私は氷の伯爵と森の奥で唇を重ねる。
天幕に悲鳴が上がる。イグニス・ボアといえば、タウンクラス(傭兵階級)相当の危険な魔獣だ。全身から炎を吹き出し、その突進は魔法障壁城門をも粉砕すると言われている。
「ま、まさか……殿下は大丈夫なのですか!?」
青ざめた顔で立ち上がったのは、ヴァレリウス殿下である。
「は、はい! 殿下は無傷です! ただ……」
「ただ、なんだ!?」
「ただ……殿下は、突進してくるイグニス・ボアに対し、真っ向から『ハチミツ漬けキャベツ』を差し出し、『さあ、心を開いてこれを食べるがいい!』と叫びながら、両手を広げて立ちはだかっておりまして……」
「なっ……」
「透明化していた精鋭部隊が慌てて割って入り、現在、二十人がかりでイグニス・ボアと死闘を繰り広げております! しかし殿下が『やめろ! 彼らは敵ではない! 武器を捨てて対話するのだ!』と騎士たちの邪魔をするため、討伐が難航しており……増援をお願いいたします!!」
ピシリ、と。
ヴァレリウス殿下の持っていたティーカップにヒビが入った。
「……カッシウス(財務官)。すぐに予備の第三騎士団を向かわせろ。それと、イグニス・ボアの討伐にかかる特別手当の算出と、森の環境破壊に対する修繕費の予算案を作成してくれ……」
「はっ。ただちに」
優秀な財務官であるカッシウスが、無表情のまま羊皮紙に猛烈な勢いで数字を書き込み始める。
私はそっと立ち上がり、扇子で口元を隠して悲痛な表情を作った。
「ああ……なんという事でしょう。デキムス殿下の、あの慈愛に満ちた御心が、魔獣には通じなかったのですね……。私、心配で胸が張り裂けそうですわ」
「お姉様……!」
ドミティッラが涙ぐんで私を見つめる。
「ヴァレリウス殿下。私は少し、外の風に当たって心を落ち着けてまいります。もし殿下に何かあれば……すぐにお知らせくださいませ」
「フラミニア嬢……。すまない、貴女にばかり辛い思いをさせて……」
痛ましげに見送る周囲の視線を背に受けながら、私はハンカチで目元を押さえる振りをして、本陣の天幕を後にした。
天幕から十分離れたことを確認した瞬間、私はハンカチをしまい、口元に浮かんでいた悲痛な表情を、完璧な「してやったり」の笑みへと切り替えた。
完璧なアリバイ工作の完了である。
「婚約者の危機にショックを受け、一人で悲しみに暮れる貞淑な令嬢」という言い訳を手に入れた私は、誰にも怪しまれることなく、本陣の裏手にある静かな湖畔の森へと足を踏み入れた。
◈
騒々しい本陣から離れるにつれ、森は深い静寂と、秋の冷たい空気に包まれていった。
黄色や赤に色づいた木々の葉が、風に揺れてサラサラと心地よい音を立てている。湖の水面は鏡のように空を反射し、息を呑むほど美しい光景だった。
その湖畔の巨大な樫の木の根元に。
私を待つ、一人の黒衣の青年が立っていた。
「……随分と、迫真の演技でしたね。公爵令嬢を辞めて、王立劇場の舞台女優にでも転向されてはいかがですか?」
木に寄りかかり、腕を組んだシルウァヌス伯爵が、からかうように目を細めて私を見た。
彼は本陣の騒ぎを遠くから見物していたのだろう。その表情には、呆れと、私への純粋な賞賛が入り混じっている。
「あら、見ていらしたの? でも、舞台女優になるには報酬が少なすぎますわ。私のあの見事な立ち回りは、一幕につき金貨百枚はいただかないと割に合いませんもの」
私は乗馬服の裾を翻し、落ち葉を踏みしめながら彼へと近づいた。
「金貨百枚。高くつきますね。しかし、あの騒ぎのおかげで、こうして誰の目も気にせず、貴女と二人きりになれた。それだけの価値は十二分にある」
シルウァヌス伯爵はゆっくりと木から背を離し、私に向き直った。
二人の距離が縮まる。彼の背の高さに、私はわずかに見上げる形になる。周囲には私たち以外、誰もいない。聞こえるのは風の音と、時折遠くから響く、気の毒な騎士たちの怒号と魔獣の咆哮だけだ。
「……北の谷では、今頃デキムス殿下がキャベツを片手に愛を叫んでいるというのに。その婚約者は、森の奥で他の男と逢瀬を楽しんでいる。背徳的ですね」
シルウァヌス伯爵の低い声が、私の耳朶を撫でる。
彼の手が伸び、私の乗馬帽に飾られた黒い羽根にそっと触れた。その指先が、流れるように私の頬へと降りてくる。手袋越しの感触が、冷たい秋の空気の中で異様に熱く感じられた。
「背徳的、大いに結構ですわ」
私は逃げることなく、彼のヘーゼルの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「私は、自分の人生の主導権を誰にも渡すつもりはありません。知力1の王子に振り回されるだけの悲劇のヒロインで終わる気など、毛頭ありませんの。私は私の意志で、貴方を選んでここに来たのです」
私の強気な言葉に、シルウァヌス伯爵はふっと口角を上げ、獲物を狙う鷹のような、酷薄で美しい笑みを浮かべた。
「……素晴らしい。貴女のその傲慢なまでのプライドと強かさ、私は嫌いではありませんよ。いや……むしろ、愛おしいとすら思う」
次の瞬間。
彼の手が私の腰を引き寄せ、もう片方の手が私の後頭部を優しく、しかし逃げ場のない力でホールドした。
ボルドー色の乗馬服越しに、彼の引き締まった身体の熱が伝わってくる。驚く間もなく、彼の端正な顔が目前に迫った。
重なる唇。
それは、彼の持つ「氷の伯爵」という通り名とは裏腹に、焼け焦げるような熱を帯びていた。
大人の男の、深く、甘やかなキス。前世の薄っぺらい恋愛経験など一瞬で吹き飛ぶほどの、圧倒的な色気とテクニック。私は一瞬、頭の中が真っ白になり、彼の手の中で崩れ落ちそうになった。
「……んっ……」
抗う気など最初からなかった。私は彼の首に腕を回し、その熱に応えるように背伸びをした。
遠くで、「やめるんだイグニス・ボア! 私とキャベツを食べよう!」というアホな王子の叫び声が微かに聞こえたような気がしたが、今の私にはどうでもよかった。
静かな湖畔。色づく秋の森。
世界で一番バカな男の婚約者である私は今、世界で一番賢く、そして危険な男の腕の中で、極上の密蜜の味を知る。
「……息、してますか?」
唇が離れ、至近距離で彼が囁く。その瞳には、普段の冷静さをわずかに欠いた、雄としての熱情が微かに灯っていた。
「ええ……。なんとか。でも、シルウァヌス様は、少し手加減というものを覚えた方がよろしいかもしれませんわ」
「手加減? これでも、随分と理性を総動員して自制しているつもりですがね。これ以上は……あの騒ぎが収まる前に、貴女をここから帰せなくなりそうだ」
彼は私の乱れたプラチナブロンドの髪を指先で整えながら、甘く低い声で笑った。
ああ、なんて恐ろしい男だろう。そして、なんて最高にスリリングな時間だろう。
私たちはしばらくの間、湖畔の静けさの中で、身を寄せ合ったまま互いの体温を感じていた。
やがて、遠くから「討伐完了ーっ!!」という騎士の歓声と、「ああ! 私のキャベツが黒焦げに!!」というデキムス殿下の絶望的な叫びが聞こえてきたのを合図に、私たちはゆっくりと身を離した。
「そろそろ、貞淑な婚約者の仮面を被り直す時間ですね、フラミニア嬢」
「ええ。顔を真っ黒に焦がしたであろう大きな『迷子』を、迎えに行ってあげなくてはなりませんから」
私は乗馬服の襟を正し、先ほどまでの熱情を心の奥底に隠して、完璧な公爵令嬢の笑みを浮かべた。唇にはまだ、彼のキスの熱と、かすかな痺れが残っている。
ドミティッラは、ヴァレリウス殿下と共に、きっとこの国の光となるだろう。
デキムス殿下は、まあ、これからもキャベツ片手に魔獣と戯れていればいい。
そして私は――この薄暗くも甘美な影の世界で、氷の伯爵と共に、誰よりも自由で贅沢なロマンスを踊り続けるのだ。
「また後ほど、王宮の書庫で。……今度は、もう少し長い時間をお願いしますわよ、伯爵」
「御意のままに、私の美しき共犯者」
シルウァヌス伯爵の優雅な一礼を背に受けながら、私は本陣へと歩き出した。
婚約者ガチャ大爆死からの、人生大逆転。
私のセカンドライフは、今日も最高に楽しく、そして背徳的に輝いている。




