第一王子が猪と和平交渉を行う裏で、
貴族社会において、「浮気」とは如何なるものか。
前世の記憶――週刊誌のゴシップや、芸能人の不倫謝罪会見が毎日のようにテレビを賑わせていた現代日本――の倫理観に照らし合わせれば、それは間違いなく社会的な死を意味する大罪である。
だが、ここは剣と魔法と身分制度が絶対的な権力を持つファンタジー世界。政略結婚が基本の貴族社会において、愛のない婚姻など星の数ほど存在する。それゆえ、跡継ぎさえ無事に残せば、お互いのプライベートには干渉しないという暗黙の了解が、この世界の上流階級には根付いていた。
もちろん、表立って不貞を働くことは「はしたない」と非難される。しかし、誰にも悟られず、スマートに、かつ互いの利益と精神的安定のために割り切った関係を築くのであれば、それは「大人の嗜み」とすら呼ばれるのだ。
ましてや、私の婚約者は、あのデキムス・アウレリウス第一王子殿下である。
彼との婚約が成立して以来、私の心労は計り知れない。彼が引き起こす国家規模の奇行の数々を処理し、公爵家の財力で尻拭いをしてきた私の「功績」は、王宮内の誰もが知るところだ。
もし仮に私が誰かと密会していることが露見したとしても、周囲の貴族たちは「あのフラミニア公爵令嬢も、たまには息抜きが必要なのだろう」と、むしろ同情の涙を流して黙認してくれるに違いない。
「……というわけで、私の行動は完全なる正当防衛であり、メンタルヘルスケアの一環なのですわ」
「なるほど。自身の不貞を『国家への奉仕によるストレスに対する正当な医療行為』と定義するとは。貴女のその屁理屈……いや、見事な法解釈には、法務局の局長も舌を巻くでしょうね」
秋の気配が色濃くなってきた、王都近郊の「ルシフェス大森林」。
王室主催の『秋季魔獣狩猟大会』の会場となるこの森の入り口で、私は馬上の人となりながら、並走する黒馬に乗ったシルウァヌス・コルネリウス伯爵と軽口を叩き合っていた。
本日の私は、クインティリウス公爵家の財力を結集して仕立てさせた、深いボルドー色の乗馬服に身を包んでいる。プラチナブロンドの髪は邪魔にならないよう編み込み、黒い羽根飾りのついた乗馬帽を被っていた。
一方のシルウァヌス伯爵は、黒と銀を基調とした細身の狩猟服を完璧に着こなしている。普段の法務官の制服姿も禁欲的で素敵だが、革のブーツと手袋を身につけ、腰に長剣を佩いたその姿は、冷徹な貴公子としての魅力が限界突破していた。
「医療行為だなんて、そんな大げさな。私はただ、美しい紅葉と、美しい殿方を愛でながら、優雅な秋の一日を過ごしたいだけですわ」
「それは光栄ですね。しかし、貴女の『主治医』としての私の出番は、今日は少しばかり遅くなりそうだ」
シルウァヌス伯爵が、呆れたような、それでいて愉快そうな視線を前方に向けた。
彼の視線の先――王族や高位貴族が集まる絢爛豪華な本陣の天幕の前で、信じられないほど派手な「蛍光ピンク」の狩猟服を着た男が、何やら大声で演説をぶっていたからである。
「聞け、誇り高き王国の騎士たちよ! 狩りとは、一方的な殺戮ではない! 大自然との対話であり、魂の交歓なのだ! ゆえに私は本日、武器を持たずに森へ入る! 私の圧倒的なカリスマと、この『特製・超巨大ハチミツ漬けキャベツ』をもって、凶暴な魔獣と和平条約を結んでみせよう!」
デキムス殿下であった。
彼の背後には、荷馬車に積まれた直径一メートルはあろうかという巨大なキャベツ(しかも全体がハチミツでベタベタにコーティングされている)が鎮座している。
周囲を取り囲む近衛騎士たちは、完全に魂が抜けた顔で虚空を見つめていた。騎士団長であるティベリウス将軍に至っては、あまりのストレスで胃薬をボリボリとラムネのように噛み砕いているのが見える。
「……殿下は、本気で魔獣とキャベツで対話できるとお思いのようですね」
私は扇子(今日は乗馬用の鞭だが)で口元を隠す代わりに、深くため息をついた。
「先週は『鳥と会話するために、全身に鳥の羽を接着剤で貼り付けて塔から飛び降りようとする』のを止めるのに、三日がかりでしたのよ。魔獣とキャベツで済むなら、今日はまだ平和な方ですわ」
「……フラミニア嬢。貴女の胃壁は、もしかしてミスリル銀でコーティングされているのですか?」
「ええ。毎晩、寝る前に特製の胃薬(公爵家秘伝)を飲んでおりますから」
私たちがそんな会話を交わしていると、天幕の方から、この世の終わりのような顔をした少年が近づいてきた。第二王子、ヴァレリウス殿下である。
彼の隣には、私の愛すべき天使――妹のドミティッラが、心配そうに彼の手を握って寄り添っている。
「お姉様! それに、コルネリウス伯爵も、おはようございます!」
「おはよう、ドミティッラ。ヴァレリウス殿下も、ご機嫌麗しゅう……とは言えないお顔色ですね」
ヴァレリウス殿下は、目の下に濃いクマを作りながら、私とシルウァヌス伯爵を見上げた。
「フラミニア嬢……。兄上が、蛍光ピンクの服を着て森に入ると言い張って聞かないんだ。あんな目立つ格好、魔獣に『私を食べてください』と宣伝して歩くようなものだ。しかも、護衛の騎士にまで『殺気立つから剣を置いていけ』と命令している……」
「ヴァレリウス様、どうか落ち着いて。深呼吸ですわ。吸って、吐いて……」
ドミティッラが懸命に彼の背中をさすっている。ヴァレリウス殿下は妹の優しさに触れて一瞬だけ表情を和らげたものの、再び頭を抱えた。
「……今回の狩猟大会の予算編成と安全管理の責任者は、私なんだぞ。もし兄上が魔獣の餌食になったら、私が『兄殺し』の汚名を着せられてしまう……!」
「ご安心ください、ヴァレリウス殿下」
私は馬から優雅に降り、心配性の第二王子に向かって毅然と微笑んだ。
「ティベリウス将軍には、すでに我がクインティリウス公爵家から『特別任務』の通達を出しております。デキムス殿下の周囲には、姿を消す魔法をかけた精鋭部隊を二十名、常に配置させてありますわ。殿下が魔獣に食べられそうになったら、瞬時に魔獣の方を物理的に排除する手はずです」
「……っ! さ、さすがはフラミニア嬢だ……! ありがとう、これで私の胃に穴が空かずに済む……!」
「お姉様、すごいです! まるで女神様のようですわ!」
ドミティッラが尊敬の眼差しを向け、ヴァレリウス殿下が拝むように私を見る。
ふふふ、ちょろいものである。これでまた、王家に対する私の「貸し」が一つ増えた。
「さあ、殿下方は本陣でごゆっくりお過ごしください。私は、あのアホ……ゲフン、好奇心旺盛な第一王子殿下の無事を見守るため、少しばかり森の入り口を散策してまいりますわ」
「頼む、フラミニア嬢。何かあればすぐ知らせてくれ」
深く頭を下げるヴァレリウス殿下たちと別れ、私は再び馬上の人となった。
隣でその一部始終を見ていたシルウァヌス伯爵が、馬を並べながら低く笑う。
「見事な手腕ですね。裏で部隊を手配しておきながら、表向きは『献身的な婚約者』を見事に演じきっている」
「あら、私はいつだって献身的ですわよ? 『私が自由を謳歌するために』、彼の生存は不可欠ですからね」
狩猟開始の角笛が、高らかに森に鳴り響いた。
デキムス殿下が「待っていろ、森の仲間たちよー!」という奇声と共に、ハチミツ塗れのキャベツを積んだ荷馬車を引いて森へ突撃していく。その後を、透明化の魔法をかけられて虚無の表情になった精鋭騎士たちが、足音を殺して追いかけていった。
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それから一時間後。
本陣の天幕は、貴婦人たちの優雅なティーパーティーの場と化していた。
男たちが森で獲物を追っている間、残された女性たちはここでお茶を飲みながら、ドレスの流行や最近のゴシップに花を咲かせるのだ。
私は、公爵令嬢というトップカーストの地位を最大限に利用し、他の令嬢たちに完璧な笑顔を振りまきながら、適当に相槌を打っていた。
「まあ、フラミニア様。今日の乗馬服、とてもよくお似合いですわ。ボルドー色は今年の秋の流行色ですものね」
「ありがとうございます、カッシア侯爵令嬢。貴女のそのエメラルドのブローチも、瞳の色に合っていてとても素敵ですわ」
社交辞令の応酬。一見華やかだが、中身は空っぽの会話。
前世の職場で、興味もない上司のゴルフの話に一時間付き合わされた時のことを思い出す。私は紅茶を飲みながら、内心で激しく退屈していた。
早く、あの抜け目ない「氷の伯爵」と、毒のある会話を楽しみたい。
そんな私の心の声が天に通じたのか、本陣の入り口が俄かに騒がしくなった。
「で、伝令ーっ!!」
泥だらけになった若い騎士が、転がるように天幕に飛び込んできた。
「報告します! デキムス第一王子殿下が……北の谷で、凶悪な『イグニス・ボア(火炎猪)』と遭遇されました!!」




