↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/22

20

 ずっと長い夢を見ていたような感じがした。

 どんな夢だったかは定かではないが息苦しさが長時間続いていたことだけはまだ喉の辺りに漂う不快感から思い出せた。もがきながらやっとの思いで海面から顔を出すがすぐに押し寄せてくる波に揉まれて海中に沈んでしまう。そんな束の間の呼吸に命をつないでいたような感覚が全身に残っている。泳ぎ疲れたようなだるさで身体が言うことをきかない。

 瞼を開くことはできたが辺りはぼんやりと白く濁って見えた。もしかするとここは天国か。

「……なた!あなたっ!」

 誰かが呼んでいる。遠くで聞こえていた声はやがて頬を叩くような強さと近さで耳元にあった。

「幸子か」

 きっと声にはならなかっただろう。取り乱している幸子のヒステリックな声を止めたかったが今の私にはなす術がない。力を振り絞っても口の形を歪める程度だ。それだけでもすぐに疲れてしまい、また意識が混濁し始める。

 滲む視界の中で幸子の影から誰かが顔を出す。前橋か?あるいは田之上?確認しようにも落ちてくる瞼の重さが尋常ではない。世界は再び強制終了された。

 次に目を覚ました時は幾分身体が軽くなっていた。潜水から一気に水面に飛び出しそのままプールサイドに這い上がったような感覚で眠りから飛び出した。

「あ、おばちゃん。おじちゃん、起きたよー」

 おばちゃん、おばちゃん、と連呼して走り去っていく小さな背中を目で追う。少し頭をもたげ、肘の力で肩を起こそうとして脳天から延髄にかけて稲光のような鋭さの痛みが走った。思わずうなり声を上げて再び頭を枕に委ねる。

 ここはどこだ?俺は何をしている?

「会長!良かったぁ」視界ににゅっと田之上の黒い顔が入ってきたかと思うとまた出て行った。「奥さん。本当ですよ。目を覚まされました」

 視線を彷徨わせて少し理解する。ここは病室のようだ。私は……。

「あなた、良かったわ」

 現れた幸子は田之上よりも落ち着いて見えた。私が目を覚ましたことを残念がっているようにさえ映る。しかし、それでもほっとする。彼女のヒステリーには辟易するからだ。

「私は……」

「倒れたのよ。ミチちゃんと歩君を連れてきて玄関で」

 言われて思い出そうとするとまた頭が割れるように痛んだ。しかし痛みがきっかけだったかのように倒れたときの様子が脳裏に蘇る。

「どれぐらい眠っていたのか」

「今日で三日目だよ」

 教えてくれたのは歩君だった。小さくて視野に入っていなかったが、声の方に顔を向けると幸子の隣に歩君が手に紺色の人形を持って立っていた。ジン少佐だ。

「歩君。……元気か?」

 元気そうだった。少なくとも私が知っている彼の様子の中では今日が一番子供本来の無邪気なエネルギーを帯びているように見えた。口数も多い。

「寝てるおじちゃんに言われたくないよ」

 歩が口をとがらせる。確かに、とみんなが笑う。

 医師と看護婦が入ってきて聴診器をあてたり血圧を測ったりして行った。

 取りあえず一安心です、と宣言して部屋を出て行く医師に幸子が良妻を気取って深々と頭を下げる。

「こんなことになってすまない」

 神妙に謝ると、田之上が空気を読んだのか「ジュースでも飲もう」と歩を連れて病室を出て行った。

「本当にびっくりしたわ。狭心症だったのよ、あなた。前兆あったの?」

 妻の口調に愕然として返す言葉を見失う。

 前兆はあった。健康診断でも毎回のように心電図で引っかかっている。「さっさと会社辞めなさいよ」と簡単に言われるのが癪で目の前で薬は飲まないようにしていたが、幸子にも心臓の調子が悪いことは話していたはずだ。

 つまり彼女は私に関心がないのだ。そして私も彼女がどういう持病を持っているか知らない。いつからか私も彼女に興味がなくなっている。

 起きぬけに喧嘩をする気にもなれず私は話題をねじ曲げた。

「あの子、君に懐いてるじゃないか」

 微笑んだつもりだが、右側の頬の辺りの筋肉に違和感があった。何となく動きに強張った感じがある。

「ええ、いい子よ。あの子を見てると歩を思い出すわ。よく似てる。少し影がある感じも」

「そうだな。確かに似てる」

 幸子は遠くを見るような目を窓の外に向けている。

 私も同じような目で天井を見上げているのだろう。そこには幼くして亡くなった長男の歩の姿を思い描いていた。記憶は曖昧になりややもするとミチの息子と区別がつかなくなってしまう。

 二人は本当によく似ている気がする。名前が同じであることが偶然ではないのではないかと疑いたくなるぐらいだ。四十年の時を経て歩が生まれ変わったのだと思わずにはいられない。

 だからこそ私はあの日特設会場の隅に佇む少年に話しかけた。そして少年の存在を幸子に黙っているのは卑怯だし道徳に反するように思った。歩を失って一緒に何か生きていくために大切なものを手放したように見える幸子に少年を見せてやりたい。そう願ったから私は彼の母親であるミチにも積極的に関わり合おうとしたのかもしれない。

「ミチちゃんも少しとっつきにくいところあるけど、あなたの命の恩人ですからね。あの子たちにしてあげられることがあれば精一杯してあげるつもりですよ」

「命の恩人?」

「そうよ。彼女がすぐにあの機械で措置してくれたからあなた一命を取り留めたんですよ。私だけだったらパニックで救急車を呼ぶこともできなかったわ。ミチちゃんは看護の専門学校に通ってたことがあったんですって。あなた、運が強いわ」

 私は我が家の玄関の隅に設置しているAEDを想い浮かべた。

 数年前医師に「お金に余裕があるのなら保険として」と勧められて購入したものだ。確かに倒れるとすれば家か会社である可能性が高いし命は金にかえられないとそのときは納得して同じものを会長室にも置いている。定期的に点検を業者に依頼することも欠かさない。

 しかし、最近は家に設置しているものは意味がないのではないかと思っていた。自分が倒れている以上、自分が操作することはできない。会社であれば近くに誰かがいてくれるはずで、AEDが活躍する場面も想像できたが、家で幸子や洋が突然倒れた私に対して冷静に処置できるとは思えなかった。

 業者の説明はふんふんと聞いていた妻だがいざとなったら役に立たないことは容易に想像できるし、もしかしたら虫の息の私をゆったりと見下ろしニッとほくそ笑むことも否定できない。……そうだ。意識をなくす寸前私は見た。幸子が壁にかかったAEDの赤い箱の前に立つのを。AEDを操作しようというのではなく、まるでミチの目から隠すようにだ。

 間違いない。あれがこの女の本心だ。パニックになったのは本当だろうが、咄嗟の判断で私が助かる道を遮る選択をしたのだ。実に恐ろしい女だ。

「どうかしました?」

 幸子は黙ってしまった私の心の裡を覗くように暗い疑りの目を向けてくる。

「いや、何でもない」

 言いながら私はもう家には帰らないと心に決めた。帰れるはずがない。一番近くで共に暮らす相手が私の死を願っているのだ。そんなところでおちおち眠れない。

 それにしても会社のではなく、家のAEDが役に立つとは。しかも私が助けようと手を差し出した相手のミチが逆に私の命を救ってくれることになるとは分からないものだ。

「彼女はどうしてる?」

「仕事に行ってるわ。どこか喫茶店にお勤めなんでしょ?」

 間違いではないので大人しく頷く。

「変わったことはないか?」

「変わったことってどんなことです?」

「それはその、……例えば家の周りを変な男がうろついているとか」

「ミチちゃんの旦那さんってこと?」

「……まあ、そうなるな」

 幸子はある程度のことは知っているようだ。それもそのはず。三日の間、何も事情を聞かずに面倒をみるはずがない。

「大体の事情は聞きましたよ。色々あるみたいだけど、とにかく賑やかになって嬉しいわ。歩ちゃん可愛いし」

「助かる」大事な時に倒れてしまい何の橋渡しもできなかったが、それが結果的には良い方向に転んだのかもしれない。「洋はどうだ?顔を出すことはあるか?」

「ここには毎日顔を出してるわ。仕事帰りなのかしら。やめなさいって言ってるのに配送業の格好して」

 前橋が言った通り洋は実際に軽トラを転がして荷物の配達をしているのだろう。幸子は洋が汗水たらして肉体労働しているのが気に入らない様子だが、私は何となく地に足が付いたような安定感を息子に覚えた。

 こんなことは初めてだ。自分の目でその姿を見ることができれば本当にほっと息をつけるような気がしていた。そしてその時にはこの世での私の使命が終わったような感覚になるのではないかということまで想像してしまうのは病に倒れて自分の命の灯りにごまかしきれない翳りを見つけてしまったからだろうか。

 目が覚めてから意識ははっきりしていて思考の巡りに支障は感じないのだが、四肢の感覚が心もとなかった。

 手足がベッドに縛り付けてあるのかと疑いたくなるほど動かない。身体が重いというか力の入れ具合がつかめないというか。指先、足先もいつもより冷たいような気もしている。

 怖いのは運動系の神経のどこかに障害が起きてしまったということだ。AEDで助かったということは一時期心臓の機能が著しく低下した状態にあったということであり、私の想像は至極まっとうなものだろう。しかし、それは、「ああ、そうか、そりゃそうだよな」とすんなり受け入れられるようなものではない。

 取りあえず今はまだその部分はグレーにしておくことにした。もう一度深く眠ればもっと回復していることも十分に考えられる。

「家に帰ってくることはないのか?」

「知りませんよ、私だって。この三日間ここと家とを行ったり来たりですから」

 まだ洋はミチと会っていないかもしれない。しかし、だからと言ってこんな状態になってしまった私に何ができるだろう。洋とミチの関係も私が寝ている間に上手くまとまっていてくれたら楽なのにと思ってしまう。

 まあ、そっちはなるようになるか。

 周りが色々工作したところで結局二人に互いに引き合う何かがあるかどうかが問題なのだ。くっつく男女はどれだけ時間がかかっても障害があってもくっつくものだ。私と真奈美のように。

 そう結論を出すと急に眠気が兆してきた。睡魔は驚くほど素早く力強い。しかし眠ってしまう前に確認しておきたいことがある。私は妻に田之上を呼ばせた。

「会長。よくぞご無事で」

 田之上は日に焼けた暑苦しい顔を奇妙に歪め言葉を詰まらせた。どうやら泣いているらしい。

 涙を浮かべている田之上を見ているとこいつが駆けだしだった頃を思い出す。ガッツはあるがミスも多く、こうやって私の傍に来ては申し訳なさそうに眉を八の字にしてべそをかいていた。

「迷惑を掛ける」

「何をおっしゃいますか!会長は頑張りすぎたんですよ。ここは一つゆっくりと養生していただいて、また元気に出社してください」

 元気に出社か。はたしてそんなことが可能なのだろうか。私は苦みを覚えながら笑った。先ほどよりは上手く笑えた気がするが、どうも右頬の違和感は消えない。

「会社はどうだ?」

「ご安心ください。特に問題は起きておりません」

「中谷君はどうしている?こちらには来てくれているのかな?」

 仕事がどうなっているか心配だ、というような調子で訊ねる。彼女は秘書なのだからおかしな質問ではないだろう。

「そう言えば、ここのところ姿を見ていませんね。こちらでも見かけません。ただ、会長、申し訳ありません。私もここにつきっきりというわけにも参りませんので……」

 それは仕方がない。広報部長の職務は忙しい。

 会社に戻ったら今日の私の状況を彼女に伝えてほしい、と告げると私は田之上が部屋を出て行く音を聞きながら耐えきれず眠りに落ちた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。