其ノ捌拾壱
薫風の候。葉桜の瑞々しい時節。
華夜理は寝床で髪を掻き上げようとして、もうその髪がないことを思い出した。短く肩上で切り揃えてもらった髪型に、まだ慣れない。するり、と撫でようとしたら尻尾の感触だけを残して去ってしまう猫の手触りを思い起こさせた。
汗ばんだ首筋を一撫ですると、華夜理は涼しげな藍の着物に着替えた。白銀色の帯に、一筋の黄色い帯締めを合わせ、菊を象った硝子の帯留めをする。
それから付書院の上に手を彷徨わせ、結局いつもの『銀河鉄道の夜』を選ぶ。華夜理がこの本を選ぶ頻度は他の本に比べて非常に高かった。
ステンドグラスの電気スタンドを明かり障子の前に持ってきて、ページをめくる。
「ああせいせいした。どうもからだにちょうど合うほどかせいでいるくらい、いいことはありませんな」
朗読してみて、その台詞が可笑しくてくすくす笑う。叔母たちを思い出したのだ。華夜理が入院した時、また、救急車で病院に担ぎ込まれた時、晶も月島夫妻も、栄子たちには一切連絡しなかった。知れば華夜理の遺産に目の色を変えると知ってのことだ。案の定、華夜理が快復し、退院してからそのことを知らされた栄子はなぜ自分に知らせなかったと晶や月島夫妻に噛みついたと言う。
「叔母さんたちに聴かせてあげたい台詞だわ」
華夜理は笑いながら読み進める。
もうすぐ朝食の時間だ。華夜理は本を閉じて元の場所に戻すと、座敷に向かった。
「おはよう、華夜理」
「おはよう、晶、瑞穂さん」
「おはよう、華夜理さん」
瑞穂と晶と三人で囲む食卓にもすっかり慣れた。
瑞穂は浅葱とその後も順調なようで、華夜理はそのことを喜ばしく思っていた。
子持ちししゃもに冷奴、茄子の味噌汁にもずくと食事内容も夏らしくなってきた。
瑞穂も晶も制服は夏服になっている。瑞穂は晶と華夜理の関係の変化に敏感に気付いているらしいが、口に出して何か言うことはない。元々、そういう少女ではないのだ。
「じゃあ、行ってきます」
瑞穂がこうした挨拶を自然にするようになったのも、嬉しい変化だ。
華夜理が洗い物をしている間に晶は新聞を読んで、時間になると彼も登校した。
いつも通りに。
いつも通りに、華夜理も見送った。
華夜理や晶の変化に一番の驚きを見せたのは暁子だ。
華夜理が入院している間、暁子は何度か見舞いに行った。
華夜理は言葉少なに、晶と気持ちの確認をし合ったと言っただけだったが、長かった黒髪が短くなったことも相まって、暁子には驚きの連続だった。若い子たちの気持ちの変化とはどう転ぶか解らない、と思い、けれど華夜理が幸せそうなので結果的には良かったものと受け留めていた。
「晶君は来年、受験でしょう。どうするんですか?」
勉強の合間に、老婆心でついつい要らないことを訊いてしまう。暁子は華夜理の家庭教師なのだ。
「商業に強い大学に進みたいって言ってました。イベンターになりたいって」
「それは意外ですね」
晶ならばもっと堅実な、固い職種を希望するかと暁子は思ったのだ。
すると華夜理がはにかむように笑う。
「将来的にはアートアクアリウムのイベントを、手掛けるんですって」
アートアクアリウム。晶との約束の。暁子はそう聴かされていた。だがまさか本当に、実現に向けて動き出す積りだったとは。何とはなしに暁子は盛大で壮大なのろけを聴いた気がした。
今日も蝉の声が聴こえる。
華夜理は勉強部屋の窓を見た。部屋には空調が効いているので窓は閉まっているが樹影は見える。
華夜理が退院して以来、浅羽の夜の訪れは途絶えた。華夜理が彼に晶への想いを語った為だ。意外にも浅羽は、やっと気付いたのか、この親指姫、と笑っていた。彼の芯の強さを見た気がした。
華夜理が最後まで気に掛けていた龍の脚だが、晶があとから桜子によく話を聴けば、不全麻痺であるので、快復の見込みもあるのだそうだ。桜子も気が動転していたのだろう。落ち着いてからは自分から晶に連絡してそのことを告げ、華夜理に乱暴したことを詫びておいてくれと言っていたそうだ。それを知った華夜理は晶の肩に顔を埋めて喜びを噛み締めた。その時初めて、晶は華夜理に唇を許された。一対の桜貝は晶に至福をもたらした。
暁子は樹影に目を奪われている華夜理を見る。
変わった、と思う。
以前のような、物知らずで憶病なだけのお嬢様ではない。暁子は彼女を庇護してやりたかったが、華夜理は暁子の手の届かない、与り知らないところで様々な経験を積み、成長したようだ。
美しく品良く飾られた小箱のようなこの邸宅の中でも、彼女は変貌を遂げてみせた。女主の成長で、邸宅はより一層、格調高くなった気がする。
暁子の思惑を察したかのように、華夜理がふっと微笑んだ。
良かった。
暁子は心から思った。
聴けば華夜理の記憶の混乱も入院以来、見られないと言う。
暁子もまた華夜理と同じ、窓を見た。同じ空を見た。
どこまでも自由に広がる、蒼穹を。
礼装の小箱より愛を籠めて。
<完>
ここまでお読みくださり、華夜理と晶たちの行く末を見守ってくださった皆さまに厚く御礼申し上げます。