知力1の婚約者が歴史的遺物に餌付けをしている間、
王宮の朝は、小鳥のさえずりと共に優雅に始まる。……というのが、一般的な貴族令嬢の抱く幻想である。
実際のところ、王宮とは欲望と権力と陰謀が渦巻く伏魔殿であり、気を抜けば一瞬にして足元をすくわれるスリリングな戦場だ。前世でブラック企業の営業職として、理不尽なクレームと上司のパワハラを笑顔で躱し続けてきた私にとって、貴族社会の腹の探り合いなど、むしろ分かりやすいボードゲームのようなものであった。
そう、ルールさえ理解していれば、ある程度はどうにでもなる。
しかし、この世界にはたった一つ、いかなる法則も常識も通用しない「アホ」が存在していた。
「おお、フラミニア! 今日も君の髪は、まるで茹でたての極上パスタのように輝いているな!」
王宮の白亜の回廊。朝の心地よい日差しが差し込む中、私の婚約者であるデキムス・アウレリウス第一王子殿下は、今日も絶好調に頭のネジが数本――いや、全て吹き飛んでいた。
プラチナブロンドの髪を「茹でたてのパスタ」に例えるその絶望的な語彙力に、私は笑顔のままこめかみに青筋を立てるのを必死に堪えた。美しい顔面から放たれる言葉のすべてが、私の精神をゴリゴリと削っていく。
「……おはようございます、デキムス殿下。殿下の例えは、今日も大変ユニークでいらっしゃいますね」
「うむ! 私は常に斬新な視点を持つよう心がけているのだ! ところでフラミニア、見てくれ。素晴らしいアイデアを思いついて、早速実行しているところなのだ!」
デキムス殿下がマントを翻して指差した先には、王宮の回廊に飾られている国宝級の「初代国王の甲冑」があった。
重厚なミスリル銀で打たれたその甲冑は、建国祭の時のみ儀礼的に使用される、歴史的かつ魔術的にも極めて価値の高い代物である。
その神聖なる甲冑の、開いた面頬の部分に向かって、デキムス殿下は……何かを、必死に詰め込んでいた。
「……殿下。恐れながら、何をなさっているのでしょうか?」
「うむ! この甲冑は卓越した防御力を誇るが、自ら動くことができないだろう? そこで私は考えたのだ。この甲冑に『上質な鉄鉱石』と『魔力回復ポーション』を与えて育てれば、やがて自我を持ち、自律歩行する無敵のゴーレム兵士になるのではないかと!」
ポロリ、と。甲冑の隙間から、砕かれた高価な鉄鉱石の欠片が床に落ちた。
見れば、甲冑の内部はドロドロの青い液体(おそらく最高級のポーション)で水浸しになり、鉄鉱石の粉末がこびりついて大惨事になっている。
少し離れた柱の陰では、近衛騎士団の副団長である屈強な男が、膝から崩れ落ちて音のない涙を流していた。国宝が、アホの思いつきによって物理的かつ絶望的に汚染されていくのを止める権限が、彼にはないのだ。
「どうだフラミニア! これが成功すれば、我が国の軍事力は飛躍的に向上するぞ! さあ、いっぱい食べるのだ、鉄の戦士よ!」
「…………左様でございますね、殿下。きっと甲冑も、殿下の海より深い慈愛に感動の涙を流していることでしょう。ですが、消化不良を起こしてはいけませんので、お食事はその辺りになさってはいかがでしょうか」
私は扇子で口元を隠し、完璧な令嬢の微笑みを張り付けたまま、冷徹な事務処理能力を発揮した。
視線だけで近衛騎士に「後で公爵家から国庫へ修繕費を寄付します。今は清掃部隊を」と合図を送る。近衛騎士は深い感謝と絶望が入り混じった顔で、深く頷いた。
慣れたものである。この十五年間、私はこうして彼の奇行による損害を、公爵家の財力と私の根回しでカバーし続けてきたのだから。
「お姉様! それに、デキムス殿下!」
その時、回廊の向こうから、一輪の白百合が咲いたような清らかな声が響いた。
私の最愛の妹、ドミティッラである。淡いピンクのドレスに身を包んだ彼女は、今日も見事なまでに愛らしく、周囲の空気を浄化するようなオーラを放っている。
そして彼女の隣には、書類の束を抱え、すでに眉間に深い皺を刻んでいる十五歳の少年――第二王子のヴァレリウス殿下の姿があった。
「おお、ドミティッラにヴァレリウスではないか! 二人も私の新兵器開発を見学に来たのか?」
「……兄上。法務局へ向かう途中に、近衛兵が泣きながら廊下を走っていくのを見たので嫌な予感はしていましたが……また国宝に何をしているのですか」
黒髪に切れ長の目を持つヴァレリウス殿下は、ドロドロになった初代国王の甲冑を見るなり、深い、深いため息を吐いた。その年齢にそぐわない疲労困憊した様子は、前世で月末の決算期を迎えた経理部長の姿と完全に重なる。
「何をしているとは心外な! 私はこの国の未来のために、甲冑を育てているのだ!」
「甲冑は育ちません。生き物ではないので。……事後処理は私が手配します。兄上は今すぐ自室にお戻りになり、家庭教師が出した『地政学』の課題を終わらせてください。昨日もつまずいていたでしょう」
「なっ、なんだと!? 難易度が高すぎるのだ! あれは哲学的に説明できる者がいるというのか!?」
「いいから戻ってください。これ以上、私の胃に穴を開けないでいただきたい……」
ヴァレリウス殿下が頭痛を堪えるようにこめかみを押さえると、すかさずドミティッラが彼に寄り添い、その背中を優しく撫でた。
「ヴァレリウス様、無理をなさらないで。……お姉様も、いつも本当にご苦労様です。お姉様のように寛大で賢い方でなければ、デキムス殿下をお支えすることはできませんわ」
ドミティッラは私に、心底同情するような、そして尊敬するような眼差しを向けてくる。
なんていい子なのだろう。彼女は裏表なく、本気で私を「愚かな婚約者を支える悲劇の聖女」だと思っているのだ。ヴァレリウス殿下もまた、私に対しては「兄の暴走の被害者同盟」としての強い連帯感と申し訳なさを持っているらしい。
「ありがとう、ドミティッラ。でも大丈夫よ。殿下の無邪気な好奇心は、時として国宝を犠牲にしますが、その分、私がしっかり手綱を握りますから」
「フラミニア嬢……。いつも兄の尻拭いをさせて申し訳ない。貴女には、いつか必ず報いると約束しよう」
私は伏し目がちに微笑み、淑女の鑑のように振る舞った。
ふふふ。笑いが止まらない。
この「被害者ポジション」こそが、私にとって最強の隠れ蓑なのだ。周囲が私を哀れみ、同情してくれればくれるほど、私の自由度は増していく。王室に貸しを作っておけば、将来私が多少の「やんちゃ」をしても、誰も文句は言えまい。
「さあ、殿下。哲学的な探求のお時間ですわ。お部屋に戻りましょう」
「う、うむ……。フラミニアがそう言うなら仕方ない。待っていろよ鉄の戦士! 明日には極上のステーキを持ってきてやるからな!」
「(絶対に甲冑の周りに近衛兵を十人配置しよう……)」




