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どれだけ悲しい出来事が起きても、時間は容赦なく過ぎる。
彼ともう一緒にいられない現実を嘆きながらも、俺は高校を卒業し、大学を卒業し、社会人になった。
時間が経つにつれて、彼のことを思い出す頻度は減っていったけれど、完全に忘れることなどできなかった。新しい恋人ができたり、別の人と関係を持ったりもしたけれど、心のどこかでは、ずっと彼を探していたのだと思う。
文芸部時代、というか、幹弥さんと付き合っていた頃に本を読むようになって、自分でも意外なほど、活字が好きになり、就活を頑張ったおかげで、出版社に勤めることができた。
働き始めて4年、それまでいた小説部門から新書部門に移動になり、柳さんというベテランの編集者の下に就くことになった。
「日本で哲学科の第一人者といえばE大の北森先生なんだけど、働く人にこそ、哲学が必要なんだって言う切り口で本を書いてもらってて、明日、北森先生と打ち合わせがあるから、ついて来て。あとこれ、北森先生がうちから出してる著作、読んでおいて。」
そう言われ、北森文彦先生の本を渡された。
哲学か。
その言葉を聞いてすぐ、脳裏に幹弥さんが浮かんだ。
もう10年も経つのに、単語一つで思い出してしまうとは、あまりにも引きずり過ぎている。
俺は自分に呆れて、少し笑ってしまった。
翌日、E大学に柳さんと一緒に向かい、北森先生の研究室に向かった。
「哲学の先生って聞くから少し構えちゃったんですけど、北森先生の本、読みやすかったです。どんな方なんですか?」
「ぱっと見、俳優みたいに渋くてかっこいいよ。目が大きくて、スタイルも良いから、若い頃はさぞモテたんだろうなって雰囲気。それに、ものすごい博識で、知らないことはないんじゃないかって思う。歴史から、言語学みたいなお堅いことはもちろん、先週オリコンチャートで一位になったアイドルグループのセンターの名前まで知ってる。」
「へぇー、雑談で困ることなさそうですね。」
「うん。それに、自分の中に確固たる信念があって、かっこいいんだよ。普通に俺は北森先生のファンだよ。読者にもファンが多くて、北森先生が書く本なら、お堅いテーマでもある程度売れるだろうって上も判断したから、今回も作れるんだよ。」
2人でそんな話をしていると、部屋に到着したので、ドアをノックした。ベテランそうな年配の秘書の女性が出て、中に案内された。
「北森先生はもうすぐ講義を終えられて戻ってきますので、中でお待ちください。」
彼女について歩いていくと、向こう側から、1人の男性が歩いて来た。俺は彼を一目見て、その場で固まってしまった。
...幹弥さん。
幹弥さんも俺を見て、驚いた表情のまま、動きを止めていた。
「あぁ、保坂先生。ご無沙汰してます。」
「...柳さんお久しぶりです。今日は北森先生と本の打ち合わせですか?」
「そうなんです。あとは微調整だけで。あ、新人紹介しますね。先週から僕の下につくことになった。松川君です。」
「...松川です...お久しぶりです。...保坂先生。」
向こうにしてみたら、初めましてにしておいた方が良いかもしれないけど、思わずそう言ってしまった。幹弥さんはまっすぐに俺のことを見つめていた。
「え?松川君、保坂先生と知り合い?」
「...高校で、同じ文芸部だったんですよ。」
俺がそう言うと、幹弥さんはぎこちなく笑った。
北森先生との打ち合わせには幹弥さんも同席した。俺はテーブルを挟んで、自分の向かいに座る彼を打ち合わせ中もチラチラと見てしまっていた。
まさか、また幹弥さんに会えるなんて。嬉しい。哲学科で働いてるってことは、目標通り、進学できたんだ。良かった。
相変わらず色白で線が細い。切れ長だけど優しげな瞳もあの頃のままで、メガネのデザインが変わっている以外は、ほとんど変わらない姿だった。2人の日々が脳内に鮮明に思い出された。
でも、幹弥さんの左手を見た瞬間、思考が停止した。
薬指には指輪が光っていた。
「じゃあ、その方向で作らせていただきますね。あとは製本のみなので、完成したらすぐに持ってきます。」
柳さんの声が聞こえて、俺は遠くに飛んでいた意識を取り戻した。
そうか…結婚しているのか。
もう10年も経つんだ。仕方ないか。
考え込んでいると、
「そうか、松川君は保坂君と部活が一緒だったのか。」
北森先生が俺に向かって話しかけていることに気付いて、俺は無理矢理、仕事モードに着替えた。
「そうなんです。文芸部で一緒でした。僕が1年生の時の3年生で、部長だったんですよ。…保坂さんが、あの頃と変わってなくてびっくりしました。」
俺は作り笑顔で答えた。
「まさか、ここで会うなんて、びっくりしたでしょう、保坂君。」
北森先生に話を振られた、幹弥さんは
「はい。驚きました。松川君も、昔から変わらないです。元気そうで良かったです。」
穏やかに笑いながら、そう答えていた。
大学から会社への帰り道、柳さんは上機嫌に話していた。
「やっぱり、松川君は噂通り、仕事ができるし、年上ウケ抜群だねー。君のその笑顔が良いんだろうね。北森先生、いつも以上に楽しそうだったよ。これからもよろしく頼むよ。」
「そんな風に言ってもらえて嬉しいです。」
あまりにも一気に色々なことが起こったので、混乱していたけれど、それが表に出ていないようで安心した。むしろ褒められるとは、我ながら自分の外面の良さに驚く。
「それに、保坂先生と知り合いだったなんて、本当に驚いたよ。彼、若いけど優秀な研究者で、この前、北森先生の娘さんと婚約したばかりなんだ。」
そうか、あれは婚約指輪なのか。
自分の上司と娘と婚約して、将来も盤石。
笑ってしまうほど絵に描いたような幸せを掴んでたんだな。幹弥さん。
…俺は、こんなにずっと、あんたを忘れられずにいたのに。
あんたは、俺のことなんてすっかり忘れて、前に進んでいたんだ。
「…そうなんですね。」
「北森先生だけじゃなく、保坂先生にもお世話になってて、保坂先生の結婚式に俺も呼ばれてるんだ。正直、北森先生の一人娘の結婚式でもあるから、北森先生の意向で呼んでいる招待客も多くて、今日の松川君の気に入り方を見てたら、多分、松川君も式に招待されると思うよ。」
ずっと大好きだった人の結婚式に参列者として呼ばれるなんて、神様は本当に残酷だ。
帰り道、俺はずっと作り笑いで、心ここに在らずのまま、柳さんの話に相づちを打っていた。
1ヶ月後、完成した本の試作品を渡すために、柳さんと二人で北森先生を訪ねる予定だったけど、柳さんに急用ができてしまった。
「松川君、本当に申し訳ないんだけど、届けてきてもらえないかな。アポは取ってあるから。」
正直、幹弥さんと顔を合わせるのは嫌だったけれど、仕事なのでそうも言ってられない。俺はいつもの作り笑顔で、
「分かりました。行ってきますね。」
そう答えた。
重い足取りで、研究室に行くと、秘書さんに前回と同様に応接室に案内された。北森先生が来るのを待っていると、応接室の扉が開いた。そこには、幹弥さんが一人で立っていた。
「お待たせして申し訳ありません。北森先生に急用ができてしまって、外出されたので、僕が代わりに受け取らせていただきます。」
幹弥さんは頭を下げて申し訳なさそうに話していた。
「…分かりました。では、こちらになります。」
本を手渡した瞬間、幹弥さんの手が俺の手に触れた。
その瞬間、かつて触れていた彼の体温を思い出して、一気に身体が熱くなった。
「はい。確かに受け取りました。わざわざ来てくださったのに、本当に申し訳ありません。北森先生がまた改めてお礼を言いたいと話していました。今後ともよろしくお願いします。」
そう言って再び頭を下げる幹弥さんを見ながら、ふと、今までのことを問いただしたい気持ちになった。
でも、それは、現実的ではない。今ここで騒いだら、自分の職場にも迷惑がかかってしまうかもしれない。俺は、ぐっと堪えて、また笑顔を作った。幹弥さんと再会してから、作り笑顔をしてばかりだ。
「…ありがとうございます。こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。では、僕はこれで。」
俺は頭を下げた後、幹弥さんの顔を見ないようにして、足早に応接室から出ていった。
幹弥さんと再会してから、幹弥さんとの日々を鮮明に思い出すようになっていた。
間違いなく、俺の人生で一番幸せだった頃。
でも思い出す度に、あの人はもう、別の誰かと結婚するのだという現実を思い知らされて、胸が苦しくなる。そんなことを繰り返している俺は、なんてバカなんだろう。
そんなことを思っていると、気付いたら雨が降っていた。傘は持っていなかったけれど、買う気にもならず、駅までの道を、とぼとぼと歩いていた。
「松川さん!」
後ろから俺を呼ぶ声が聞こえて、振り返ると、傘を差した幹弥さんが、走って俺のところまでやってきた。
どうして。
「濡れてるじゃないですか。一旦雨宿りしましょう。」
雨に打たれていた俺の姿を見て驚いた幹弥さんに腕を引かれて、目に入った飲食店の軒先に入った。そのお店は昼休憩中で、店内は暗かった。
「…松川さんが帰ってからすぐ雨が降り出したので、駅に向かってる途中かなと思って来ました。今日の天気予報、晴れだったし、カサ持ってないかもしれないなって。…タオル持って来たんで、拭いてください。」
そう言うと、幹弥さんはタオルを渡してきた。俺は彼の顔を見つめながら、受け取って、顔を拭いた。気のせいだとは分かっていても、彼の匂いがする気がした。
仕事相手にする行動にしては、大げさすぎる。
もしかして、まだ俺のこと…。
いや、そうだとしても、この人には婚約者がいるんだ。
俺は、喜びを押し殺しながら、タオルで自分の身体を拭いた。
「雨まだ続くみたいなので、俺の傘、使ってください。」
そう言って、彼が折りたたみ傘を渡してきた瞬間、かつて、高校からの帰り道、幹弥さんの折りたたみ傘で、相合い傘をして歩いたことを思い出した。折りたたみ傘のサイズが小さくて、男二人だと入りきらなくて、二人で狭いと言い合って笑いながら、肩を寄せて歩いた記憶。結局、お互いに、相手と接していなかった側の肩がびしょ濡れになり、幹弥さんの家に着いてから、2人で大笑いした。
こんな些細なことですら、俺は鮮明に思い出して、懐かしくて、愛おしくて涙が出そうになるのに。
どうして、あなたは別の人と婚約してるんですか?
「…大丈夫です。駅まで走りますんで。」
「いや、でも風邪引いたら大変ですし。」
「...なんで、こんな風に優しくするんですか?俺のこと捨てたくせに。」
そう言って睨んだ瞬間、幹弥さんが悲しそうな表情をした。
そんな顔をするのはずるい。
あんたが俺を捨てたのは事実じゃないか。
俺だって、あんたのせいで散々傷ついたのに、なんで自分だけが被害者みたいな顔ができるんだ。
「…俺は、あの日から、ずっとあんたを忘れられなかった。他の誰といても…。それなのにあんたは、俺のことなんかすっかり忘れて。上司の娘と婚約して…仕事のためですか?夢でしたもんね、哲学をやるのが。夢が叶いますね。未来はバラ色ですね。さぞ、幸せなんでしょうね。俺と違って。」
俺が話している間、幹弥さんは泣きそうな表情をしていたけれど、俺から目を逸らさなかった。まるで自分から罰を受けようとしているみたいで、その顔を見ていると、俺が悪いことをしているように感じて、少しだけ罪悪感を覚えたけど、湧き上がる怒りを止めることができなかった。
「それなのに、なんでこんな風に優しくするんですか?こっちは仕事だから、あんたに腹が立ってる気持ちを押し殺して対応してるんですよ。何のつもりですか?幸せのお裾分けですか?哀れな人間に。」
俺がそこまで言い終わると、見つめ合ったまま沈黙が流れた。しばらくすると、幹弥さんは口を開いた。
「優斗、本当にごめん。俺は優斗にいくら罵られても足りないくらい、ひどいことをしたから。たくさん傷つけたから。優斗の気が済むまで、俺に怒って、軽蔑してもらって構わない。本当に申し訳なかった。」
幹弥さんは深く頭を下げた。その両肩が震えているのが見えた。
「…今さら謝られても困ります。遅いです。それに、仕事相手への気遣い以上のことはしないでください…俺が苦しくなるから。」
言いながら、泣きそうになってしまった。幹弥さんは、そのまま頭を下げ続けていた。
雨は激しさを増すばかりで、止みそうにない。これ以上話しても何にもならない。
「もう行きます。傘は結構です。…タオルは今度洗って返します。失礼します。」
俺はそう言ってその場から駆け足で立ち去った。




