第二話 大事件
その時だった。
「な、何をしている!!」
低く、凍りついた声が寝室に響いた。
そこに立っていたのは、イザベラの夫、ガベル大臣その人だった。仕事でユリスの元にいるはずの男が、なぜか今夜戻ってきていた。
現場は、言い訳の余地がなかった。
妻は大きく乱れたシーツの上で、他の男――しかも大神の孫であるルミエル――に抱き抱えられたまま、息も整えきれずにいる。肌は熱を帯び、部屋には甘い気配だけが充満していた。
大臣の顔から、血の気が引いた。
次の瞬間、怒りで真っ赤に染まる。
「貴様……ッ!!」
「やべぇ!!」
ルミエルは反射的に飛び退いた。衣をまとい翼を一瞬で大きく広げ、寝室の窓を突き破るようにして外へ飛び出す。
後ろから怒りに満ちた咆哮が追ってきた。
「逃げるなぁ!!ルミエル・バーガンディィィ!!」
大臣は完全に理性を失っていた。
ただでさえ、天界中の女性を食い散らかす貞操の悪い大神ユリスの孫。
我慢の限界をとうに超えていた。
ガベルは即座に神殿の外へ飛び出し、天界の軍勢を呼び集めた。
「全軍に告ぐ!
美の神ルミエル・バーガンディを直ちに捕獲せよ!
抵抗するなら、力ずくでも構わん!!」
怒号が夜の天界に響き渡る。
白い鎧をまとった天使の軍団が、次々と空へ舞い上がる。
ルミエルは風を切って飛びながら、思わず舌打ちした。
「マジかよ!!あのオッサン、なんで急に帰ってきたんだよ!」
ルミエルは必死に夜の空を飛び回る。
背後からは天界軍が追いかけてくる。かなりの数だった。
「おいおい! 捕獲っていうか、もう討伐じゃねぇか!」
やがて彼は、巨大な白い建造物——大神殿の中へと飛び込んだ。
無数の回廊が複雑に入り組む。普段からあまり立ち入らないルミエル。どこがどこだかわからなくなるほどの広さだった。
「くそ!どっちだよ、出口は!?」
必死に飛び回ったり、階段を上り下りする。
追っては大神殿の中にまで入り込んできていた。
一方その頃。大神ユリスの執務室。
ユリスは外から聞こえる騒がしさに眉をひそめた。
扉が静かに開き、秘書のトレイルが入ってくる。
「ユリス様。」
「ど、どうした、トレイル。外が騒がしいが...」
トレイルは一礼し、冷静に報告を始めた。
「……ルミエル様が、ガベル大臣の奥様、イザベラ様を娶りました。
現在、この大神殿内を逃亡中とのことです。」
ユリスはゆっくりと目を閉じ、額に手を当てた。
深い、長いため息が執務室に漏れる。
ルミエルを追う軍勢は、時間とともに膨れ上がっていった。
初めこそ、大臣の怒りに応じた一般兵たちだけだった。
しかし、夜の天界に『美の神が大臣の妻を寝取った』という噂が広がるや否や、状況は一変する。
日頃からルミエルの奔放さに鬱憤を溜めていた者たちが、次々と動き出したのだ。
他の部隊が合流し、ついには神々までもが出撃する始末だった。
「今日こそはルミエルに反省してもらうぞ!!」
力強い声が空に響く。
現れたのは、勝利の神ガブライン・ヴァルハラント。
常に真面目で、誰よりも正義感の強い男神だ。
大きな剣を片手に、自ら軍勢を率いて羽ばたいてくる。
「美の神であろうと看過できん!神としての品位を疑うぞ!」
さらに別の方角から、鋭い声が飛び込む。
「あの変態神め!!首を洗って待ってなさい!
ユリス様の孫だからって、手加減しないよ!!」
現れたのは、勇気の神フレア・ソルティア。
ボーイッシュな短い髪に、軽装の戦闘服を纏った女性の神だ。
彼女の怒りは、単なる正義感ではなかった。
かつて何度か、湯浴み姿をルミエルに覗かれた過去がある。
そのたびに逃げられ、苦情を言っても笑って誤魔化されるだけ。
積もり積もった鬱憤が、今夜ついに爆発したのだ。
「捕まえたら、しばらくはりつけだ!」
その目には、もう容赦の色などなかった。
ルミエルは大神殿の複雑な回廊を走り回り、ふと目に入った一つの扉に飛びついた。
「ここが開いてる!」
勢いよく中に入り、重い鍵をかけ、さらに神聖力で扉を固めバリケードを築いた。
「はぁ……はぁ……とりあえず、これで……」
外では、すでに追手が到着していた。
ガベル大臣の率いる軍勢に加え、ガブラインの部隊、そしてフレアの軍団までが、扉の前に押し寄せている。
「中にいるのは間違いない! 開け!!」
「力ずくだ! ぶち破れ!!」
ガブラインが剣の柄で扉を叩き、フレアもこじ開けようとする。
兵士たちが肩を寄せ合って体当たりを繰り返すも、ルミエルが内側から固めた扉はびくともしない。
ガブライン「くっ!神聖力で固めているな。ルミエル...相変わらず力だけは確かだ!」
フレア「その力をもう少し天界のために使ってほしいよ!!」
一方、部屋の中。
ルミエルは警戒を解かず、ゆっくりと奥へと進む。
思った以上に広い空間だった。
「へ〜。この部屋……なんの場所だっけ?」
呟きながらさらに奥へ。
やがて、部屋の中央付近に小さな噴水池が現れた。
大庭園のあの広大なものほどではないが、澄んだ水の池がある。
ルミエルは興味深そうに覗き込んだ。
水面には、はっきりと下界の様子が映し出されている。
「へ〜。ここからも見れたのか……」
彼は少し身を乗り出し、水面を見つめた。
外では、扉を開けようとする激しい音が止まなかった。
すると、焦りに駆られた声が。
「お、おい! やめないか!」
慌てた足音とともに、大神ユリスが現れた。
隣には、トレイル・ノクティスが。
「ユリス様!」
ガブラインが剣を下ろし、フレアも剣を構えたまま振り返る。
「今日こそは許せません!ルミエルの行いは目に余ります!」ガブラインが真っ向から抗議する。
「そうです!我が神殿の女性天使にも多くの被害があります!今夜の件に関しても!もう限界です!
ユリス様の孫だからって、いつまでも黙っていられません!」フレアも負けじと声を上げる。
ユリスは深く頭を下げた。
「……すまない。孫の不貞、私が詫びる。本当に申し訳ないことをした。」
その誠実な態度に、流石の一同も一瞬言葉を失う。
ユリスはすぐに顔を上げ、強い口調で続けた。
「しかし、この部屋だけはやめてくれ。力ずくで開けるのは止めてほしい」
「……訳を聞かせていただきます」
ガブラインが静かに、しかし厳しく尋ねる。
ユリスは頷き、扉に手をかざした。
「この部屋には、『転生の池』と呼ばれるものがある」
ユリスは扉に手をかけながら、神聖力で扉の固定を解いていきながら、ゆっくりと説明を始めた。
「下界で不運な死を遂げ、徳を積んだ選ばれし人間の魂のみが、その池を通ることを許される。
そして産まれてくる別の赤子に宿り、新たな人生を送る。
そんな特別な池が、この部屋の中にあるのだ。」
神々の間に、驚きが広がった。
初めて知る事実だった。
「しかし、ここ1000年程、その池を通る魂は現れていない。それだけ...人類の質は落ちているということかもしれん。」
その話を聞いたカブラインは「確かに...下界の環境を破壊するのは、人類そのものですからな。」と。
フレアが「いっそ転生の池など無くしてしまっては?」と。
秘書のトレイルが冷静にそれを否定する。
「それはできません。転生の池は、神々が触れることの許されない水で作られた池です。
もし、少しでも水に触れたり、万が一、中に落ちでもしたら……」
ガブラインとフレアが、思わず息を呑む。
「その神は、消滅します。なくそうにも...ユリス様ですら手に負えないのです。」
転生の池の部屋の中。
ルミエルは小さな池の縁にしゃがみ込み、水面に映る下界の様子をぼんやりと眺めていた。
つい気を抜いてしまう。
そのとき
重い扉が、音を立てて開いた。
「げっ!」
ルミエルは反射的に飛び上がる。
先に入ってきたのは、大神ユリスだった。
後ろからトレイル、ガブライン、フレア、ガベル大臣、そして多数の兵士たちが一気に押し寄せてくる。
「ルミエル!」
ユリスの声が、部屋に大きく響いた。
「お、お爺様!!」
ルミエルは慌てて後ろへ下がる。
バランスを崩した。
「あっ...」
次の瞬間、彼の身体が勢いよくうしろへ傾く。
純白の翼がばたつき、手が空を切る。
そして——
水音。
ルミエルの姿が、転生の池の中へと飲み込まれた。
「……」
一瞬、誰も声を出せなかった。
水面が激しく波打ち、泡が立つ。
ルミエルの姿は、どこにも見えなかった。
「ルミエル!!!!!!」
ユリスの絶叫が、部屋中に轟いた。顔から見る見る血の気が失われていく。
ガブラインが目を見開き、フレアが口を手で覆う。
ガベル大臣も、兵士たちも、ただ立ち尽くしていた。
転生の池に、神が落ちた。
誰もが知っていた。
それが、何を意味するのかを。
ルミエルの身体は、勢いよく水中へ沈んでいった。
「な、なんだこれ!?!?」
冷たいはずの水が、妙に重く、粘つくように全身に絡みついてくる。
大庭園の池には、下界を訪れるために何度か入ったことがある。
あのときはただ、光に包まれて穏やかに下界へと運ばれるだけだった。
だが、この池は違う。
水が肺に流れ込んでくるような圧迫感。
呼吸ができない。
翼を動かそうとしても、まるで見えない力に縛られているように、思うように動かない。
「くっ……これ……普通の……池じゃ……」
意識が、急速に遠のいていく。
美しい顔が苦痛に歪む。
息苦しい。頭が重い。
身体の力が、徐々に抜けていく。
(お、俺...死んじまうのか?神の...俺が...)
最後にそんな言葉が脳裏をよぎった瞬間、
ルミエルの意識は、完全に闇の中へと落ちていった。




