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問題は洋だ。
母子を拾い我が家に向かう狭いタクシーの車内で私は思わず寄ってしまう眉間の皺を隠すため窓の外に顔を向けたままにしていた。
洋が野々村運送に籍を移してから一ヶ月。この間、洋は実家には顔を出していない。それまではどちらかというと実家で寝起きしている日の方が多いぐらいだったのだから洋にも思うところがあっての行動なのだろう。
そして幸子は独り言が増えた。洋はどうしているだろう。ご飯は食べているだろうか。遅刻せずに会社に行っているだろうか。良からぬ店に出入りしていないだろうか。
そんなに心配ならこの家を出て洋と二人で暮せ、と言いたくなるほど私は幸子の繰り言に辟易としていた。その気持ちは真奈美との関係がさらに強くさせているのだが。
もし万が一今日に限って洋が帰ってきていてリビングでビールでも飲んでいたら。
あり得なくはない。洋の我慢の限界など高が知れている。一ヶ月はよくもった方だ。何食わぬ顔で私が収集している高級ワインなどを勝手にあけている風呂上がりのパジャマ姿が容易に想像できる。もしそれが現実となり我が家でカルーアちゃんと鉢合わせになったら何と説明したものだろうか。
知らなかった、と言うしかないだろう。彼女がお前の想い人だったのか。だったら話しは早い。今の旦那とは別れるらしいからお前はその後に彼女と結婚したら良い。
それで納得するだろうか。
ふむ。あいつなら簡単に「へー、そうなの」と受け入れてしまうかもしれない。
しかし、その後どういう行動に出るかは全く読めない。恥ずかしがって部屋から一歩も出ないか、はたまた母子の境遇に憤慨し夫のところへ殴りこむか。子供がいることを知って即座にカルーアちゃんへの気持ちが冷めてしまうかもしれない。
とにかく洋のことを考えると一つだけカルーアちゃんに確認しておきたいことがあった。彼女は今の夫と本気で別れるつもりなのだろうか。
家が近付いてきた。今のうちに訊いておかないと。
振り返ると私とカルーアちゃんの間に歩がいる。
彼は迎えに行ってからまだ一言も喋っていない。この子なりに現状を理解し小さな胸を痛め今後の身の処し方に不安を抱いているのだろう。今から行く知らない家に緊張もしているに違いない。
歩は感情を感じさせない冷やかな視線を真っすぐフロントガラスの向こうに向けていた。何を考えているのだろうか。
時刻は十一時半。いつもならもう眠っている時間だろう。今日まで生活を送ってきた家に帰れず自分が今どこに向かっているのかも良く分からない。
母に身体を預けるでもなく気丈に前方を見据えたまま姿勢を崩すことのない歩の姿は痛ましかった。
歩の前であれこれ訊ねるのは憚られた。
結局何も訊けないままタクシーは静かに家の前に到着した。
「おっきいお城ね」
車を降りて家を見上げた拍子にマフラーの上に現れたカルーアちゃんの左の口元に私の目は吸い寄せられた。夜目でもはっきりと黒く痣になっているのが分かる。きっと夫にやられたのだろう。家を出ると言ったから殴られたのか、殴られたから家を出たのか。
私の視線に気づいたようで彼女は少し自嘲気味の笑いを浮かべる。そうやって口角を上げると痣が歪み余計に痛々しく見える。
私は何もなかったように門扉に手を掛けた。「こんなものは見かけ倒しだよ」
この家には何もない。確かに敷地面積は広いし三階建ての家屋は周囲を圧するようにそびえて見える。しかし、それだけだ。カルーアちゃんから連絡がなければもうここには帰ってくることもなかったかもしれない。
「閣下」
玄関へのアプローチを歩く私を呼び止める。振り返るとカルーアちゃんは歩の手を握りながら厳しい顔でこちらを見上げていた。
「どうした?」
「いつまで私たちの味方でいてくれますか?」
私の気持ちを確かめているのだろう。中途半端な気持ちで手を差しのべられても、互いに不幸になるだけ。カルーアちゃんの力の入った肩の辺りがそう言っている。
彼女は正しい。私もここは性根を据えてふんどしを締め直さなくてはならない。
「死ぬまで味方だよ」
二人を支援していくことはそう難しい話ではない気がした。この家は部屋があり余っているし、ここでは不都合ということになればマンションをあてがってやっても良い。歩が成人するまでの金ぐらいどうにでもなる。それにどの道私が生きていられるのはそう長くはない。
「約束してくれる?」
「ああ。約束する」
微笑んで大きく頷くと、カルーアちゃんは居住まいを正し、ピシッと敬礼して見せた。それを見た歩もにこっと笑って母親の真似をした。私も二人に敬礼を返す。
そのまま見つめ合っていると不思議と気持ちを共有できたような気になれた。我々は同士であり戦友だという気持ちだ。三人は大きな任務に挑戦しているのだ。
「ただいま」
ドアを開け玄関に洋の靴がないことを確認して私は取りあえず一つ厄介事を先に延ばせたと胸を撫で下ろした。
「お帰りなさい。お客様は?」
少し迷惑そうな声でリビングから出てきた幸子は普段着にエプロン姿だった。まだ化粧も落としていない。風呂にも入らずに待っていたようだ。当然機嫌が良いはずがない。濡れた手をエプロンで拭っているのはきっとぶつぶつ文句を言いながら酒の肴でも作っていてくれたのか。
カルーアちゃんを迎えに行くタクシーの中で幸子には客人を連れて帰るとだけ説明してあった。何も言わずに突然客を連れて帰れば見境なく激昂するに決まっているし、逆に電話で事の経緯をかいつまんで説明するのは難しかった。
きっと幸子は取引先の重役や私の部下をイメージしているのだろう。
昔は前橋や田之上と飲み明かしたり徹夜で麻雀したりした。あのころは社長と部下という間柄というよりは戦場を駆けまわる同士といった感じで何事も腹蔵なく言い合うことが出来ていた。それこそ幸子とも互いに憎まれ口を叩きあいながらも阿吽の呼吸で通じ合えていたのではないか。
あの頃はこの家も賑やかで活気があふれていた。そう思うと懐かしい感じがするとともに、随分遠くに来てしまって、もう二度と帰れないのだという寂しさが拭えない。
「入りなさい」
私はドアの陰に隠れている母子を招いた。
声が上ずってしまった。柄にもなく緊張している。こんなことで妻の顔色をうかがってかたくなっている自分に嫌気がさす。
しかし、自信はあった。幸子はこの母子を喜んで受け入れるに違いない。歩のことは我が子のことのように世話を焼きたがるはずだ。
おずおずとまずカルーアちゃんが幸子の前に出た。
幸子は大きく口を開けた。面白いように顔が赤くなる。何か言おうとしてパクパクしているが結局は何も出てこず、ただ眼光鋭く私を睨みつけてきた。
きっと私が何を言っても彼女の耳には入らないだろう。彼女は夜更けに夫が若い女性を連れて帰ってきたことに怒り心頭なのだ。
カルーアちゃんの右手は小さな手を握りしめている。母に手を引かれて現れた子供の姿に幸子の目は釘づけになった。
歩。
幸子の口がそう動いた。声にならない声で歩を呼んだ。
「こちらは、えっと」
そこまで言って私はハッとカルーアちゃんの顔を見た。私は彼女の本名を知らない。名前も知らないでは妻に紹介しようがない。
「夜遅くにごめんなさい。有賀みちと言います。お邪魔します」幸子に向かって頭を下げながらカルーアちゃんは息子の手を引っ張った。「ほら、歩もご挨拶して」
挨拶しろと言われても、この場合どういう言葉が適当なのか選択するのは幼い彼には酷なことに思われた。歩は困惑した表情を見せながらも軽く頭を下げ、こんばんは、と呟いた。
「歩?歩君って言うの?」
幸子は上手く呼吸が出来ていないようだ。身を捩るように力を振り絞って掠れた声で問いかける。
「そうだ。有賀歩君だ」
私は妻の目を見て大きく頷いた。私とお前が失った長男と同じ名の「歩」だ。
幸子は口を手で覆い目を潤ませた。漏れそうになる嗚咽をこらえて感情の振幅を何とかやり過ごすと柔和な笑顔を湛えて歩の前に膝をついた。
「まあ。ほらほら、ここは寒いから早く上がって、上がって。スリッパをどうぞ。お腹すいてない?それとももうおねむかな?まずはお風呂に入ろっか?」
幸子は歩の手を取りリビングに招いた。
カルーアちゃんは驚いた様子で私を見た。あの変わり様は何なの?とでも言いたい様子だった。
幸子に今回の経緯を語るのも面倒だが、カルーアちゃんに幸子の態度を説明するのも大変だと思った。
取りあえず私はアメリカ映画のように大仰に首をすくめて我が家に上がった。
「みちちゃんだったんだな」
「そうよ。カタカナでね」
「ミチちゃんか」
「声に出したら同じよ」
「それもそうだ」
私は笑った。肩の荷が下りた気がした。力が抜けて、前に出そうとした足が心もとなく膝に力が入らない。
私はそのまま前のめりに崩れ落ちた。次の瞬間には床が目の前にあった。
意識が遠のき視界が暗転する。その直前私は幸子が駆け寄ってきて壁の赤い箱の前にまるでそれを隠すように立つのが見えた。私の名前を呼んだ妻の声が知らない人のもののように耳になじみなく聞こえた。




