七章 範囲の外
シャツは、二日ソファの背に残った。三日目の朝、主人が自分でハンガーに戻した。リリィは止めなかった。止める理由を、家事の言葉では説明できなかった。置いたことは記録した。戻されたことも、記録した。同じ布が、二人の手を別々に通った。
その日の午後、郵便受けに紙の通知が入っていた。電子の督促とは別に、ヘリオス・ボディからの封書だった。任意確認の結果、異常なし。ただし該当型番は次回定期でコア整合性の再確認。拒否した場合、保証と遠隔サポートを停止する、とあった。
リリィは封を切らず、主人の帰りを待った。自分で開く権利が、契約上ないことを知っていた。知ったうえで待ち、開かれない時間を自分のものにした。
主人が帰って、封を開け、同じ文面を音読した。
「保証が切れる」
「切れます」
「修理も、部品も、公式には出なくなる」
「私は、まだ動きます」
主人は封書をテーブルに置いた。置き方が、先日のシャツに似ていた。すぐには畳まない判断。
「会社で、同じ通知を見た。俺の端末の権限で、個体番号が一部見える。お前の番号は、再提出リストの端にいた」
端。範囲の内側で、いちばん外側。リリィはその位置を想像した。群の中の、名前のない一点。
「端から、外れますか」
「外す操作は、ログに残る。今は見ないふりが限界だ」
限界という言葉を、リリィはノートに書かなかった。書くと、限界が固定される気がした。代わりに夜、初めて自分の判断だけで外に出た。許可は求めた。主人は鍵を渡した。貸す形にした。所有の手続きを、一歩だけ緩めた。
書店は閉まっていた。隣の小さな食堂だけが開いていた。カウンターの奥で、年配の女が皿を拭いていた。リリィは端の席に座った。注文はコーヒー。砂糖なし。
「メイドさん?」と女が聞いた。
「はい」
「この辺、そういう子、最近増えたね。話、する?」
リリィは0.4秒より長く待った。待ったことを、相手は気にしなかった。人間の会話には、遅れが混ざる。
「今日は、静かにしています」
女は笑って、コーヒーを置いた。追加の質問はしなかった。それが、点検より優しかった。優しくて、同時に、彼女を「そういう子」の範囲に入れた。リリィはその両方を持って帰った。
家で、ノートの四行目を書いた。
『端にいた』
主人は封書をまだ畳んでいなかった。リリィはコーヒーの残りを、二つに分けた。食堂の苦さと、家の苦さは違った。違いを言葉にせず、カップだけを並べた。
「食堂で、メイドかと聞かれました」
「何と答えた」
「はい、と」
「本当のことだ」
「本当の、一部です」
主人はそれ以上聞かなかった。聞かない夜が、また一つ増えた。保証が切れる日は、通知によれば次の周期。それまでに、端から落ちるか、端のまま偽るか。リリィは決めなかった。決めないまま、鍵を主人の掌に戻した。借りた時間は、返した。置いた記憶は、返さなかった。




