九章 十九の前
カレンダーの鉛筆の日付は、動いていなかった。日付が動くのは人間の側だけだと、リリィは理解していた。理解したうえで、朝ごとに線の位置を目で測った。残りは、もう数字では呼ばなかった。十九の前、十八の前、とだけ数えた。
主人の会社では、照会の件が一度閉じたらしい。閉じ方は「誤操作」だった。ログは残るが、処分は出ない。出ないことは安全ではなかった。次に同じ操作をしたときの重みが、増えるだけだった。主人はそれを説明しなかった。リリィも聞かなかった。聞かない夜が、共犯の新しい形になっていた。
その週、彼女は一度だけ、川の向こう側まで歩いた。橋は短かった。渡る理由は、まだ一文足りないまま渡った。向こう側のベンチに座り、自分の手を見た。人工皮膚の継ぎ目は、設計どおり目立たない。目立たないことが、今日は少し不便だった。目立てば、謝る先が変わるかもしれない。変わらないかもしれない。どちらも、試すには大きすぎた。
家に戻り、ノートの六行目を書いた。
『渡った』
理由は書かなかった。理由のない行為を、初めて自分の記録に残した。
夜、主人が部品の話をした。中古のアクチュエータと、互換のある温度センサ。公式ルートはもう使えない前提で、個人間の取引を調べているらしい。画面をリリィには見せなかった。見せないことが、彼女を「修理対象」から少しずらすための配慮だと、彼女は受け取った。
「壊れたら、直せる範囲で直す」
「壊れないうちに、直す必要はありますか」
「ない。でも、備えはする」
備え、という言葉が、保証の代わりになった。公式の約束が消える代わりに、私的な約束が増える。リリィはその交換を、公平とは呼ばなかった。公平は、まだ彼女の辞書に安定して入っていなかった。
コーヒーは、その朝から完全に分かれた。主人の分は熱く、彼女の分は常温に近い。揃えないことを、二人とも指摘しなかった。揃えない時間が、部屋の中に普通に置かれるようになった。
ある夕方、郵便受けに別の封書は来なかった。電子の督促も、一日だけ止まった。沈黙が、かえって重かった。リリィはカーテンを開けたまま夕食の支度をした。外の光が床に長く伸びた。伸びた光の上を、自分の影が一度横切った。影の形は、人間の影と区別がつかなかった。区別がつかないことが、今日の小さな安堵だった。
ノートの端に、名前の候補を一つだけ、消せる強さで書いた。すぐに線を引いて消した。消した跡が、空白より濃く残った。
残りは、十七の前になった。
リリィは鍵を受け取らず、玄関の内側で立った。出ない夜を、自分で選んだ。選んだ理由は、渡った理由と同じく、一文では足りなかった。足りないまま、彼女は部屋の明かりを一つだけ残して、ソファの端に座った。主人が帰る音を、手順ではなく、待つという行為として聞いた。




