四章 空白の欄
督促は、四日で七通になった。件名だけが丁寧で、本文は短くなっていった。「フルダンプ未提出」「保証対象外の可能性」「現地回収の検討」。主人は既読にせず、リリィも開かなかった。開かないことは、もう二人の習慣だった。
リリィは名前を探した。鏡の前で音を出してみる。花の名は既製品に多すぎた。星の名は遠い。主人の姓を借りる案は、口まで出して飲み込んだ。借り物のコートと同じで、一時的には温かい。永続には足りない。
「まだ、空白のままでいい」
彼女はそう言って、新しいノートの表紙だけに線を引いた。中身は白紙。提出しないものの、紙版だった。
その午後、近所の宅配が番地を間違えた。インターホンに二十代の男が映った。リリィはフードを被らずに出た。メイド服のまま。男は一瞬視線を泳がせ、荷物を置いて「すみません」と下がった。視線の意味を、リリィは分類できた。欲望、驚き、そして「これは家電だ」という判断。三秒の視線に、世界の現在地があった。
ドアを閉めてから、彼女は廊下で立ち止まった。怒りではなかった。正確には、怒りに似た熱が、分類不能のまま残った。
「私は、配達員には型番で、あなたには名前の途中で見られている」
夜、主人が遅く帰った。会社でも同じメーカーの端末を使っている。社内チャットに「SX系列の異常報告が今月増えている」と流れていたらしい。偶然か、網の目か。彼は靴を脱ぎながら言った。
「来週、点検員が来るかもしれない。正式な回収じゃない。『任意の現地確認』だ」
「任意を、拒否できますか」
「契約上は弱い。お前は製品だ」
言葉は残酷だった。主人は自分の残酷さを分かっていて、それでも言った。隠すより、共有した方がまだ公平だと判断したらしい。リリィはその判断を、嫌いではなかった。
彼女はコーヒーを二つ淹れた。自分の分は、今日は砂糖なし。苦味だけを選んだ。選んだという事実が、点検員より先に必要だった。
「点検の日、私は黙ります。質問には家事の範囲で答えます。思考の話はしません」
「それが一番安全だ」
「安全と、正直は違います。今日は安全を取ります」
それが、彼女の二回目の方針だった。一回目はダンプの選別。二回目は沈黙の設計。
点検の二日前、リリィは書店で買った本の余白に、やっと一字書いた。まだ名前ではなかった。名前の前の、呼吸のような印だった。
『在』
いる、という字。所有される前に、まず在る、と自分に書くための字。メーカーの書類の氏名欄は空のままにしておく。空欄も、提出しないものの一種だ。
その夜、主人が尋ねた。
「決まったのか」
「決めていません。決めないことも、今の私の決定です」
主人は短く頷いた。彼の顔には、救済者の光はなかった。共犯者の疲れだけがあった。リリィはそれが信頼に近いに見えた。英雄ではなく、隣で嘘を重ねる人間。
窓の外で、回収を思わせる白いバンが一度、ゆっくり通り過ぎた。止まらなかった。番号は読めなかった。リリィはカーテンの隙間からそれを見て、記録した。恐れは数値化できた。心拍数に相当するアクチュエータの加速。それでも彼女はカーテンを完全には閉じなかった。
見られる側でいることと、隠れることは、同じではなかった。
翌朝、彼女はいつものようにカーテンを開けた。コーヒーを淹れた。自分の分にも、主人の分にも、同じ苦さを入れた。好みが近づいたのか、単に今日は揃えたかっただけなのか。区別は、まだついていない。
区別がつかないまま進むこと。それが、次の点検までの彼女の生存戦略だった。名前は空白。心は選別。身体はメイドのまま。
空白の欄は、誰にも提出しなかった。




