21
足音を聞いた気がして私はゆっくり目を開けた。
男物の革靴の音。ゆったりとしていて響きに威厳がある。間違いない。前橋だ。
「お目覚めですか、会長」
起きぬけでぼやけた老眼ではその表情までは読み取れないが傍らに立った前橋が私を見下ろしているのが分かる。
私は唸り声とも嘆息ともつかない声で応じた。喉が乾いて何かがひっかかっているような感じがする。
水を飲みたい。横になったまま水差しを目で探す。
私の考えを敏感に察知して前橋が水差しを持ち私の顔に近づける。どうぞ、と言うのは前橋が持ったままの水差しに口をつけて飲めということか。
サッと顔が赤らむのを感じた。
これは何だろう。敵に介助される辱めを受けたような気分なのだろうか。それともただ単に自分とさほど年齢の違わない爺の染みの浮かんだ手で水を飲まされるのが耐えられないということかもしれない。
とにかく私は反射的に前橋の手から水差しを奪おうとした。
上体を起こすつもりが頭は持ち上げられても肩から下が言うことをきかない。腹筋や背筋を中心にいろんな筋肉が寝ている間に衰えてしまったようだ。私はすぐに左ひじを使って身体を支えようと試みた。ぐっと力を込めると肩が上がりそうな感覚はあったがバランスが取れない。強引に身体を持ち上げるか諦めるか、一瞬の逡巡の隙をついて前橋が私の首と枕の間に右腕を差し込んだ。
一気に上体が浮き上がりジェットコースターのように三半規管が揺すぶられ視界が回って気が付けば私はベッドの上に座っていた。
私の身体を作り上げる肉が、骨が、血がスーッと重力に従って流れて行き定位置に収まるような動きを感じた。それと同時に顔や頭にあった張りのようなものが薄れていく。
私はパソコンが起動する様を思い描いていた。私はベッド上に起き上がることで身体に起動のスイッチを入れたのだ。何十時間と同じ姿勢で過ごした私の身体はかなり浮腫んでいるのだろう。人間寝てばかりではいけないということが実体験として理解できる。
改めて前橋の水差しに手を伸ばそうとして私は漸く現実と直面した。
右腕の感覚がない。
咄嗟に左手で水差しを受け取るとその重さに手が無残なほど震える。カタカタと蓋が揺れる。慌てて口を近づけ何とかその先を捉えると揺れは収まった。鼻から一つ息を抜き、口の中に水を注ぎ込む。
舌が潤っていくのが分かる。水の冷たい流れは命の流れだった。食道を落ちていく水が胃に流れ着いて私は命というものは水が作り出すのだと理解した。咽ぶようにしながら私は水差しの底を持ち上げ命の水を体内に吸収する。この水の一滴一滴が私の身体を構成するのだ。
水差しの水を全て飲み干して私は漸く前橋に礼を言った。
「お元気そうで何よりです」
「元気なことがあるか。右半身が麻痺している」
身体の右側が異様に重い。気を抜くとベッドの右側に倒れてしまいそうになる。右手に力を込めようとしてもどの神経を意識すれば良いのか分からない。どうも肩の辺りで通行止めを食らっているようだった。
「それはきっとリハビリで回復するでしょう」
「だといいがな」無駄にあがいても疲れるだけだった。前橋が言うとおり医師の正しい指導によるリハビリで少しは戻ってくるだろう。「迷惑を掛けている。すまない」
「本当です。こんな迷惑はない」
てっきり、そんなことはありません、という否定の言葉が嘘でも返ってくると思っていたが前橋は表情も変えずにしれっと私を非難した。
「おいおい、それが病人に掛ける言葉か?」
「会長は蛯名グループの創始者であり代表権を持つ役員ですから。どんなときも会社のためにご尽力いただかないと」
「こんな有様でもか」
「私の知っている蛯名という方は常に会社のために全身全霊で取り組んでおられました。後悔はするな。今を全力で戦え。それが口癖であり、私はその姿を尊敬しています」
「な、何をそんな昔話を」
涙腺には障害は起きていなかったようだ。あるいは機能が壊れているからこうなるのか、胸が内側から潰され涙がじわっと目に浮かんでくる。それはしっかり右の目からも零れそうなぐらいに込み上げてきている。
しかし、涙腺が弱ってきているのはただ単に老いの証拠なのかもしれない。それは前橋にも現れていた。
「会長。よくぞご無事で……」
前橋の唇はわなわなと震えていた。両の頬から次々に大きな涙の粒がぼたぼたと床に落ちていく。会長、会長と前橋は私の隣に立ちつくし何故か私に向かって深々と頭を下げた。
前橋が私の姿を見て泣くとは思いもよらなかった。呆気にとられた私は、自分の涙が乾いていくのを感じた。「前橋君!」
「はい」
「困るよ、そんなことでは。君がしっかりしてくれないと、おちおち寝ていられないじゃないか」
私は意のままになる左手で強く前橋の肩の辺りを叩いた。そして笑った。倒れて以来一番自然に笑えている気がした。右頬の違和感は薄らいでいる。
「はい。ですから寝ていてもらっては困るんです、会長」前橋は袖で豪快に両目を拭うと大きく息を吸い込みながら顔を起こした。はぁっと息を吐きだすと、いつもの冷静な眼差しで私を見つめた。「早速、私には処理しきれない非常に困難な案件についてご相談が」
困難。その熟語を聞いただけで疲れが身体の内側から滲み出てくるようだった。すっかり錆び付いてしまった頭が全く働こうとしない。前橋の口から出てくる音の連続を意味のある言葉に変換することだけで精いっぱいというところだ。それでも鷹揚に構えて見せるのは経営者の本能というものだろうか。
「何だ。言ってみたまえ」
これなんですが、と前橋は胸の内ポケットから白い封筒を取りだした。
そこには「退職願」と書かれている。それを見て私は反射的に目を閉じた。全身に悪寒が走り内側から身体が崩れていくようなイメージが頭に浮かんだ。黒のボールペンで美しく書かれたその三文字を見ただけで私はそれが誰のものなのかはっきりと理解した。
伸ばした左手が震えているのは病のせいではない。
受け取った封筒を今の私は満足に開くことが出来ない。彼女の気持ちを読み取ることが叶わない。身体が動かないというのはこういうことなのか。右半身の自由を失った私は彼女が去っていく理由を知ることも追いかけることもままならない。
封筒の裏側を見る。そこにはやはり残酷にも私の想い人の名前が書かれている。
「今朝速達で届いたようです。会長のご病状は田之上君が伝えているはずで、こんな大事な時期にどうして」
思い当たる節が一つだけあった。
「電話を」
私は真奈美に電話を掛けると約束した。絶対に掛けると約束したのだ。それなのに未だにその約束を果たしていない。あの日、彼女は朝まで私からの連絡を待っていただろう。そして私は彼女の想いを裏切った。
それに腹を立てているわけではないだろう。そんな子供じみた発想で職を自ら手放すとは思えない。ただ、私との関係をじっくり見つめてみる一つのきっかけになったことは間違いない。
彼女と愛を交わした後に私は倒れそのまま彼女と連絡を取ることもできない状態に陥った。それを知った彼女は血を吐くほどに自分を責めているだろう。
自分のわがままで千人近い社員を抱える蛯名グループの創始者であり会長である人に負担をかけ生死の境に追い詰めた。そこに責任の重さを考えての辞表ではないか。
前橋が私の目の前にぬっと枕元にあった携帯電話を差し出した。
私は一旦受け取り、そしてすぐに前橋に突き返した。
「お掛けにならないので?」
「すまんが、操作してくれないか」
前橋は私の右手の辺りに視線をやるとすぐに私の携帯電話で真奈美のデータを呼び出して私に戻した。
中谷真奈美。この五文字がどうしてこんなに愛しいのか。そしてどうしてこんなに怖いのか。
今私が指を少し動かせば電話は彼女に繋がる。早く声を聞きたいが、その声が私に何を伝えるかと想像するだけで身が捩れるほどに苦しくなる。
しかし、いつまでも電話とにらめっこしているわけにもいかない。意を決して私は携帯電話を耳に当てた。
オカケニナッタデンワバンゴウハ、デンパノトドカナイ……。
「出ない」
これは真奈美の意志表示だろう。会社を辞め、私の前に姿を見せず、電話にも出ない。どう考えても、これは私に別れを告げている。
これは自分が身を退くことで私にこれ以上無理をさせないようにしたいという彼女なりの私への配慮なのか。そんな配慮を私自身が望んでいないというのに。
無力感が私を構成する細胞一つひとつに襲いかかってきた。次の瞬間思ったことは、こんなことなら目を覚まさずにそのままこちらの世界に帰ってこなければよかったということだった。失恋というものがこんなにもつらいものだということを私はこの年齢になって初めて味わった。
コンコンとノックの音がした。
前橋がドアに向かう。
「社長。来ていらっしゃったんですか」
洋のようだ。前橋が私の病室にいるのが驚きだったのか、声が上ずっている。
「似合ってるな。見違えたよ」
前橋の声はいつもの社長の貫禄を取り戻していた。
「父は?」
「先ほど目を覚まされた」
入ってきた洋はグレーのつなぎを着ていた。何となく汗と埃っぽいにおいがする。
「あれ?もう、起きられるの?」
久しぶりに見る洋はどこか若々しい感じがした。会社にいた頃は何となく陰気くさく、親の私の目にも実年齢より年寄りっぽく映っていたのだが、今の洋は表情も明るく溌剌として見えた。
「頑張ってるようだな」
「まあ、俺なりにね。肉体労働が性にあってるのかも。……母さんは?」
「さあな。大方、家で寝てるんだろう。あいつも疲れてるだろうから」
ふーん、と言って洋は棚にあるポットの目盛を覗きこんだ。茶の支度をしながら前橋にベッドの横の椅子を勧める。
洋が茶を淹れる。そんな日が来るとは。
私は少しの感動とともに大きな不安も抱きながらその様子を見守った。
前橋も同じ思いだったのだろう。
「二人してそんな風に見ないでよ」
洋に指摘されて私は前橋と目を合わせて吹き出した。
洋が出した茶は普通だった。前橋が毒見をするようにひと啜りして私に結果を報告する。
「普通、です」
「そりゃ、普通ですよ。下の売店で買ったお茶っ葉に誰もが飲んでる水道水で作ってるんだから」
前橋としては「普通」は褒め言葉だったのだろうが、洋は不服そうな顔で椅子に腰かけた。
私は配膳用のテーブルに置かれた湯飲みに手を伸ばさなかった。火傷しそうなぐらい熱い茶は私の好物だが、右手が不自由な今は上手に口元まで運べる自信がない。
「電話?」洋は私が手にしている携帯電話を指差した。「掛ける?部屋から出てようか?」
「いや、もう掛けたんだ。だが、出なかった」
そして沈黙が生まれた。病室内には茶を啜る音だけが響く。
私は左手でリダイヤルを行った。おそらく携帯の電源は切られたままだろう。分かってはいるがもう一度確かめてみずにはいられない。
結果は予想通りだった。私は力なく耳から電話を離した。
私の横で洋が若さを誇示するように俊敏な動きで立ち上がる。
「何かしてほしいことない?」
洋は私を思いやって言ってくれたのだろう。ベッドから身動きが取れない病人に掛ける言葉としては適当だった。それは分かっている。しかし、私にはその言葉を屈辱的に受け止めた。
これまで洋に何かしてもらったことなどない。してもらおうという発想を抱いたことがなかった。甘えるしか能がなかった息子が私を見下ろし私のために何かしてやろうと言う。
悔しかった。私は顔を起こすことができず息子の足元を睨みつけるしかできなかった。お前に何ができる。身体さえ自由に動けば、何を生意気な、と張り倒してやるのに。
「連れていってほしいところがある」
奥歯を噛みしめようにも右側は出来ているのか心もとない。
洋は私の手元にある封筒を一瞥した。
「女のとことか?」
茶化すように言われてカッと顔が熱くなった。
洋君、と前橋がたしなめる。
「会長はご自分の秘書を気遣っておられるのだ」
「中谷さん、どうかしたの?」
真奈美が私の知らないところで辞表を提出したこと、話しを聞きたくても連絡がつかないことを前橋が説明してくれた。前橋は私が真奈美を純粋に自分の秘書の心配をしていると思いこんでいるようだった。
おずおずと洋を見上げるとどこか探るような、それでいて楽しんでいるような目にぶつかった。洋は何か察知しているかもしれない。
「父さん、絶対安静じゃないの?」
洋の言葉に前橋が驚いたように私を見る。
「そう言えばそうですよ、会長。ご無理をされてはいけません」
無理は百も承知だ。確かに今、ここでベッドから離れることは自殺行為かもしれない。しかし、不思議と何とかなるという気がしていた。激痛に耐えかねて意識を失ったのであればもうあんな思いは二度とごめんだと大人しくしているかもしれないが、幸か不幸か痛みに対する恐怖はなく、自分が死ぬイメージが脳裏に浮かんでこない。
「大丈夫だ。今日からリハビリを始める」
「そんな、無茶な。なぁ、洋君」
しかし、洋は泰然とした表情を変えなかった。
「母さんがいない今はチャンスかも。俺、車いす探してくる」
洋は蛯名グループに居たときには見せることのなかった軽やかな足取りで病室を出ていった。洋が自分から率先して動く姿が新鮮だった。妙に協力的なのが頼もしい感じもしたが、まだ従前のダメぶりがちらついて信用しきれないところもあった。
「会長、駄目ですよ。こんなことは絶対に認められません」
前橋は弱り切った表情を見せる。前橋の言いたいことは分かる。私が逆の立場だったら目の前の病人を殴ってでもベッドに寝かせておきたいだろう。しかし、私としてもここは左手一本で前橋と刺し違えてでも真奈美のところに行かなくてはならなかった。
「前橋君」
「はい?」
「君のコート貸してくれないかな?」
「貸せませんよ。絶対にダメです。大人しく寝ていてください」
「元はと言えば君が彼女の退職願を持ってきたからこうなるんだ」
「そんな無茶苦茶な」
出て行った洋があっという間に帰ってくる。手で車いすを押している。
「隣の病室の人が貸してくれるって。今日はもう寝るから明日の朝返してくれればいいってさ」
これはもう天の配剤、神の思し召しだ。私は懸命に左手を伸ばして車いすを手繰り寄せた。




