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シルウァヌス伯爵との甘美な密会を終え、私は一人、静かな湖畔の森から本陣へと続く獣道を歩いていた。
唇にはまだ、彼の熱いキスの感触が残っている。冷徹な「氷の伯爵」が、私にだけ見せる情熱。それは、知能指数1の婚約者との絶望的な将来を嘆いていた私にとって、劇薬のような刺激であり、唯一の慰めであった。
このまま、誰にも知られずに、彼と危険で優雅な関係を続けていく。それこそが、私のセカンドライフを豊かにする最高の戦略だ。そんな風に確信し、一人ほくそ笑んでいた、まさにその時である。
――ガサガサガサッ!!
突然、前方の巨大な茂みが乱暴に揺れ、重低音の唸り声と共に「それ」が姿を現した。
「……え?」
私は思考を停止させ、その場に立ち尽くした。
現れたのは、体長三メートルはあろうかという巨大な猪の魔獣。全身の黒い剛毛の隙間から赤黒い炎を噴き出し、二本の巨大な牙から白い息を吐き出している。
間違いない。先ほど北の谷でデキムス殿下がキャベツで餌付けしようとしていたというBランク魔獣、「イグニス・ボア(火炎猪)」である。
おそらく、討伐隊から逃れた別個体か、あるいはつがいだったのだろう。怒り狂った赤い瞳が、真っ直ぐに私を捉えていた。
「嘘……」
ヒュッと喉が鳴った。前世でも今世でも、これほど圧倒的な「死」の気配を直に浴びたのは初めてだった。
膝から力が抜け、私はその場にへたり込んでしまう。ボルドー色の乗馬服が泥に汚れることなど気にする余裕もなかった。
イグニス・ボアが、前足で地面を掻きむしり、突進の構えに入る。熱風が私の顔を撫でた。
「シ、シルウァヌス様……!!」
私はすがるような思いで、背後を振り返った。
つい先ほどまで私と唇を交わしていた、冷静沈着で頼りがいのある氷の伯爵。彼なら、この危機をその卓越した頭脳と剣術でどうにかしてくれる。そう信じて助けを求めた私の視界に飛び込んできたのは――。
「ひっ……ひぃいいいいいいっ!!?」
先ほどまでの冷徹な色気など微塵も感じさせない、顔面蒼白で目を見開いたシルウァヌス伯爵の姿だった。
彼は腰の長剣を抜くことすら忘れ、私を助け起こそうとする素振りすら見せず、くるりと踵を返した。
「ば、化け物……っ! なぜこんな所に!! 私は法務官だぞ、討伐など騎士の仕事だ!! こ、こっちに来るなああああ!!」
悲鳴を上げながら、彼は見事なまでの全速力で、私が来たのとは反対の方向へと全力ダッシュで逃亡し始めたのだ。その走り方は、貴族の優雅さなど欠片もない、ただの命惜しさの泥臭い逃走劇であった。
「…………は?」
私は唖然とした。
あれほど大口を叩き、私を「美しき共犯者」などと呼んで甘い言葉を囁いていた男が。王国一の知性と冷徹さを誇る「氷の伯爵」が。
いざ本物の危機を前にすると、女を一人見捨てて、情けない悲鳴を上げながら逃げ出すような、ただのヘタレだったなんて。
パリン、と。私の中で、シルウァヌス・コルネリウスという男に対する百年の恋(というか打算的なロマンス)が、音を立てて木端微塵に砕け散った瞬間だった。
顔だけ、頭だけ良くても、胆力がスライム以下なら意味がない。完全に損切り確定である。
だが、そんな冷静な分析をしている場合ではなかった。
ブモォオオオオッ!!
激しい咆哮と共に、イグニス・ボアが私に向かって猛烈な突進を開始したからだ。
「きゃあっ!!」
私は必死に体を横に転がし、這うようにして近くにあった巨大な樫の木の裏へと逃げ込んだ。
ドゴォォォォンッ!!
地響きを立てて、魔獣が樫の木に激突する。
イグニス・ボアは「猪突猛進」の言葉通り、真っ直ぐにしか突進できないという特性がある。そのおかげで直撃は免れたものの、樹齢数百年はあろうかという巨木が、メキメキと嫌な音を立てて傾いた。
「ひっ……!」
私は木の根元にしがみつき、ガタガタと震えながら息を殺した。
木が折れるのは時間の問題だ。折れずとも、イグニス・ボアがバックして方向転換すれば、今度こそ私は逃げ場を失う。
バキィッ! という音と共に、樫の木の幹が大きく裂けた。魔獣が鼻息を荒くしながら、再び私を視界に捉えようと巨体を揺らして方向転換を始める。
圧倒的な熱気。獣の臭い。
私は目を強く瞑った。こんなところで、婚約者ガチャに外れ、浮気相手のガチャにも外れた挙げ句、魔獣の餌になって死ぬのか。私のセカンドライフ、あまりにも理不尽すぎないだろうか。
イグニス・ボアが、完全に私に狙いを定め、再び後ろ足で地面を蹴った。
もはやこれまで。そう覚悟した、その刹那。
「おおおおおおっ!! 私のフラミニアに、その薄汚い牙を向けるなああああっ!!」
森の木霊を切り裂くような、よく知る大声が響き渡った。
直後、空気を切り裂く鋭い風切り音と共に、一本の銀の槍が、イグニス・ボアの鼻先に深々と突き刺さった。
「ブギュルルルルッ!?」
痛みに魔獣が悲鳴を上げ、突進の軌道が大きく逸れる。巨体が私のすぐ横を通り過ぎ、別の木に激突して止まった。
私は信じられない思いで、声のした方を見上げた。
そこにいたのは、一頭の美しい白馬。
そしてその背に跨り、夕日を背に受けて立つのは――蛍光ピンクの狩猟服をあちこち黒焦げにさせ、顔にも煤をつけた、私の婚約者。
デキムス・アウレリウス第一王子殿下であった。
「フラミニア! 無事か!!」
彼はいつものアホみたいな笑顔ではなく、王族としての威厳と、愛する者を守るための烈火の如き怒りをその青い瞳に宿し、私を真っ直ぐに見下ろしていた。
その瞬間、私は前世のゲーマーとしての知識を一つ思い出していた。
このデキムス殿下、「知力」パラメーターは初期値の1でカンストしているが、実は「武力」と「魅力」に関しては、作中最強クラスの圧倒的数値を誇るという事実を。
「デキムス、殿下……?」
「待たせたな! だがもう安心だ! この私が来たからには、キャベツの恨みも含めて、この炎の豚に鉄槌を下してくれる!」




