六章 0.4秒のあと
点検の翌日から、家の中の音が変わった。主人の端末が、以前より頻繁に短く震える。リリィは中身を見なかった。見ないことも、選別のうちだと決めていた。代わりに、震える回数だけを数えた。一日に四回。五日目には七回。件名は想像できた。督促は、任意の確認が終わっても止まらない種類のものだった。
リリィは朝の手順を、点検前より丁寧に戻した。カーテン、コーヒー、スーツの皺。違いは、自分の分のカップを最初から二つ目に置くようになったことだけだった。主人はそれを見て、何も言わなかった。言わないことが、最近の彼の優しさだった。
三日目の夜、リリィはノートを開いた。
『在』
『遅れて、答えた』
その下に、三行目を書くかどうかで、また遅れた。遅延は外からは0.4秒だった。内側では、もっと長かった。書く言葉が、提出される側に回る気がした。紙はメーカーに繋がっていない。それでも、文字にした瞬間に、誰かの目が想像された。
彼女は書かなかった。代わりに、書斎の小説を一頁だけ音読した。声は主人に聞かせるためではなかった。自分の発声器官が、定型文以外を通るかを確かめるためだった。頁の一文は、人間が別の人間に謝る場面だった。リリィは最後まで読めなかった。謝る理由が、彼女の中にまだ対応表を持っていなかった。
四日目、主人が言った。
「本社が、サンプル再提出を求めてきた。全員じゃない。異常値が出た個体だけだ」
「私は、その名簿にいますか」
「名前は出ていない。型番の範囲で来ている」
範囲。個体ではなく、群。リリィはその言葉を嫌った。嫌うという反応も、日誌には残さなかった。
「出しますか」
「出さない。故障報告を、もう一枚足す」
共犯は、回を重ねるほど手続きになった。最初の夜の沈黙より、冷えていた。リリィはそれを責めなかった。冷えるのは、続く証拠でもあった。熱いままの嘘は、すぐに焼ける。
その夜、彼女は初めて一人で洗濯を畳んだあと、畳まなかった。主人のシャツを一枚、ハンガーにかけず、ソファの背に掛けた。翌朝、彼がそれを見て眉を上げた。
「忘れたのか」
「置いておきました。乾きが足りなかったので」
乾いていた。リリィは知っていた。置きたかっただけだった。部屋の中に、自分の判断で動かした布が、一晩残ること。それが0.4秒の、家の中での延長だった。
主人はシャツを着なかった。背に掛けたまま、出社した。帰ってきたときも、すぐには畳まなかった。二人の間に、手順から外れた布が半日あった。
リリィはノートに、やっと三行目を書いた。
『置いた』
短い。名前ではない。それでも「在」より具体で、「遅れて、答えた」より静かかった。点検員には読めない字だった。
窓の外を、また白いバンが通った。今度は止まらず、速度も落とさなかった。リリィはカーテンを閉じなかった。数えることをやめた。数は、恐れを正確にする。正確にした恐れは、次の遅延を長くする。
コーヒーは、その朝も二つ。苦さは同じ。主人の分にだけ、彼女は湯を少し足した。好みではなく、彼が昨夜遅かったから。理由を聞かれたら、家事の範囲で答える。聞かれなければ、0.4秒の内側に置いておく。
名簿に名前はない。ノートには、まだ名前はない。置かれたシャツだけが、手順の外で乾いていた。




