7
「っひぐっ、うぐっ、ぐぅー、うぅー…」
「…すみません。まさか、ここまで泣かれると思ってなかったんで…大丈夫ですか?」
松川さんの話を聞きながら、私は若干、過呼吸気味になるくらい、号泣してしまった。
「っすみませんっ。ご心配かけて。…あまりにも悲しくて、切なくて、泣けてきて…。」
私はテーブルの上に置いていた箱ティッシュを取って、涙でべしょべしょになった顔を拭き、思いっきり鼻をかんだ。
「…でも納得しました。…2人ともそこまでお互いを思い合っていたから、あんなに情熱的でキレイなキスしてたんですね…。」
私の脳裏には2人のキスしている姿が浮かんでいた。
何度思い出しても、まるで映画のようで、絵画のようで、見る人を惹きつけるような美しさだった。
あの光景を見られたことを、幸運に感じてしまうほどに。
「…あの時、後ろ通りがかって気を散らせちゃってすみませんでした。一度その場から退散して、コンビニでも行っておけば良かったですね。」
私が苦笑いをしながら言うと、
「いや、全然です。こっちこそすみません。部屋までの通路にいた俺らが100%悪いので。むしろ、橘さんが来てくれなかったら、屋外でどこまでしでかしてたか分からないので良かったです。迷惑かけて、すみませんでした。」
彼はそう言って軽く頭を下げた。
「なるほど…確かに、もし、コンビニから戻ってきて、あの場でおっぱじまっていたら、さすがに私も声かけてましたね。」
私の発言で松川さんは吹き出した。
「おっぱじまるって…他に言い方あるでしょう。」
「うーん。まぐわう、とか?」
「それもなんだかなー。」
「じゃあSEX」
「そうだけど、直球過ぎる。」
真剣に話し合っている内容がおかしくて、お互いに笑い始めてしまった。
「…まぁ、そんなことがあったので、今日はとことん飲もうって思って、よく行くバーで飲んでたら、見事に潰れて、途中からの記憶をなくしました。どうやって家まで戻って来たんだろう。やけ酒は良くないですね。」
松川さんはそう言って少し恥ずかしそうにしていた。
「…あれだけのことがあったら、飲みたくなるのも仕方ないんじゃないですか?10年越しの大恋愛ですもん。」
松川さんにとって忘れられない大事な恋が終わったのだ。お酒が必要だったのだろう。
そんなことを考えていると、ふと、彼が、鍵を無くしたので、私の家にいることを思い出した。
「…ところで、今、所持品あります?鍵は無さそうですけど。」
私が尋ねると、彼は首を横に振った。
「さっき、確認しましたけど、スマホも財布も鍵も何も持っていません。だぶん、飲んでたバーに置いてるか、途中で落としたか。」
「そのバー、何時までやってるんですか?」
「えー、確か、3:00まではやってた気がするけど…。」
ふと時計を見ると、針は2:55を指していた。
「一旦電話してみますか。今ならまだ取りに行けるかもしれないですし。」
彼からバーの名前を聞き、電話番号を検索してから私のスマホを貸した。
「すみません。お手数かけて。ありがとうございます。」
電話をかけると、所持品は全てバーで預かっており、バーまではここからは歩いて15分ほどの距離なので、松川さんは、急いで取りに行くことになった。
「本当に今日はお世話になりました。ありがとうございました。色々、ご迷惑をおかけしてすみません。」
そう言って松川さんは頭を下げた。
「いいえ。たいしたことはしてないですし。松川さんがほとんど自分で動いてくれたので、トイレも連れて行けましたし。それに、こういう言い方が正しいか分からないのと、気分を害されたら申し訳ないんですけど…。人の本気の恋愛話を聞かせてもらえて、ありがたかったです。」
私がそう言うと、松川さんは照れながら、笑った。
「…誰かに話したの、初めてだったので、そんな風に言ってもらえて、嬉しいです。それに話せて少しスッキリしました。…まだこれからも全然引きずると思いますけど、ちょっとだけ整理できた気がします。ありがとうございます。」
「…私で良ければいくらでも話聞きますよ。これも何かのご縁だし。松川さんが良ければ。」
初めて話して数時間も経っていなかったけど、私と彼は気が合う気がした。もちろん、あくまで友達として。
私の発言に松川さんは驚いたような表情を見せた後に、笑顔になってくれた。
「優しいですね、橘さん。今日お世話になったお礼も今度したいですし、俺の電話番号、スマホに登録しても良いですか?」
「どうぞ、お願いします。」
彼は自分の電話番号をスマホの電話帳に登録してから、私にスマホを返した。
「じゃあ、また連絡します。」
「はい、お気を付けて。」
私は彼が立ち去るのを見送った後、しばらくぼんやりしていた。
今日はなんだかすごい夜だったな。
誰かの恋愛話を聞いてあんなに涙が出たのは初めてだった。
聞いているだけで心が揺さぶられて仕方なかった。
あんな風に、あそこまで激しく誰かを好きになったこと…私にはないな。
現在の彼氏とは付き合って4年目になり、穏やかで落ち着いた関係を保てているし、彼に対して、大きな不満はない。でも、ないものねだりだとは分かっていつつ、彼らの恋が、美しく見えてしまった。
あんな風に一途に誰かに思われるって良いな。
そんなことを考えながら、ふと、時計を見ると、3時を過ぎていて、さすがに眠くなってきた。
さっさとシャワーを浴びて寝よう。
私はあくびをしながら、浴室に向かった。
シャワーを浴びた後、抗いきれない眠気が襲ってきたので、気絶するように眠り、目が覚めるとお昼過ぎだった。土曜日で仕事も休みだし、二度寝しようと思いながら枕の横に置いていたスマホを見ると、数分前に松川さんからメッセージが来ていた。
“昨日はありがとうございました。無事、荷物は回収できました。色々とお世話になったので、何かごちそうさせてください。空いている日ありますか?”
昨日の会話は社交辞令ではなかったようだ。正直また話せるのは楽しみだ。先日大型のプロジェクトが一段落して、仕事は落ち着いているから、どの日も基本的に定時で上がれるだろうけど、火曜日は久しぶりに彼氏と会う予定だった。
“荷物受け取れたんですね。良かったです。ありがとうございます。来週なら、火曜日以外は空いてます。”
そう送ると、すぐに返信が来た。
“じゃあ、金曜日にしましょう。何が食べたいですか?”
その後何回かやりとりが続き、金曜日に近所の和食系の居酒屋に行くことになった。
「お疲れ様。買ってきたよー。」
「ありがとう。助かる。まさかもう無いと思ってなくて焦ったよ。」
火曜日、私は彼氏である伊倉涼太の家にいた。お互い仕事が立て込んでいて、会うのは3週間ぶりだった。
今日は涼太の家で鍋を食べる予定で、先に仕事を終えた彼が買い出しをして、作り始めてくれていたけど、冷蔵庫にあったポン酢の残量が少ししかないことに気づいた彼から連絡があり、私が仕事帰りに追加で買ってきたのだった。
部屋に入ったときから、美味しそうな出汁の香りがしていたので、鍋はほぼ完成していそうだった。
「すごい美味しそうな匂いがする。何鍋にしたの?」
「鶏団子と鱈を入れた。和風です。」
私も料理はそこそこするけれど、涼太の方が圧倒的に得意なので、家で2人で会うときは、彼がご飯を作ることが多かった。
涼太はダイニングテーブルの上のカセットコンロの上に載せられた鍋の蓋を開けて、完成した鍋の中身を見せてくれた。所狭しと具材が並べられており、上がった湯気からうっとりするほど芳しい匂いがして食欲をそそった。
「これは確実に美味しい。絶対シメの雑炊まで食べる。作ってくれてありがとう。」
私が両手を合わせてお礼を言うと、涼太は満足そうに笑っていた。
「「いただきます。」」
二人で向かい合って座り、鍋を食べ始めた。出汁の味が染み込んだ具材はどれも美味しく、熱さを忘れて食べ進めた結果、口の中を火傷してしまった程だった。
「やっぱり、涼太のご飯美味しいなあ。同じ材料で作っても、確実に私より美味しくできる気がする。」
雑炊まで食べ切り、水も飲めないほど、満腹になった自分のお腹をさすりながら、私は涼太に話しかけた。
「大袈裟だよ。でも、美味しそうに食べてもらえると作り甲斐がある。」
そう言って優しく微笑んでくれた。
伊倉涼太は、大学時代のゼミが一緒だった。いつもニコニコしてて、笑うと目が無くなり、話し方も優しくて、穏やかな雰囲気が特徴的だった。 パッと見て好青年と言われるタイプで、きっと彼女の実家に行ったら速攻で親に好かれるタイプだなと思いながら、私は接していた。学生時代、私は部活の先輩と付き合っていたので、あくまで彼はゼミ内の友人という位置付けだった。
そのゼミのメンバーは仲が良かったので、卒業後もちょこちょこと集まれるメンバーで集まっていた。
卒業してから1年目の冬、久しぶりにフルメンバーで、忘年会をしていた時のこと、
「え、美耶、別れたの?先輩と。結構長く付き合ってたよね。」
「うん。なんか、ずっとギクシャクしてたから。確かに4年近く付き合ってたから、長い方だとと思うけど、こればっかりは仕方ないよねー。」
元々は、先輩の、グイグイ引っ張ってくれるところを魅力的に感じていたけど、自分も年齢を重ねると、彼から、傲慢さとプライドの高さを感じるようになってしまっていた。そして、彼が就活中に第一志望にしながら、内定をもらえなかった大手食品メーカーから、私が内定をもらい、入社してからは、仕事の話をするたびに、不機嫌そうな雰囲気を出されるようになった。
4年間付き合っているという情もあって、彼への不満が溜まりながらも、付き合い続けていたけど、先日喧嘩をした時に、
「お前は生意気なんだよ!」
と言われ、
「いや、そっちの器が小さいんじゃない?」
と返したら、
「もう、別れる!」
と言われたので、そのままお別れすることにした。あまりにも私があっさり引き下がっていたので、向こうは動揺していて、その場から立ち去った後に、何通か謝罪と復縁を求めるメッセージが来たけど、完全に冷めてしまった私は、きっぱりお断りし、晴れてフリーになったのだった。
「まぁ、また新たな出会いとか、あるかなーって思うし。マッチングアプリでも登録しようかなー。」
そんなことを話しながら、その場は楽しく飲んでいた。
飲み会が終わった後、解散する流れになったので、自分の家の方向に歩き始めると、
「橘、送るよ。」
涼太から、声をかけられた。
「ありがとう。でも、伊倉君、私の家と方向違うんじゃない?大丈夫?」
確か、彼の家は反対方向だったはずだ。
「夜遅いし、危ないからさ。行こう。」
いつものように穏やかな笑顔を向けながら言われ、ありがたくその申し出を受けることにした。
「...さっき聞こえたんだけど、先輩と別れたの?」
涼太は私の表情を窺うように、尋ねてきた。
「あー、そっちのテーブルにも聞こえてた?うん。別れた。でも元気だから、気にしないでね。」
私が笑顔を見せながら言うと、
「...落ち込んではいない?無理してない?」
そう言って心配そうに私のことを見てきた。
優しいな伊倉君は。
「うーん...。別れた方がいいのかなとはずっと思ってたから、別れたこと自体は後悔してないけど...。やっぱり長いこと付き合ってたから、ふとした時に、一人で寂しいなーとは思う。ちょっとだけね。でも、基本的には前向きだよ。引きずってても仕方ないしね。気を遣ってくれてありがとう。大丈夫だから。」
私がそう言うと、涼太はしばらく黙った後に、口を開いた。
「...もし、寂しいなって思う時があれば、俺に連絡してくれない?ご飯食べたり、遊びに行ったりできるよ。」
思いがけない申し出に私が驚いていると、
「もう、誤魔化しても仕方ないから言うけど、俺ずっと、橘のこと気になってた。でも、彼氏いるし、同じゼミの中で人間関係揉めたら困るだろうなって思って、何もしなかったんだけど、今、彼氏いないなら、もう、正々堂々といこうかなって。」
伊倉君は少し顔を赤らめながら話していた。ずっと良い人だとは思ってたけど、どんな人にも優しいから、私に対して特別な感情があるとは気づかなかった。彼は私が何も言わないことに焦ったのか、
「いや、今すぐ返事して欲しいとかじゃなくて、ちょっとでも可能性があるなら、考えて欲しいって言うか、」
少し慌てたように話していて、その様子見て、可愛いと思った。
「...じゃあ、今度、気になってる映画あるから、一緒に行かない?」
そう言うと、今まで見た中で1番良い笑顔を見せてくれた。
その後、数回のデートを経て、涼太と付き合うことになった。
「俺、両親が仲良くなくて、母親はいつもヒステリックに怒ってて、機嫌悪くて、どこに地雷があるか分からないから、ずっとビクビクしてた。だから、美耶っていつも機嫌良くて、楽しそうで良いなって思ってたんだよね。」
付き合ってからすぐ涼太にそう言われた。
基本的に細かいことを気にせず、機嫌良く過ごすことをモットーにしてるので、そこを評価してもらえたのは嬉しかった。
彼との日々はとても穏やかで、温かくて、なんとなく将来一緒に過ごす姿も思い浮かべることができた。もちろん、懸念点が全くないわけではなかったけど。
鍋を食べながら、涼太がいつもより元気がない様子なのが気になっていた。雑炊を食べ終わり、片付けを終えた後、先にソファーに座っていた彼の横に座り、質問した。
「...涼太、何かあった?なんか、静かだし、顔が暗い。」
「うーん...。ちょっと職場がね。人間関係って難しいよね。」
涼太は基本的に、相手の気持ちを察しようとしすぎる傾向があった。本人曰く、ヒステリックな母親の機嫌を損ねないように常に気を張っていたせいで、すぐ人の顔色を窺ってしまうと言っていた。そして、自分の中に不満が溜まっていても、それを人に話すのが苦手で、ストレスを溜め込んでしまうのだ。
「何があったの?聞くよ?なんでも。」
「うーん。でも、美耶に話しても状況は変わらないし、そう言ってもらえるだけで大丈夫だよ。」
「...話すだけで気が楽になることもあると思うけど。どう話してみたら?」
「ありがとう。でも大丈夫。」
こんな風に話を聞こうとしても、なかなか話してもらえない。自己開示が苦手なのはもどかしいし、明らかに元気がなさそうな様子を周囲に見せながら、何も話してもらえないと、こちらはどうしたら良いか分からなくなる。何度か強めにしつこく聞いたこともあるけど、答えてはもらえなくて、いつも私が引き下がっていた。
「...話したくなったら、いつでも聞くから言ってね。」
結局こんな風に言うことしかできないのだ。
冷たいとは思うけど、話をしてもらえないなら、周りから見て明らかに、元気がなさそうな様子を出さないで欲しいと思ってしまう。
「ありがとう。...美耶はすごいよね。しんどいことあっても、ウジウジ悩まないで、切り替えられて...羨ましい。」
そして、最後は私のことを羨ましがられる。
でも、私だって自分が機嫌良くいられるために努力をしているので、元々の素質かのように言われるのは、少し不本意だ。
そんなことを考えていると、私までモヤモヤしてくる。切り替えなければ。
私は、彼の手を握った。
「...私はそばにいるから、安心してね。味方だから。」
彼の目を見つめながらそう言うと、
「...ありがとう。」
そう返事が返ってきて、キスをされた。その流れで、そのままベッドに向かった。
何かを誤魔化したい時に、関係を持つようになっているのは良くないと思いつつ、それが1番手っ取り早く、場が収まる方法なので、つい、その流れになってしまう。
でも、彼と体を重ねながらも、私はモヤモヤした気持ちを抱えたままでいた。




