8
言うが早いか、デキムス殿下は白馬を巧みに操り、イグニス・ボアの前へと躍り出た。
怒り狂ったイグニス・ボアが、鼻先の槍を振り落とし、標的を私からデキムス殿下へと変更する。紅蓮の炎を纏い、凄まじい速度で彼に向かって突進していく。
「殿下! 逃げて……!」
私が叫ぶよりも早く、彼は腰から長剣を引き抜き、恐れることなく魔獣に正面から向かっていった。白馬が魔獣の突進を紙一重で躱し、すれ違いざまにデキムス殿下の剣が一閃する。
硬い魔獣の皮膚を容易く切り裂き、鮮血が舞った。
「殿下に続けぇーーっ!!」
そこに、遅れて駆けつけてきた近衛騎士たちが、一斉に森から飛び出してきた。透明化を解いた彼らは、殿下の勇姿に士気を爆発させ、一糸乱れぬ陣形でイグニス・ボアを取り囲む。
「魔法部隊、氷結魔法用意! 前衛、盾を構えよ!」
ティベリウス将軍の号令のもと、騎士たちの怒涛の連携攻撃が始まった。
デキムス殿下はその圧倒的な身体能力で魔獣の攻撃をことごとく引きつけ、その隙に騎士たちが魔法と剣でイグニス・ボアを削っていく。
先ほどまで私に死の恐怖を与えていたBランク魔獣は、わずか数分のうちに無数の剣に貫かれ、ついに大きな地響きと共に倒れ伏し、動かなくなった。
「討伐、完了しました!!」
騎士たちの歓声が森に響き渡る。
しかし、デキムス殿下は剣を鞘に納めるや否や、誰よりも早く馬から飛び降り、一直線に私のもとへ駆け寄ってきた。
「フラミニア!」
彼は泥だらけの地面に膝をつき、腰を抜かして木にしがみついている私を、その逞しい腕で力強く、けれど壊れ物を扱うかのように優しく抱き寄せた。
「あ……」
彼の胸板は、信じられないほど厚く、そして温かかった。黒焦げになったピンクの服からは、煙の匂いと、少しの焦げた匂いがする。
「怪我はないか? どこか痛むところはないか? ……すまない、私がそばにいながら、君をこんな危険な目に遭わせてしまって」
私を抱きしめる彼の腕が、微かに震えている。
それは、魔獣に対する恐怖ではなく、私を失うかもしれないという恐怖から来る震えだった。
私は彼を見上げた。煤で汚れ、髪も乱れているが、その顔は神が彫り上げたように美しく、何より――私を心の底から案じる、真剣で真っ直ぐな瞳がそこにあった。
「私は……大丈夫、です。殿下が、助けてくださったから」
「よかった……! 本当によかった……!」
デキムス殿下は、まるで世界で一番大切な宝物を見つけたかのように、私をもう一度強く抱きしめた。
トクン、と。
私の胸の奥で、何かが小さく、けれど確かな音を立てた。
今まで、彼のことを「知力1のアホ」「オワコンの不良債権」と見下し、適当に利用することしか考えていなかった。
けれど、自分が本当に死の淵に立たされた時、知力ばかり高くて逃げ出した男とは違い、彼は一目散に駆けつけ、命懸けで私を守ってくれたのだ。
理屈ではない。計算でもない。ただ純粋に、私のために槍を投げ、剣を振るうその背中が、今の私にはこの世のどんなイケメンよりも頼もしく、そして……カッコよく見えてしまった。
「……殿下。お服が、焦げてしまっていますわ。それに、私のドレスも泥だらけで……」
「服などどうでもいい! 君が無事なら、全財産を失っても構わない! ……ああ、だが、あのハチミツ漬けキャベツが燃えてしまったのは少し惜しかったな。あれがあれば、魔獣ともっと平和的に解決できたかもしれないのに!」
感動的な雰囲気の中、唐突にぶ込まれた「キャベツ」という単語に、私は思わず噴き出してしまった。
「ふふっ……あはははっ!」
「フ、フラミニア? どうしたのだ、そんなに笑って。やはりキャベツが惜しかったか?」
「いいえ。殿下は、本当に……救いようのないくらい、殿下ですね」
私は彼の焦げた服に額を押し当てながら、心から笑い声を上げた。
アホである。相変わらず、知性のかけらもないアホだ。
でも、どうしてだろう。先ほどまでは彼の発言の一つ一つに青筋を立てていたはずなのに、今はそのアホらしさが、ひどく愛おしく感じられる。
この人を放っておけない。私が手綱を握って、一緒に歩いていきたい。
そう、自然と思えるようになっていた。
───
それから数日後。王宮の白亜の回廊にて。
シルウァヌス伯爵は、あの日の失態が一部の騎士たちに目撃されていたためか、「体調不良」を理由にしばらく王宮通いを休むことになったらしい。まあ、二度と私の前に姿を現すことはないだろう。氷の伯爵ならぬ、逃げ足の伯爵のことは、私の記憶から綺麗に削除した。
「おお、フラミニア! 今日も君の瞳は、まるで熟成された極上の葡萄のように輝いているな!」
今日も今日とて、絶望的な語彙力で私を褒め称えるデキムス殿下。
「おはようございます、殿下。葡萄ですか……。まあ、ワインの原料と思えば悪くありませんわね」
「うむ! ところで見てくれ! 今日は、この『絶対に転ばない魔法の靴』を発明したのだ! 靴底に大量のスライムの粘液を塗ってあるから、地面にピタリと張り付いて……うおおっ!?」
デキムス殿下が歩みを進めた瞬間、靴底が床に強力にくっついて離れず、彼は盛大に顔面から床にダイブした。
ドンッ! という鈍い音が回廊に響き渡る。
「……殿下」
私はため息をつきながら、倒れた彼のもとへ歩み寄り、そっと手を差し伸べた。
「スライムの粘液は、乾くと接着剤になるのですわ。これでは歩くことすらできませんよ」
「い、痛い……。だが、これで絶対に転ばないことは証明されたな!」
「ええ、そもそも一歩も歩けませんからね」
私は呆れたように笑いながら、彼の服についた埃をハンカチで払ってあげた。
以前なら「また仕事が増えた」と内心で毒づき、冷たい作り笑いを浮かべて処理していたところだ。
けれど今は違う。この手のかかる、大きくて勇ましいアホな婚約者の奇行も、嫌々ではなく、どこか愛おしい日常のスパイスとして受け入れられる自分がいる。
「さあ、殿下。靴を履き替えて、今日は温室へ行きましょう。殿下の好きな、丸いお菓子を用意してありますから」
「本当か!? 四角ではなく、丸いのだな!? それは素晴らしい!」
目を輝かせて立ち上がるデキムス殿下の腕に、私は自らそっと手を添えた。
人生とは、巨大なガチャである。
私はずっと、自分が大外れを引いたのだと思っていた。しかし、実は私が引いたのは、使いこなすのが極端に難しいだけで、いざという時には最高の輝きを放つ「特殊なUR」だったのかもしれない。
妹ドミティッラは、完璧な第二王子と共に、王道のハッピーエンドを歩むだろう。
私は私で、この愛すべきアホな王子と共に、呆れながらも笑いの絶えない、賑やかな人生を歩んでいく。
それもまた、悪くない。いや――最高に楽しい、私のプレイスタイルなのだから。




