、妖なのか。


 気付けば鳴いていた。同胞恋しさに、狐の鳴き声を発し、掴まれた手を拒絶した。手足に貼られた呪符が、身を束縛しようとも、懸命に動かそうと努めた。暴れて、どうにかなる状況ではない。

 それでも、翔は逃げたかった。本能が警鐘を鳴らしているのだ。人間は、妖祓は、妖の命を脅かす存在だと。


「しょ、ショウくん!」


 遠いところで飛鳥の声が聞こえる。


「何しているんだよっ! 父さん!」


 朔夜の怒声が聞こえる。

 それすら分からず、鳴き喚いて抵抗を示していると、しわくちゃな手が優しく頭を撫でてきた。恐る恐る顔を上げる。そこには飛鳥の祖母、紅緒が悲しげに、けれど慈しむように翔を見つめていた。


「貴方のことは傷付けない。約束します」


 その目があまりにも澄んでいたものだから。澄んでいたものだから。翔はこわばった体から力を抜き、その目を見つめ返す。

 向けられる眼差しは、己を化け狐として見ているのか、はたまたヒトとして見ているのか、いまの翔にはまったく分からなかった。

 




「――気分は如何でしょう。日を経た分、少しは落ち着いたでしょうか? 白狐」


 場所は移り、座敷にて。

 部屋に戻された翔は、落ち着かない気持ちでいっぱいだった。

 前方には、和泉と楢崎の当主である祖父母。左右には幼馴染達を含めた、家族の姿。翔は妖祓達に包囲されるような形で、座敷の真ん中に座っていた。落ち着けるわけがなかった。みな見知った家族なのに、まるで別人のように思える。それは己が妖になったせいだろう。


 しばらく、うつむいて畳の目を数えていたが翔だが、一掴みの勇気を掴むと、紅緒の問い掛けに返事した。


「俺は翔です。白狐という呼び方は、好きじゃありません」


 朔夜の祖父、飛鳥の祖母は大変厳しい人間である。

 それは幼馴染達から常々聞いていたし、自身も何度か会ったことがあるため、二人の厳しさは身に持って理解している。幾度と叱られた記憶を思い出し、自然と敬語で返してしまった。


「失礼いたしました。名前で呼ぶことが礼儀ですよね」


 気を悪くした様子もなく、紅緒は真摯に詫びてきた。

 ただ、それだけの返事すら厳かな声音に思え、緊張を生む。威圧的な視線に身を萎縮した。三本の尾まで萎縮し、くるんと内側に丸まってしまう。恐れていることが一目で分かる態度だろうが、どうすることもできず、ただただ顔を俯くばかり。


(胃が痛てぇ。逃げ出してぇ)


 思い詰めたように顔を顰めていると、「すまない」と、詫びられた。朔夜の祖父、月彦であった。


「お前や親御さんの気持ちを汲み、今すぐにでも家に帰してやりたい。しかし、どうしても、すぐに返してやることができないのだ」


 あらかた状況を把握しているようで、翔の家族が昏睡している息子を心配していること。その息子が実は形代だということを、月彦は知っていた。

 反対に言えば、知っているからこそ、遠慮なく幽閉しているのだろう。


「……なんで、俺は帰れないの?」


 敬語すら忘れて、翔は疑問を投げかける。


「俺は何もしていないよ。人間を襲ったわけでもないし、事件を起こしたつもりもないし。そりゃ化け狐になったことは隠していたけど、でも何もしていない。俺は何も」


「分かっている。翔、分かっているんだ」


「分かってねぇよ! 分かっているなら、どうして閉じ込めるんだよ!」


 翔は激昂した。

 自分が妖だから捕らえたのだろう。妖だから家に帰してもらえないのだろう。いや、宝珠の御魂を持っているから封印するつもりなのだろう。すべて知っているのだ。妖祓の目論見は、この耳でしかと聞いたのだから。


 祓うつもりなら、早く祓って欲しい。封印するならば、いっそ眠っている間に封印して欲しい。生殺しの状況に限界だと、頭を抱えて悲鳴を上げる。


 幼馴染の前で吐露するつもりはなかったが、翔は本当に限界だったのだ。


「もう嫌だ。怯えて過ごす、こんな毎日」


 自分をどうしたいのだと声音を震わせ、気が狂いそうだとジャージをあらんばかりに握り締める。


「祓うなら早く祓ってくれよ」


 消えそうな声で懇願する。醜い心を表に出した。

 朔夜が、飛鳥が何か言ったような気もするが、翔の耳には届かない。理由も聞かされず、妖を祓う妖祓の家に何日も閉じ込められて正常でいろと言う方が無茶なのだ。


「家族に会いたい。帰りたい。外に出たいよ」


 乱心した翔は、思うがままの感情を長達にぶつけた。いっそ気が狂えるものなら、狂ってしまいたい。訴える声が涙に濡れ、それは情けないものとなってしまう。


 と、月彦と紅緒が畳に手をつき、深々と頭を下げてくる。

 倣って幼馴染達を除いた大人たちが頭を下げた。添えた両手に額を当てるほど、深い礼をしてくる妖祓達にしゃくり上げる。


「な、なに?」


 小刻みに体を震わせながら何事だと目を削ぐ。大人達の態度の意味が分からなかった。


「申し訳ありません。我々は貴殿の心を、深く傷付けた。それはいくら、言葉で詫びても詫びきれない罪です」


 紅緒が身を起こすことによって、周囲の大人達も上体を起こした。謝罪されているのだと気付いた翔は浅い呼吸を繰り返しながら、ぐるりと周りを見渡す。


「なんだよ。急に」


 困惑する翔に、どうか気を落ち着けてくれるよう紅緒が頼み込んでくる。

 こんな環境に放り込まれて落ち着け、という方が無理な話なのだが。自分が落ち着かない限り、話も進みそうにない。どうにか深呼吸をして理性をかき集める。必死に落ち着こうとする翔の頃合を見計らい、月彦がそっと告げた。


「我々はお前を祓わない。決して、封ずることもしない。必ず家族の下に帰す。そうは言っても、お前の心を傷付けたことに変わりはない。申し訳なかった」


 再三再四謝罪を口にした後、月彦は何故翔を捕縛しているのかを説明した。

 曰く、鬼門の祠の瘴気に当てられていたため、こうする他なかったそうだ。瘴気を受けた妖の大半は、理性を失くし非常に危険だ。翔も例外ではなかった。そのため、人の町を守ることを優先し、白狐の捕縛に乗り出したと月彦。


「特にお前の妖力は、桁違いだ。見逃してやることなどできない。白狐の正体に気付いても、安全性が確認できるまでは、解放することができなかった」


 非情と言われようとも、職を全うする義務があったのだ。

 それが結果的に、翔を苦しめることになってしまった。それは真摯に詫びると妖祓の長に頭を下げられる。


「また、お前には感謝したい。鬼門の祠の注連縄を直してくれて、本当にありがとう。あれのおかげで、漏れそうになっていた瘴気も押さえることができた」


「注連縄?」


「なんだ。憶えていないのか? お前が注連縄を直したと、朔夜達から聞いていたんだが」


「……その時の記憶は曖昧で」


 鬼門の祠。

 それが、自分と宝珠の御魂を封じたい場所だろう。自分が白狐として捕らわれていた時の会話を思い出し、苦い顔を作ってしまう。


「翔よ。お前の身に宿る、宝珠の御魂の話だが、何も言わず、渡してくれないだろうか」


 月彦がこのようなことを言ってくる。

 当然、渡せるはずがない。体から取り出してしまえば、翔は死んでしまうのだから。なにより、これは妖達が大切にしている神秘の宝。渡せばヒトと妖の衝突は避けられない。

 翔はかぶりを横に振り、腹部を押さえて身を硬くする。


 しかし、それだけではきっと話が進まない。翔は単刀直入に尋ねた。自分の身に宿す宝珠の御魂を手にしてどうするのか、と。


 向こうの空気が微かに変わる。止まりかけていた体が震え始めた。ああ、渡さなければきっと、自分ごと封じてしまうのだろう。それでも、翔には渡すことはできなかった。命は惜しい。


「これは大切なものだと、妖達から教わった。だから、人間には渡さない。人間が触れていいものじゃない」


 翔の縦長の瞳孔が一層細くなる。興奮しているのだと、自分でも分かった。


「翔。なぜ、それをお前が持っている? それは妖どもが重宝しているもの。身に宿せるのは――妖を統べる、神職だけと聞く」


 ぎくり。翔は両肩を弾ませ、必死に口を閉じて黙秘する。言えるわけがない。宝珠の御魂に生かされていることや、その天命を与えられ、次の神主として選ばれていることなど、口が裂けても言えるわけがない。


 言えば、どのような目に遭うか。妖祓にとって妖の神職は、真っ先に不倶戴天の敵に挙げられる存在なのだから。


「やはり、お前が次の南の神主か。翔」


 何も答えない翔に、月彦が確信を持った問いを投げかけた。

 大慌てで「違う」と答え、時機が来たら、宝珠の御魂は返すつもりなのだと返事する。南の神主になるつもりなど念頭にもない、そこまで答えた時、墓穴を掘ったことに気が付いた。血の気が引いていく。ああ、幼馴染達の方を見ることができない。


「なるつもりはない。それはつまり、候補として挙がっているんだな?」


 もう誤魔化すことができない。翔は観念して、小さく頷く。


「俺が妖の器になった時、宝珠の御魂に素質を見出されて……」


 すると月彦が質問を変えてきた。


「いつ頃、妖の器になった?」


 約二ヶ月前だと教える。

 理由を追究されると翔は答えて良いものか、これまた悩むこととなる。これを聞き、幼馴染達が今以上に妖に敵意を持たないだろうか。あまり、持って欲しくないというところが、正直な気持ちだ。


 けれど、朔夜から強く名前を呼ばれたことで、答えざるを得なくなる。


「化け物みたいな鳥に襲われたんだ。あの時は何が起きているのか分からなかった。ただ視えない何か、に襲われているとしか分からなくて。最期は体を貫かれて死んだ」


 寒い二月の冬のことだった。翔は自嘲気味に肩を竦める。


「そこに俺を助けてくれる、妖がいた。人間の俺は死んだけど、妖から血と妖力を分けてもらうことで、俺は妖狐として生き返った」


 妖のせいで一度は死んだものの、妖のおかげで今こうして生きている。

 だから自分は妖を憎むことができない。もちろん、戸惑いはあったし、今も受け入れ難い点が多々ある。それでも生きているのは、救ってくれた妖のおかげなのだ。感謝の気持ちの方が強いと、赤裸々に答える。


「今まで、正体を隠していたのは何故だ。朔夜や飛鳥が、お前の傍にはいたはずだ。幼馴染に妖化のことを相談することもできただろう?」


 返事に困ってしまう。幼馴染だからこそ話せなかった。彼らは翔にとって、大切な存在なのだから。


「口止めをされていたから。俺の中には宝珠があるから、公言するなって」


 幼馴染のことには触れず、別の理由を述べることにした。

 これも確かな理由の一つである。宝珠の御魂は妖にとって重宝も重宝な代物。悪しき妖の手に渡るわけにはいかない。それは、人間とて同じこと。安易に正体を明かせば、自分の身が脅かされる。それだけ大切な宝なのだと教えられた。


「実際、こうして閉じ込められて分かったよ。宝珠がどれほど凄いものなのか。これの有無で態度を崩さないのは、きっと朔夜と飛鳥だけだろうさ」


 毒をたっぷり含んだ嫌味を月彦達に投げ、翔は腹部を優しく擦る。


「妖祓が宝珠の御魂をなんで狙っているのか、そんなの知る由もないけど、俺は渡さないからな。簡単に信用なんてできない」


「では、朔夜や飛鳥が言えば、渡すと?」


 たいへん狡い質問である。翔は月彦をにらみ、軽くそっぽを向いた。

 その子供じみた態度に、和泉の当主は一笑を零し、宝珠の御魂を狙う理由を教えると告げてきた。人間側にも事情があるのだと、意味深長に語る月彦は、視線を戻す翔と視線を合わせる。


「先ほども、鬼門の祠の瘴気について触れたな? 我々人間は瘴気に毒され、暴走する妖達に苦しめられている」


「瘴気?」


「言うなれば、妖達を狂わせる毒だな。お前も身を持って体験した、霧のような毒だ。その様子だと、何も聞かされていないようだな。鬼門の祠についてまず教えよう」


 鬼門の祠は、人間と妖の住む世界に境界線を引く祠だと云われいる。

 古書の一部では、“妖の社”を守る結界と記されており、それはそれは妖達から聖地として大切にされてきた。


「その祠は、頭領である神主が管理しているそうだ。しかし近年、鬼門の祠の結界が解けかけている。そこから瘴気と呼ばれる妖を狂わせる毒が漏れ出している」


 瘴気に当てられた妖は、善良な妖であろうと自我を失い暴走する。妖であろうと、ヒトであろうと見境なく誰彼襲う、おぞましい化け物と化してなってしまう。


 本来、鬼門の祠に関することは、妖の問題事として片付けてしまうところだが、そうもいかなくなった。南の神主が不在の今、鬼門の祠の管理は野放しとなり、ずざんな管理体制になっている。年々溢れ出す瘴気が増し、凶暴化する妖も増えた。


 朔夜や飛鳥を筆頭に、若すぎる妖祓が、時間を惜しんで働かなければならなくなった。悪循環に陥っているのだと月彦は唸る。


 あと数年もせずに、結界は解けてしまうだろう。


 なんとしても、それだけは阻止しなければならない。弱き人間を守り、暮らしを脅かす妖を祓う妖祓として見逃せない事態なのだ。


「待てど暮らせど南の神主が現れず、管理体制がずさんのままならば、人間の我々が動くしかあるまい」


 それには宝珠の御魂が必要不可欠なのだと月彦。隣に座る紅緒は静かに頷き、宝珠の御魂ごと祠を封印したい胸を翔に伝えた。

 そうすれば、瘴気は宝珠の力によって鎮められ、年月を掛けて浄化していく。妖達の暴走も消え、人間を脅かす脅威も減るのだと微笑んだ。


 初めて聞く事実に、翔は言葉を失ってしまう。

 妖の世界ではそのような危機が潜んでいたのか。比良利が南の神主を早く得たいと言っていた真の意味を、ここでようやく理解する。彼は若すぎる自分ですら、管理できる可能性として見ていたのだ。


 しかし。何も言わないのは、自分の気持ちを酌んでのことだろう。彼はいつだって翔を優先にした。


(善意ある妖ですら凶暴化しちまうなんて。じゃあ、もしおばば達が瘴気に当てられたら。人間を襲うのか? そして)


 妖祓に祓われてしまうのか?

 翔は恐怖した。そのような凄惨な光景など見たくもない。


「宝珠の御魂ごと祠を封印すれば、瘴気が消えるの?」


「ああ。そのためにも、お前にそれを渡してもらいたい。協力してくれないか? 翔」


 それが結果的に、人間や妖達を守ることに、そして幼馴染達を守ることに繋がるのであれば、渡さなくもない。勿論、今すぐ渡せば、翔の身が危ぶまれるため、時間を置いてもらうことになるが。


 ふと疑問を抱く。

 祠を封印してしまえば、“妖の社”はどうなるのだろうか? “妖の社”を守る結界の一部なら、封印することでなんらかの影響が出ると思うのだが。

 それについて尋ねると、長達の口が閉じてしまう。翔は察してしまった。“妖の社”を犠牲にするつもりなのだと。


「妖の社は、妖達とって大切な聖域なんだ。鬼門の祠を封じたことで、人間の世界や、そこに暮らす者達は救われるかもしれない。でも、妖の世界はめちゃくちゃになる。宝珠の御魂は渡せない」


 なんのために、ギンコが九十九年も体内で守っていたと思っているのだ。自由を奪われ、なおも宝珠の御魂を守っていた銀狐の努力が報われないではないか。

 そういう事情があるのならば、自分が北の神主に伝えると申し出る。ヒトの世界を脅かせているのならば、その旨を自分が伝える。相手だって話の分からない妖ではない。言えば対策を打ってくれる筈だ。


 そのための協力ならば、喜んでする。


 けれども、相手の反応は薄い。

 望んでいない答えだったようで、月彦は苦い顔で返答した。


「確かにそれも手だが、こちらは一刻も早く解決したいと思っている。結界はいつ解けてもおかしくないのだから」


「だからってっ! 妖の承諾もなしに、そんなことしちまったら諍いが起きるだろ! 妖は人を襲うかもしれないけど、でも、襲わない奴等だって沢山いる。人間に住処を奪われた奴等だって、人間を責めずにヒトの世界で暮らして共存しようとしているんだ。もっと穏便な方法があったっていいじゃないか!」


 妖祓のやり方は、妖も人間も、傷付けあう結果を齎すだろう。

 そんな未来など見たくもないし、見ようとも思わない。善意ある妖が凶暴化するところも見たくない。それを祓う妖祓も見たくない。世話を焼いてくれた比良利が、人間を敵と見なす断を下す姿も、大好きな幼馴染達が妖の仲間を祓う姿も、何もかも見たくない。


 身近にいる大切な人達が傷付く姿なんて見たくもない。


(どうすれば解決できる? どうすればっ、どうすれば)


 追い詰められた翔は懸命に思考を回した。自分にできることはないか。宝珠の御魂に見出され、数奇な運命を持ってしまった自分に――ふっ、結論に辿り着く。


 そうか。南の神主がいれば良いのだ。その神主がいなくとも、管理する妖がいれば良いのだ。

 宝珠の御魂を宿している体を、腹部を強く押さえ、答えは此処にあったのだと、翔は気付いた。後は自分の覚悟次第だ。


「ショウ!」


 何かを感じたのか朔夜が立ち上がり、声音を張ってくる。


「君は人間だっ。体は妖でも、心は人間だ。ショウは人の子で、これからも人間であり続けたいんだろう?」


 朔夜の問い掛けに翔は混乱してしまう。

 妖の器である自分は、頑なに人間だと言い張っていた。人であり続けたいと思い描いた。

 けれど、自分の今は人だと言えるのか。言えないではないか。やっぱり自分は妖なのだ。妖になってしまったのだ。

 口を閉ざしていると、おもむろに月彦が腰を上げて翔に歩んできた。


「すまないな」


 目の前で片膝をつき、彼は申し訳なさそうに目を伏せる。


「お前は確かに妖狐となった。しかし、今も我々にとってお前は、孫と共に成長を見守ってきた子どもなんだ。妖祓として、思ってはならない感情を持っている」


 そこに妖祓長の顔は無く、見慣れた老人の顔があるばかり。厳しくも可愛がってくれた、いつもの月彦がそこにはいた。



「可愛い孫の友人を祓いたくない。封印もしたくない。これからも仲良くして欲しい。だから――少しばかり、手荒な真似をさせてもらう」



 そう告げる月彦は、皺だらけの手の平を、素早く翔の腹部に当てる。

 驚く間もなく、翔の全身に電流のような鋭い痛みが流れた。一室の空間を裂かんばかりに悲鳴を上げてしまう。堪らずに三尾で相手の体を跳ね除けるが、あまりの痛みに腹部を押さえて崩れる。


 奥歯を食い縛って痛みの余韻に呻いていると、見かねた幼馴染達が飛び出してきた。

 自分に歩もうとする月彦の道を塞ぐように駆け寄り、「ショウ」「ショウくんっ」各々名前を呼んで体を揺すってくる。脂汗を滲ませる翔に答える余裕は無い。


 休む間もなく手足から焼け爛れるような痛みが走り、翔は再び悲鳴を上げた。貼られた呪符が明滅し、妖狐の動きを封じたのだ。その激痛に生理的な涙が出る。

 蚊の鳴くような声ですすり泣き「祓ってくれよ」、こんなにも痛い思いをするなら一思いに祓って欲しい。楽にして欲しいと切願する。


 呪符によって焦げていく皮膚。見る見る火傷を負っていく、翔の手足を見た朔夜は激昂したように長を睨んだ。


「じいさま、彼に何をするのですか! このような手荒なやり方ではショウがっ、傷付いてしまいますっ!」


 宝珠の御魂が欲しいのならば、もっと慎重に事を進めるべきだ。朔夜が声音を張るものの、月彦は力なくかぶりを横に振るだけ。


「お前達は廊下に出ていなさい、すぐに終わらせる」


 長が無情な命令を下すが、冗談ではないと朔夜は反抗を見せる。

 大切な幼馴染が、親友がこんな目に遭っているのに、廊下で待機できるわけないではないか。怒声を張る幼馴染は、横暴な行為をするのならば、身内であろうと許さない。そう言って数珠を出した。


「馬鹿者。逆らうのか」


 月彦が脅しに掛かるが「ふざけるな!」、彼は自分の大切な友であり、それはじいさまも知っているではないか、と朔夜。頑なに場所を譲ろうとはしない。


 その隙に飛鳥が術の効力を、少しでも和らげようと躍起になる。念を唱え、明滅する呪符に手を添える。けれど痛みは一向に消えない。若手の術では、長の術は凌げないようだ。


「飛鳥、そこを退きなさい。あなた方の起こす行為が、かえって翔を苦しめているのです。痛みから早く解放するためにも、そこを退きなさい。命令です」


 紅緒の命令に「嫌!」、術を解くまで絶対に退かないと飛鳥。

 双方の両親が長と幼馴染の間に入るが、幼馴染達は意思を曲げず、自分を助けてくれようとする。


 しかし、二人の気持ちよりも悲しみと絶望の方が大きい。ばりばりと畳を引っ掻いて身悶えている翔は呼吸を乱しながら愚図った。痛い、苦しい、辛い。こんな目に遭わせるくらいなら祓って欲しい。早く祓って欲しい、と。


(痛すぎて、頭が、おかしく、なる)


 どうして自分がこんな目に遭わなければいけないのか、否、どうして妖祓はこのような仕打ちをするのか、翔には理解が出来ない。穏便に話を進めようとしていたはずなのに。


 このままでは、宝珠が奪われてしまう。


(宝珠は渡さない、絶対に渡さない)


 妖祓が宝珠の御魂を取り出そうとしていることは分かった。

 ならば、ここで宝珠を奪われるわけにはいかない。己の命が脅かされる恐怖と、ギンコの努力が霧散されてしまう恐怖。その両方を抱え、翔は大きくかぶりを振り、呪符の痛みから逃れようと何度も悲鳴を上げる。


「あぁああああぁああ――!」


 術の威力が増し、翔は喉から血が出そうなばかりに絶叫する。この痛み、表現しようもない。このままでは宝珠を奪われてしまう。

 死ぬのか。自分は此処で死んでしまうのか。ギンコの九十九年を無駄にし、救われた厚意を無駄にし、命を散らしてしまうのか。そうなれば最後、妖達は、社は奪われたらどうなる?


 末路が脳裏に過ぎった瞬間、翔の額に漆黒の二つ巴の証が浮かんだ。


 手足の指を丸めると、痛みを吹き飛ばすように咆哮した。獣の怒りの声は、窓ガラスを震わせ、人間達の肌を粟立たせ、手足の呪符を燃やす。


「これが人間の、妖祓のやり方だというのなら真に遺憾。宝珠の御魂は妖の重宝。人間が触れて良いものじゃない」


 晴れて自由の身となった翔は、畳を大きく叩いて体を宙に投げた。勢いのまま壁に体がぶつかる、その前に壁に足をつけ、目についた和泉家の長に向かって青い狐火を放つ。それは翔の人間に対する敵意であった。


「ま、待ってショウくん!」


 畳の上に着地した翔に、飛鳥が正気に戻るよう訴えてくるが、心に届くことは無い。心を占めるのは宝珠の御魂を守ることばかり。四つん這いとなり、赤き目で人間を睨むと、三尾を大きく左右に揺らす。


「許さない。妖の暮らしを脅かすことは、この白狐が許さない」


 くわっと赤い口を開け、鋭利ある犬歯を見せる。取り巻く妖気が、静電気のように空気中にほとばしり、人間達に威嚇を示した。


「ショウ! 待つんだ! お前が長に敵うわけないっ」


「朔、時貞! みなを連れて廊下へ行け! ここは我らで食い止める」


 必死に止めようとする幼馴染達は、両親に連行されていく。翔には好都合であった。彼らとは、極力衝突を避けたい。


「翔よ。お前はすでに、人間ではなくなっているのだな。その御心は、もう」


 哀れむような面持ちを作る、月彦の問いに、翔は妖艶な笑みを浮かべた。


「さあ。俺は俺だよ。人間であろうと、狐であろうと」


 されども。

 ああ、されども。


「いまの俺は、宝珠の御魂の意志に従っているまで。三尾の妖狐、白狐の南条翔は宝珠と運命を共にする。それが例え、封印される道であろうと――人間に宝珠は渡さないっ」




 半強制的に廊下に待機させられた朔夜は、父の朔と口論を繰り広げていた。一刻も早く翔を止めたいのに、父が邪魔ばかりする。それに苛立っていた。


「だから退けっていってるだろ! あいつは、いま理性を失っているんだ!」


 どうして邪魔をするのだと父を非難すると、「今までの妖と桁が違うんだ」と朔。

 一室にいれば白狐の妖気に当てられ、また術を浴びて、大けがをする可能性があるのだと怒声を張られる。笑いたくなった。幼馴染は既に怪我をしているのに何をいまさら!


 刹那、襖の向こうから肌刺す霊気と妖気がぶつかり、大きな衝撃波として廊下にまで届く。

 長方と白狐が衝突しているのだ。万が一にも妖狐が勝てる筈がない。半妖の彼と玄人妖祓、どちらが優勢なのか考えずとも分かる。


「父さん退け! 退けよ!」


 朔夜は朔を押しのけて襖を開いた。


 再び開かれる襖の向こうで見た光景。衝突しあう眩い気の向こうで、幼馴染が月彦の放った霊気の矢を腹部に受けて倒れる。その瞬間はスローモーションが掛かっていた。

紅緒の放つ呪符を受けることで、妖狐の妖力を封じられる。


 トドメをさすべく月彦が数珠を鳴らし、珠一粒一粒に霊気を集約。放出されたそれは無数の筋となり、妖狐の逃げ場を塞ぐ。

 すべて“妖祓”が悪しき“妖”に向ける対処である。しかし、目前の妖狐は自分達の知る人間であり幼馴染、いつも祓う妖ではないのだ。



「もうやめてよ――っ!」



 飛鳥のあらんばかりの悲鳴を合図に、朔夜は駆け出す。

 手を伸ばし、術から彼を救おうとするが無情にも、失神している妖狐は雨あられとなって降り注ぐ霊気を浴びる。刃と化した霊気が妖狐の皮膚を破き、肉を裂き、血を流させる。


 凄惨な光景に、朔夜は膝から崩れてしまう。背後では、飛鳥が襖に掴まって座り込んでいるが、気遣える余裕はなかった。


「ショウ?」


 ぐったりと四肢を放っている翔に、恐る恐る手を伸ばす。

 小さな呻き声が聞こえたことで、彼の生死が確認できた。急いで上体を起こしてやると、翔が薄目を開けた。あれほどの霊気を浴びたのにも関わらず、妖狐にとっては軽い失神で済んだようだ。


「朔夜くんっ。ショウくんの傷を診せて」


 後から駆け寄って来る飛鳥と、体を支える朔夜を交互に見やり、翔が微かに頬を崩す。敵意を宿した眼は、二人を捉えることで仄かに和らいだ。


「さくや。あすか」


 妖狐の乾いた唇が微かに動き、頼みごとをしてくる。祓われるならお前等に祓われたい、封印されるなら二人の手で封印されたい。かすれ声で、けれどはっきり彼は願いを口にする。自分の敗北を認めた先のことを言っているのだろう。


 静かに落涙する飛鳥の隣で、「馬鹿じゃないか」と、朔夜は相手を毒づいた。


「君を、どうして僕達が祓わないといけないんだよ。ショウ、君の体は妖狐でも……心は……心だけは」


「そ、だな。ばかなこと言った。ごめん」


 今のは冗談だ。笑おうとする彼の重たそうな瞼がゆっくりと閉じた。荒々しい呼吸を繰り返し、痛みに耐えている。


 寸の間、妖狐の腹部が青白く光り、座敷に白狐の妖気が満たされていく。それは雷雲のようで、空気そのものに妖気の電流が走っていた。呪符で妖力を封じているのにも関わらずだ。

 傍観者となっていた月彦は、「自己防衛を張ったか」と目を細めた。


「宝珠の御魂を取られないよう策を打ったのだろう」


 その危険な妖気が漏れないよう、妖狐の真下に五芒星形を召喚する。五行星の結界と呼ばれる結界の中でも最高位の術を発動させた。これにより妖狐は五芒星形に閉じ込められ範囲内しか動けない。


「……傷の手当てをします。こちらに」


「来ないで下さい」


 紅緒が近づこうとすると、朔夜は来ることを拒み、皆出ていくよう喝破する。便乗するように、飛鳥も大人達に出ていくよう声音を張った。

 もうこれ以上、彼を傷付けることをしないで欲しい。ヒステリックに声を上げ、妖狐の傷の手当てを始める。

 背後で襖の閉じる音が聞こえたが見る価値もない。


「朔夜くん、ショウくんを寝かせよう」


 濡れた頬をそのままに、飛鳥が押入れから敷布団を引きずり出して、結界の上に敷く。


「ショウ。動かすよ」


 朔夜は妖狐をおぶり、ゆっくりと布団の上に寝かせた。彼は小さな震動でさえ、眉を寄せる。怪我は深手のようだ。


「私、家に帰って傷薬を持ってくる。それから包帯と、消毒液。あと何がいる?」

「ポカリを買って来てくれるかい? 水分補給もさせないと。あと氷、火傷をしている」


 こうして二人の手当てが始まる。

 翔の体を考えれば、紅緒に任せるべきなのだろうが、頼る気などなれなかった。火傷を負った患部に氷を当て、傷には薬を塗ってはガーゼを当てる。締め付け過ぎない程度に包帯を巻いて、作業を繰り返していると、翔が瞼を持ち上げた。


「痛い? 沁みた?」


 飛鳥が彼の顔色を窺う。


「ニオイがきつい。狐は鼻が利くんだ」


 彼は痛みを口にすることなく、場を和ませようと努めた。


「こうしていると昔を思い出すな……よく怪我をする俺に、お前等が寄って集って消毒液を振りまいてさ。俺はそれに逃げ回って。あの頃が懐かしいよ」


 急に始まった昔話に困惑してしまう。構わず、妖狐は続ける。自分達はいつも一緒にいた。クラスは違えど、小学校から高校まで片時も離れず傍にいた。

 春はクラス替えに緊張し、夏は長期休みを心待ちにし、イベントの多い秋も三人で凄し、冬は皆で年を越す。そんな日々を順繰りしていたと翔。飽きたことはなかった。寧ろ、このまま永遠に続けばよいと願ったことさえあった。それだけ二人が大好きだった。


 今もそれは同じだ。妖狐は首を動かし、朔夜と飛鳥に微笑む。


「朔夜、飛鳥。正直に答えてくれ。“白狐”が俺じゃなかったら、お前等は迷わずに祓っていたか?」


 言葉を失ってしまう。

 白狐が翔でなければ、自分達はここまで甲斐甲斐しく妖に対して世話を焼いていなかっただろう。翔が白狐でなければ、白狐が翔でなければ。白狐の正体を知らなければ、自分達は彼を迷わず祓っていた。

 現にそれをしようとしていた過去の自分がいる。


 今しがた、答えることができなかった朔夜だが、嘘は通用しないと判断し、正直に答える。


「祓っていたと思う。君だから、僕は……」

「そっか」


 翔は満足げに眦を下げた。


「お前等は妖が嫌い、だよな……いいんだ、正直にいてくれよ。俺もその方が嬉しい」


 返事を待たずに彼は言葉を重ねる。


「朔夜。飛鳥。妖になっちまってごめんな。お前等を傷付けることになって、本当にごめん」


「違う、違うよ。悪いのは私達だよ。おばあちゃんも、お父さんも、お母さんも、ショウくんを閉じ込めて妖扱いするから。ごめんね、本当にごめんね」


 包帯を落とし、飛鳥が白狐と呼ばれた幼馴染の体に縋る。


 朔夜も目を伏せ、謝罪を拒んだ。

 謝罪をしないでほしかった。謝罪をされるほど、罪悪感が募ってしまう。身内の仕打ちに嫌悪感を抱き、彼に申し訳ないと思ってしまう。


 なのに妖狐は謝る。何も悪くないのに「ごめん。こんな幼馴染でごめん」と言って、尾っぽで、飛鳥の頭を撫で、朔夜の肩を叩く。


(……だめだ。このままじゃ、僕達は傷つけあうばかりだ)


 朔夜は現状を見つめ、どうすれば良いのか、自問自答する。


(そうだ。やめてしまおう。妖祓を……そうすれば、僕はショウを祓うことがなくなる。ショウは祓われることに怯えなくなる)


妖の器となった幼馴染を傷付けるだけの職なんてやめてしまおう。妖と人は相容れない。その中でも妖と妖祓は不倶戴天の敵。決して交わる関係ではない。


 けれど、もし、自分達が妖祓をやめてしまえば、幼馴染を傷付けるような事態にはならないのではないだろうか。また元通りの関係に戻れるのでは。嗚呼、戻りたい。あの頃に戻りたい。



 もう、やめてしまおう、妖祓なんて。好きでやっている職ではないのだから。



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