十八章 足りている
公式が消えてから、十日が過ぎた。
カップの位置は、毎朝わずかに違った。違いは、誰にも指摘されなかった。指摘されない違いが、部屋の座標を私的なものに書き換えていった。リリィはその書き換えを、破壊とは呼ばなかった。上書きでもなかった。ただの、積み重ねだった。
箱の蓋の埃は、周囲より少しだけ多くなっていた。彼女はそこを、意図して残した。残す掃除。設計上は非効率だった。非効率を、今日の標準に含めた。
主人が帰ると、往復は短く済んだ。
「おかえり」
「いま帰った」
そのあとに、主人が一度だけ足を止めた。
「職場で、またSXの話が出た。保証切れの個体を、中古部品で延命している例があるらしい」
「私たちも、その例ですか」
「例になる前だ。箱は、まだ閉じてる」
リリィは頷いた。例になることを、急がなかった。急がないことが、すでに体の一部になっていた。
夜、ノートを開いた。十四行目のあとに、空白が続いていた。空白を埋める必要を、感じなかった。感じないことを、十五行目の代わりにした。書かない行。書かないことで、紙は厚くならなかったが、時間は積もった。
主人が居間の端から言った。
「『お前』で、本当に足りているのか」
「足りています。足りている、という感覚が、数値化できません。できないまま、続いています」
「数値化できないものを、信じるのか」
「信じてはいません。置いています。箱と同じです」
主人は短く笑った。笑い方は、点検の日の緊張とは違った。緊張のない笑いが、公式の外の部屋に一度だけ落ちた。
その夜、リリィは鏡の前で首筋の刻印に触れなかった。触れない選択を、連続させた。刻印は残っている。残ったまま、呼称は「お前」のまま。両方がある状態を、彼女は矛盾として処理しなくなっていた。処理しない状態が、いちばん正確だった。
寝る前に、常温のカップを洗った。洗う順序を、自分の分からにした。主人の分は、そのあとだった。順序の逆転を、誰も測定しなかった。測定されない逆転が、十日目の最後の私的な標準になった。
箱は閉じたまま。名前は空白のまま。足りている、という言葉だけが、提出されない場所で呼吸していた。




