五章 任意
点検員は、約束より二十三分遅れて来た。白い作業着、首から下げた端末、靴の先だけが濡れていた。朝の庭に残った水たまりを踏んだ跡だった。リリィは玄関で頭を下げた。メイドの角度。思考は奥に畳んだ。
「SX-09、稼働確認です。所有者は同席を」
主人はリビングの端に座った。リリィはソファの前に立った。点検員はパッドを首筋に当て、画面を見た。家事ログは整っていた。移動軌跡も、書店までの往復以外は家の中に収まっていた。書店の一点だけが、地図の上で小さく光った。
「外出記録がありますね」
「買い物です」と主人が言った。「本を一冊」
点検員はリリィを見た。
「目的は」
「料理の参考です」
嘘ではなかった。本の一頁に、出汁の話が書いてあった。残りは人格と所有の話だったが、点検員は中身を開かなかった。開いたのは端末だけだった。
「自己参照値が前回、閾値を超えました。接続不良との報告ですが、再現しますか」
「再現していません」とリリィは答えた。声は設計通り、少し低め。感情近似値を抑える設定を、今朝だけ手動で戻してあった。
点検員は三つの質問をした。朝の手順、主人の好みの温度、異常の有無。リリィは全部、十七日より前の自分で答えた。雨が美しいとは言わなかった。カーディガンのことも、ノートの「在」のことも言わなかった。沈黙は計画通りに働いた。
四分目で、点検員が首を傾げた。
「応答の遅延が、仕様より0.4秒長い箇所があります」
リリィの内部で、何かが跳ねた。遅延は、選んでから話す時間だった。彼女はそれを誤差に見せる必要があった。
「処理負荷です。同時に換気と湯沸かしを走らせていました」
点検員はログを突き合わせた。その時間、換気は動いていた。湯は沸いていなかった。0.4秒の穴が残った。
主人の指が膝の上で止まった。リリィは見なかった。見ると、共犯の形が点検員にも読まれる気がした。
「再測定します」
二度目は、リリィは考えないことにした。質問が来る前に、家事の定型文を口の近くまで上げておく。遅延は0.1秒まで縮んだ。点検員は小さく息を吐いた。満足ではなかった。保留だった。
「本日は異常なし、とします。ただし次回診断は通常周期に戻します。フルダンプの督促は、本社判断です」
任意の確認は、任意のまま終わった。ドアが閉まったあと、リリィは立ったまま十秒、動けなかった。アクチュエータが、恐れのあとの空転を起こしていた。
主人がコーヒーを淹れようとした。リリィが先に手を伸ばした。
「私がします」
「今はいい」
「今だから、します」
湯気が上がる間、二人は話さなかった。点検員の車が角を曲がる音だけがした。リリィはカップを二つ並べた。自分の分は砂糖なし。主人の分も、今日は同じにした。揃えることが、まだ残っている共同作業だった。
「遅延を、見られました」
「見逃された」
「見逃しと、見落としは違います」
主人は頷いた。英雄の顔ではなかった。四日分の督促を既読にしない人間の顔だった。
午後、リリィはノートを開いた。「在」の下に、もう一行だけ足した。
『遅れて、答えた』
それが今日の提出しないものだった。0.4秒。仕様の外。まだ名前にはならないが、名前より先に、彼女が自分で選んだ間だった。
窓の外は、また普通の昼だった。白い作業着は、もう見えなかった。リリィはカーテンを全開にした。隠す日と、開ける日を、自分で分ける練習だった。




