<三>妖祓長、赤狐と交渉する
「犠牲者が出たのは、ここだな」
欠けた月が真上にのぼる夜。
妖祓長の和泉月彦は草深い雑木林の中にいた。
そこは辺鄙な雑木林であった。住宅街から外れた所で周囲には点々と一軒家が並ぶばかり。人通りが殆どない、道の端にある雑木林だった。
夜風と木々の葉がこすれる音ばかり反響する、静かな土地を訪れた理由はひとつ。
この雑木林で人間が化け物に襲われたと情報を得たため。
襲われた人間は小学三年生の子ども。友達と雑木林で遊んでいたところ、理性を失った猿猴の群れに襲われ、右のふくらはぎを十針も縫う怪我を負ったそうだ。
猿猴の群れは賢いので人間の子どもを襲った後、颯爽と逃げたそうだが……あれは縄張り意識が高い。この雑木林のどこかで巣食っているはずだ。
知らせを受けた月彦は猿猴を調伏するため、息子の和泉朔と共に現場に赴いている次第であった。
だが現場を訪れた月彦の目に映ったのは、猿猴の残骸らしきものたち。
雑木林のいたるところで猿猴が倒れていた。伸縮自在の手が伸び千切られていたり、真っ赤な顔が首だけとなっていたり、他の猿猴を食らおうと大口を開けたまま動かなくなっているものもいた。おぞましい光景であった。
朔が片膝をついて猿猴の亡骸を目視する。
「群れで争ったわけではなさそうだ。まるで何かに斬られたような」
推測する朔に月彦は断言する。
それは大妖の手で斬られたのだと。
「群れを根絶やしにされるほど、猿猴は怒りを買ったのだろう。同胞を食らっていたのか、縄張りを好き勝手に広げていたのか、それとも鬼門の祠の結界を解こうしたのか」
月彦は雑木林の奥に向かって問うた。
「どれがお前の怒りとなったんだ? ――そこにいるんだろう? 六尾の赤狐」
朔が素早く立ち上がって、持ち前の錫杖を構える。
その隣で月彦が数珠を右手に巻き、鋭い眼光を闇夜に投げた。
嗤い声が雑木林にこだまする。
「久しぶりじゃのう。五年、いや七年ぶりじゃろうか。和泉の小僧ども」
ゆらりと白い影が闇夜の中で動く。
それは浄衣を纏った化け狐であった。赤い下地に白の弧を描いた蛇の目模様の傘を差している妖狐は煙管を銜えながら、月彦と朔の前に姿を現した。
比良利の背後には灰色の狐と金色の狐が、こちらの様子を窺うように耳を立てている。
「赤狐。これはお前の仕業だな」
月彦の問いに比良利の糸目が開眼する。
燃ゆる赤い瞳を向けると、「情状酌量の余地もなかった」と狐がまた一つ嗤った。
「鬼門の祠に近づいただけでなく、他の妖に声掛けをして結界を解かんとしておったゆえ。祠の結界を解けばどうなるか理解しての行動を、どうして許せようか」
「相変わらず、同胞にも容赦のない狐だな」
「何を申すか。わしの優先は常に同胞じゃて。それを守るためならば、相手がいびつな化け物でも手を掛けて当然のこと。この地にいる氏子はみな大御魂の子どもであり、大御魂を身に宿すわしにとってかわいい子どもたちよ」
此度は猿猴の群れが人間を襲った話を耳にしている。
これにて手内にしてもらいたい、と嗤う狐の肚が読めない。何を考えているやら。否、肚が読めずとも赤狐が現れた理由は察することができる。
そして月彦が察したことを、ずる賢い赤狐は見通しているのだ。
「御託はこれくらいにして――猿猴の次は妖祓、お主らの番ぞ」
月彦は半歩踏み出す赤狐の動きを捉えると、すかさず数珠を両手で掴み、それを張って振り下ろされる和傘を受け止める。
狐は流れるように半歩足を引き、数珠から放たれる法力を避けた。
夜風に靡く化け狐の六つ尾が青い狐火を宿した。数珠と鳴らしながら右手の人差し指と中指を立て、印を組むことで法力が壁となった。
妖術と法術は衝突して、その場は土ぼこりが舞う。力比べはお相子となった。
月彦は加勢しようとする朔を制して、血気盛んな狐に声を掛ける。
「他の狐たちが動かない時点で分かってはいたが……赤狐、挨拶好きなお前には悪いが、こちらは年々老いている。もう少し加減を覚えてほしいものだ」
「人間というものは老いが早い。少し前までお主は年端もいかぬ小僧じゃったのう」
狐はけらけらと笑い、月彦は呆れた声で唸った。
「何十年前の話をしているんだ」
「たかが七十年前じゃろうて」
これだから妖とは話が合わない。
価値観がまるで違うのだから。
「お前の怒りは察している。白狐のことだな」
「相変わらず察しが良くて助かる」
狐が小さく笑い、嗤って、笑みを深める。
「和泉の小僧ども、白狐を返してもらおう。わしはそのために現れた」
六つの尾っぽをくねらせ、「いま返せば深くは聞くまい」と比良利が含みある言葉を投げた。その言葉だけで分かる。赤狐は妖祓が宝珠の御魂を狙っていることに気づいている。
大妖。
六尾の妖狐、赤狐の比良利を怒らせるべからず。
月彦が駆け出しの頃から妖祓の間で受け継がれている言葉であり、本来であればすぐにでも白狐を返すべきだろう。滅多なことでは人里に下りて来ない赤狐が、前触れもなしに妖祓の前に現れているのだから、これは大ごとどころの話ではない。
赤狐は一貫して妖の味方であり、害を及ぼす者に対しては冷酷で残忍である。相手が人間ならなおさらだ。が、妖の安寧秩序を妨げることを良しとしていない。
宝珠の御魂を狙った妖祓に言い分があれば、多少なりとも耳を傾けてくれるだろう。許すかどうかはさておき、人間側の動きを把握するために話は聞いてくれるはずだ。
そのような狐なので、大人しく白狐を返せば、ひとまず騒動沙汰にはしないだろう、が……。
「赤狐、お前の入れ知恵だな? 白狐に……南条翔に半妖の身分を隠すよう吹き込んだのは」
「やはり妖祓は白狐の正体を知ったのじゃな」
白狐の狂ったように助けを求める鳴き声が、ある夜の空から聞こえてきたと比良利。
それはきっと白狐が逃げ出そうとした夜を指しているのだろう。
あの夜以降、人間の町を徘徊する赤狐の動きが目立つようになり、あちらこちらで目撃情報を耳にするようになった。人間を襲うような知らせはまだ入っていないが、百鬼夜行を起こすやもしれないほど、妖を率いて夜空を移動する知らせは入ってきている。
少しずつ妖祓に妖側の怒りを伝えているのだろう。
事情があってのことだろうが、月彦も引くことができない。
「翔を返すことはできない。あの子は高い熱を出して寝込んでいる」
「目を覚ましておらぬのか?」
「一度も目を覚ましていない」
「……薬は呑ませたと聞いたが」
「ああ、お前が妖を伝手に孫たちに薬を渡したそうだな。おかげで翔の妖力は落ち着きを取り戻したが、あの夜から目を覚まさない。熱は上がるばかりだ」
「妖のことは妖に任せるべきではなかろうか? 異界には化け物を診る医師もおる。半妖のぼんを診ることなんぞ造作もない」
「赤狐、あの子には家族がいる」
「承知しておる」
「お前に返したら最後、あの子を人里に下さないだろう」
「それがぼんのしあわせであろう。ぼんは半妖狐、人里で暮らし続ければいずれ傷つく。あれの成長はすでに亀より遅くなっておる」
人間の社会で暮らすこともできるだろうが、少なくとも翔は難しいだろうと比良利。
先ほども述べたとおり妖狐の成長は遅い。百年経っても翔は少年の姿のままだ。人間の社会に留まって暮らし続けることは困難だろう。
比良利の言葉に月彦はひとつ頷く。
「ご尤もな意見だが、それは何年も先を見据えた話だ」
「どうしても白狐を返さぬ心のようじゃな」
「即決できるほど、この話は簡単じゃない。あの子の心を思えば、十年は人間社会に置いても良いだろうに」
「何を申すか」
狐が鼻で笑った。
「妖祓がぼんの正体を知った以上、わしは是が非でもぼんを異界に連れて帰る。和泉の小僧、お主とて分かっているじゃろう? 人間はいびつに恐怖する。目が三つあれば悲鳴を上げ、手足が柳のように長くなると不気味と騒ぎ、首がなければ化け物だと拒絶する」
人間はそういう生き物だと比良利。
いびつな姿を拒み、同じ姿の生き物を愛する。犬猫などの愛らしい顔つきの動物を愛でる。似たような姿を持ち、けれど己と違う姿をしている生き物を化け物と罵る。
これは繰り返されている人間の歴史であるが、いびつを拒む心を『悪』だとは思わない。
そういう生き物なのだと割り切ってしまえば、それで終わる話なのだから。
「人間は少しのいびつも嫌悪してしまう。それゆえ妖祓は少なからずぼんを警戒する。あれは人間を食らわぬか。襲わぬか。爪で傷つけぬか――その度にぼんは己が『人間』ではないのだと思い知らされ、現実に打ちのめされる」
現に妖祓は逃げ出した白狐に容赦なく法具を向けたではないか。
比良利は声を一段低くする。
「ただの人間であれば押さえつけられて終わるところを、あれが妖狐だったために法具で痛めつけ、殴り蹴り、血が流れる事態となった。そう聞いておる。ぼんが発熱しているのは傷のせいじゃろう?」
「返す言葉もないな。そうだ、あの子が妖狐であったからこそ、我々は初めから本気で向かった。あの子の妖力の大きさ、瘴気を吸った後の行動、それらを加味して容赦などしなかった。それが妖祓としての正しい在り方だったからだ」
「わしはそれを悪と責めはせぬ。立場こそ違えど、言い分は理解できるゆえ」
問題はこれからをどうするか、だ。
比良利は月彦に正しい在り方を説き、白狐を返すように交渉してきた。
いびつな生き物になった時点で南条翔は異界で生きていくべきだ。両親やこれまでの暮らしはあるだろうが、それは翔の気持ちに寄り添いながら問題を片していくとのこと。あの子どもを返してくれるのならば、人間の町に混乱を招く真似は控えると告げた。
同胞を愛する狐らしい言葉であったが、他に思惑が含まれていることを月彦は見抜いていた。
「赤狐。翔はお前と同じ首魁だな?」
口を閉じる狐に月彦はさらに疑問を重ねた。
「お前たちが『南の地』と呼ぶ土地の首魁は不在と聞いている。どのような条件で首魁が選ばれるか、それは人間のあずかり知らないところだが、翔が選ばれているのは容易に推測できる」
半妖ながら宝珠の御魂を宿しているのだ。
それなりの理由があるのだと見て取れる。
「赤狐、白狐ではなく『宝珠の御魂』を返す、であればどうだろうか」
子どもを妖祓に任せてくれないだろうか、と月彦。
あれはただの子どもではなく、幼少から見守ってきた子ども。妖のことは妖に任せるのが最善の策であるし、私情を交えるのは忍びないが、今回ばかりは妖祓が子どもの身を引き取りたい。人間から半妖狐となった子どもに寄り添い、今後のことを考えてやりたいのだ。
南条翔を任せてくれるのであれば、謝罪を添えて今からでも『宝珠の御魂』は返す。謝罪で終わらないのであれば、妖にとって利益となるような要求も呑む。
「大妖と呼ばれたお前と、肩を並べる首魁はあの子どもでなくとも良いだろう?」
交渉を持ち掛けてくる狐に、そっと己の提案を伝えた。
双方に沈黙が流れる。
刹那、狐の口が耳元まで裂けた。
それはそれは楽しげに笑い、六つの尾っぽを大きく左右にくねらせる。
「和泉の小僧。わしはあの子どもと出逢い、まだひと月半。子どものことをよく知らぬ」
さりとて比良利は知っている。
身を挺して銀狐を守ろうとした勇敢な心を。宝珠の御魂と銀狐に生かされた天命を。解かれそうになった鬼門の祠の結界を守ろうとした話を。
齢十七の小僧狐は宝珠の御魂に選ばれた。
双子である比良利は小僧狐に宿った御魂を感じ取った。
これからこの狐と先を見たいと思った。
「宝珠の御魂と白狐はすでに表裏一体。それゆえ片方返してもらったところで、それは片方にしか過ぎぬ。和泉月彦、わしは三尾の妖狐、白狐の南条翔を返してもらいたいのじゃよ」
「あの子でなければだめと言うわけか」
「今宵は穏便にいきたい。必要以上に敵意を向けるつもりもない。ただ白狐を返してくれたら、それで良い――あれは御魂を継ぐ狐。宝珠の御魂に選ばれた狐。赤狐と双子となる狐」
返してもらわねば困る。
ああ、とても困る。
比良利は繰り返して謳う。
「妖祓よ、改めて願い申そう。白狐を返していただきたい。こちらとしても、できれば言葉で終われる内に終わらせたい」
今宵より先は言葉ではなく実力行使する。
狐は妖祓を見据えて、嗤い、笑い、低く鳴き、語気を強めて脅す。
「すぐに返事ができない、と言ったらどうする?」
月彦は問う。
やはり即決すべき話ではない、と伝えると狐は笑みを深めた。
「新月まで待つ、と返事する」
雑木林から化け狐らが去って行く。
闇夜に帰る狐が完全に気配を消してしまった頃、朔が月彦にそっと声を掛けた。
「交渉は中断しましたが、よろしかったので?」
「赤狐のことだ。こうなることくらい想定していただろう」
即決できる話じゃないことくらい、向こうも分かっていたはずだ。
「おおかた、妖祓に釘を刺しに来たのだろう。下手なことをすればどうなるか、そして今どれほど妖が怒れているのか行動でそれを示すために」
また下手に行動に移せなかったのも理由に挙げられるだろう。
白狐は妖祓の下にいる。
妖から見れば人質を取られているようなもの。脅しや交渉を口にしながらも、真意は妖祓の出方や肚に据えている目論見を炙り出しに来たに違いない。
「宝珠の御魂だけで終われば良かったのですが」
「いまは猶予を与えられたと考えるべきだろうな」
交渉が中断したことで、赤狐はふたたび妖を率いて人間の町に何かした手を出してくるだろう。警戒しておかなければ。
その一方で捕縛した子どもの今後も考えなければ。一介の妖祓長として、孫の友を見守ってきた大人として。
「翔くんが早く目覚めれば良いのですが」
「目覚めた後は苦労するだろうな」
「痛い思いをさせましたからね」
「それもそうだが、妖狐は妖の中でも用心深く警戒心が強い化け物――あの子はきっと、人間を信じられなくなっている」
きっと誰も信じられなくなっている。
月彦の予想は見事に的中する。
白狐と呼ばれた少年は目を覚まし、座敷内で暴れたと知らせを受けた。
奇しくも赤狐が交渉を持ち掛けてきた夜が終わる頃のことだった。
急いで白狐のいる座敷に入ると、敷布団の前で右腕を押さえている妖祓長の楢崎紅緒がひとり。錫杖を構える楢崎時貞がひとり。そして四隅で身を小さくしている半妖狐が一匹震えていた。
たしか紅緒たちは高熱に魘されている白狐の傍で看病していたはずだが……。
月彦は問うた。
「何が遭った?」
すると紅緒は軽く首を横に振り、「少し驚かせてしまっただけですよ」と返事する。
「目を覚ました白狐が私を見て驚き、調伏されると危機感を抱いて逃げようとした。それだけにございます」
結果、鋭利ある爪で少しばかり斬られてしまった。
それだけだと紅緒は力なく笑い、半妖狐になってもやんちゃは相変わらずだと口にした。
幼少から白狐を知る者だからこそ言える、愛情のこもった呆れであった。
「そうか」
月彦は小さく相づちを打つと、時貞の方を見やる。
錫杖を構えているわりに白狐を捉える眼は憂い帯びていた。時貞もまた幼少から白狐を知る者。本気で法具を構えることなどできないのだろう。
白狐は看病する紅緒を爪で斬った後、座敷から出ようと窓に触れ、魔封の呪符に阻まれて火傷を負ったそうな。自分を抱きしめる両手は真っ赤に腫れあがっていた。
すっと目を細め、月彦は化け狐を見つめる。
(……翔。お前はヒトではなくなったのだな)
頭に生えた獣の耳に筆のように太い尾っぽ、そして鋭利ある両手の爪。
妖狐と呼ぶにふさわしい姿をしていた。
けれども、普通の妖に比べて妖気が非常に不安定だ。
月彦は数珠を右手に巻くと、小刻みに震える白狐に歩み寄る。狐の耳がぴんと立ち、威嚇の鳴き声を発し始めるが、月彦は臆することなく白狐の前で片膝をついた。
すると気配を感じ取った白狐は次の瞬間、反射的に右手の爪を振り下ろす。
それは無意識であり無自覚であり、己を守るための自己防衛本能だった。月彦はしかと理解していた。
だからこそ数珠の巻いた右手で白狐の右手首を掴んだ。
これ以上、この子どもの心を傷つけないために。
「落ち着け白狐」
月彦を捉えた白狐の眼が恐怖に染まる。
「ちが、お、おれ……引っ掻くつもり、なくて」
「分かっている」
「てを、手を振り払いたかっただけで」
「分かっている」
「血っ、血ッ、出させるつもり」
「ただのかすり傷だ。紅緒は何ともない」
「傷つけるつもりなんて」
「お前はそういう子じゃない。分かっている」
「うそだ」
「うそじゃない」
「閉じ込めてるくせにっ」
「そうだな」
「人間を食べるとか思ってんだろっ……ばけものって思ってるんだろっ……」
「お前はそんなことをしないと知っている」
ゆっくりと、しっかりと。けれど責めずに言い聞かせる。
けれど白狐の心には響かなかったのだろう。
違うのだと、誰も襲っていないと、爪で傷つけるつもりはなかったのだと言葉を繰り返した。自分の行いに恐れていた。
また感情が昂っているのだろう。
「死にたくないっ、おれッ、死にたくない!」
人間が持つ法具を目にしては大声で叫び、鳴き声を発し、月彦の手から逃れようと暴れた。
調伏しないと言っても信じず、法具で傷つけないと約束しても疑い、熱があるから休もうと布団へ導いても頑なに拒んだ。
白狐は月彦を、人間の言葉を一切信じられなくなっていた。
予想していたとはいえ月彦はやるせない気持ちに駆られてしまう。
(妖祓としての正しい在り方は、少なからずこの子の心に恐怖を植え付けた。赤狐に返すべきなのだろうが……)
所詮、妖祓は妖の敵でしかない。
たとえ過去が家族ぐるみの付き合いがある子どもだとしてもだ。
分かっていても割り切れない感情が月彦とてある。
「白狐。聞きなさい」
「人間の言葉なんてわかんねえ」
「私たちはお前を傷つけることはしない」
「わかんねえってば!」
「白狐」
「ちがうちがうちがう! わかんねえっ、俺は翔だっ!」
癇癪を起こす白狐がきゃいきゃい、きゃあきゃあと鳴き喚き暴れ始めた。
(この子の名前を呼んでやるべきだった)
妖として接するのは失敗だった。
嗚呼、白狐は今しがた目覚めたばかり。食事も水も取っていない中、高熱に蝕まれている体に過激な行動は毒だ。休ませねば。
月彦は「すまない」と言って、白狐の体に軽く法術を走らせる。化け物を痺れさせる程度の霊力を放った。
きゃい、と鳴く白狐は気絶する寸前、小さな願いを口にした。
「かえりたい」
どこにとは言わなかったが、月彦は白狐がどこに帰りたがっているのか察していた。
時貞を呼んで白狐を布団に戻してもらう。
その間も考える。
「お前にとって、どこで生きるのが本当の幸せなのだろうな」
親や友人がいる人間社会なのか。
同胞がいる異界なのか。
「せめてお前が首魁でなければな……」
いつもやんちゃばかりして、孫たちを引っ張り回して、その度に三人揃ってお灸を据えて。
月彦は妖祓の孫と一緒にいる子どもを、孫たちと同じように接した。立ち振る舞いや礼儀作法は厳しく指導したし、挨拶は必ずさせるようにしたし、悪さをすれば当然叱り飛ばした。
おかげで苦手意識を抱かれてしまったが、それでも月彦は目の前の子どもを見守っていた。成長を楽しみにしていた。
それだけに思うのだ。
「翔。どうしてお前なんだ?」
月彦はぐったりと眠る子どもの頭を撫でて、これから待ち受ける未来に心を痛めた。
半妖狐として生き続けることは難しいのは分かっている。この子はいずれ妖狐に成熟する。人間でいられなくなる。孫たちと不俱戴天の敵となる。
その未来がとてもつらい。
ふと隣に紅緒が並ぶ。
「まずは目の前のことから片しましょう。先のことばかり考えても躓くだけです」
「そうだな」
「白狐……いえ、翔のために少しばかりひとりの時間を設けましょう。四六時中看病するほどの高熱は越えましたし、目を覚ましたのですから、またすぐに起きてくれます」
「紅緒、お前の判断にはいつも救われる」
「お互いさまです。今後のためにも、まずは心身の回復を優先させましょう」
紅緒は慈愛溢れる微笑みを月彦に送った。
先を見据えた判断だった。が、用心深く警戒心の強い化け狐が水すら取らなくなる未来は、さすがに妖祓長の肩書きを持っても想像もしていなかった。




