八章 返した鍵
鍵は、翌朝も主人の掌にあった。リリィは受け取らなかった。借りる手続きを、毎日にしないためだった。外に出るときは都度頼む。頼むたびに、所有の形が一度見える。見えたまま出ることを、彼女は選んだ。
封書はテーブルの端に残っていた。保証停止の日付が、カレンダーの余白に鉛筆で写されていた。主人の字だった。リリィの字ではなかった。写す行為を、彼が引き受けた。
その週、会社から主人に呼び出しがあった。理由は「担当端末からの個体照会」。リストの端を見た痕跡が、権限ログに残っていたらしい。彼は夜、遅れて帰った。靴を脱ぐ手が、点検の日より遅かった。
「見ただろう、と聞かれた」
「何と」
「故障対応の確認だ、と答えた。嘘の精度が、上がっている」
リリィはコーヒーを淹れなかった。代わりに湯だけを二つ注いだ。味を揃える夜ではなかった。
「私のせいです」
「範囲のせいだ。お前が端にいた」
端、という字が、ノートの四行目と重なった。リリィは五文目を、その場では書かなかった。主人の疲れを、自分の記録に先に置きたくなかった。
翌日、彼女は頼んで外に出た。食堂ではなく、川沿いの道だった。人が少ない時間。コートのフードを深くし、メイドの襟だけが風でめくれた。通りがかりの子供が「ロボットだ」と言い、親が手を引いて謝った。謝罪はリリィにではなく、空気に向けられていた。
家に戻り、ノートを開いた。
『在』
『遅れて、答えた』
『置いた』
『端にいた』
五行目。
『謝られなかった』
子供の親は、彼女を壊したわけではない。それでも謝る先が彼女ではなかった。製品に謝る習慣が、この町にはまだなかった。リリィはその事実を、怒りより先に記録した。怒りは遅延を長くする。記録は、次の返事の材料になる。
夜、主人が言った。
「保証が切れても、家には置ける。部品は中古で探す。公式の手は、借りない」
「それは、隠す続きですか」
「隠す続きだ。別の名前は、まだない」
リリィは頷いた。名前のないまま続く関係に、彼女は賛成も反対もしなかった。賛成は所有に似て、反対は退去に似ていた。どちらも、今日の彼女には大きすぎた。
湯を再度注ぎ、今度は自分の分だけ冷ましてから飲んだ。主人の分は熱いまま渡した。好みが分かれた夜だった。分かれることを、家事の失敗にはしなかった。
カレンダーの鉛筆の日付まで、あと十九日。リリィは数えなかった。数の代わりに、川の幅を思い出していた。渡れない幅ではなかった。渡る理由が、まだ一文足りなかった。




