18
真奈美の身体は実に素晴らしかった。
皮膚に中年女性のたるみはなく絹のように滑らかな感触が心地良い。肌の内側から押し返す弾力は十分で一見華奢に見える四肢も抱きしめたときの肉感は私をすぐに虜にした。まもなく四十歳になる女性の肌とは思えないほど若々しく張りに満ちていて私は全身の皮膚を彼女に押し付けたい衝動に突き動かされてしまう。
反応も実に良かった。女性としての恥じらいは失わず、一方で性欲や快感に対して従順さを持ち合わせてもいた。シーツで肌の露出を抑えながら、私を求めてすり寄ってくる。手で目を覆いはするが、指の間から私の愛撫を確認しては荒く息を乱す。声が漏れるのを必死に噛み殺そうとしつつ腰を押し当てるのをやめない。舐めてほしいと言えば、上手に舌を使った。
特に今日は恍惚とした。少しずつ私とのやり取りに慣れができ、不安と緊張が薄れ、その分感度が良好となったようだ。私の指に鋭く反応し、呆れるほど声を上げ、最後は私の上で私の身体に爪を立てて崩れ果てた。
間接照明だけの薄暗い室内は生温かく、互いの呼気と唾液と汗と体液が何重にも混ざり合い淫靡で濃密な空気が漂っている。その爛熟したにおいもどこか愛おしい感じがするのだが彼女の髪を撫でると軽く美味しそうな果実の香りが漂ってそれがまた私をうっとりさせる。
いっそこのまま真奈美と一緒に逃げてしまおうか。こうやって肌を交わした後の転寝の合間にふとそんな考えに誘われてしまうときがある。
私も先は長くない。老いさらばえて最後にこんな素晴らしい女性と出会えたのだ。何を惜しむことがあるだろう。最後の最後に自分に正直にならなくて何が人生か。
「ごめんなさい。傷ができちゃって」私の肩に頭を預けた彼女が私の胸に指を這わせた。出来たばかりの爪痕をなぞっているのだ。「痛みますか?」
まどろんでいた意識が少し覚醒する。眠ってはいないが、放心したような状態になっていたのか。
頭が少しずつはっきりしてくるのにあわせて少し熱を帯びた痛みを胸に感じるようになってきた。
薄い皮膚の下に血が滲んでいるような引っ掻き傷が三本。隣に伏す愛猫の仕業だ。
「少しね。ヒリヒリする」
「ごめんなさい」
「あんなに乱れるとはね」
「自分でも怖いです」
「抑えがきかなかったの?」
怖いほど乱れてしまったという感想は相手役として最高の誉め言葉だ。私もまだまだやれると自信ができる。
「恥ずかしい。もうしません」
泣くような仕草で手で目元を覆う真奈美。
「そう言われると寂しいな」
「じゃあ、これで許してください」
彼女は少し頭をもたげ、私の胸に顔を寄せた。
「ィテッ」
傷にひんやりと冷たい感触がして小さいが鋭い針のような痛みが走った。
「あっ、ごめんなさい。痛かった?」
「そりゃ痛いよ」
「なめたら治るかと思って」
「子供じゃないんだから」
私は彼女の頭を再び肩に引き寄せた。
「子供はこんな悪いことしませんよ」そう言って彼女は自分の言葉がおかしかったのかクスクスと小動物のように小刻みに震えながら笑った。「こんな悪いことしたの初めて」
「何がそんなに悪いこと?」
不倫を指しているのだろう、とは分かっていた。それとも友人と食事をする約束があるという真奈美に無理やり電話をさせ「仕事の都合で行けなくなった」と言わせたことだろうか。あるいは今月に入って何度となく繰り返されている営業部と経理部の非難合戦とも言える会議を体調不良を理由に欠席してここに来たことだろうか。
「私、こう見えても真面目で品行方正なんです。赤信号は渡らないし、ゴミはきちんと分別します。料理は雑誌を見ながらグラムを計るタイプです」
「だから?」
「そんな私がこうなったのは全部、会長のせいです。私は会長の部下で長年お世話になってきたし会長のことが好きだから会長の言葉には何一つ逆らえません」
満ち足りた気分だった。この六十有余年の人生の目的地を見つけたような充足感だった。
貧しかった学生の頃も休みもなく駆けずり回った青年時代も日々神経をすり減らした壮年期も全て真奈美へと続く道の過程だったように思える。
この十数年、真奈美は常に私の傍にいてくれた。しかし、今になってこういう関係になった。この間にもチャンスはあっただろう。だが、今でなくてこの感慨に至れたかどうかは分からない。
もう何もいらない。真奈美さえいてくれれば全てを失っても良い。
私はそういう境地に足を踏み入れていた。残る時間を真奈美のことだけを考えて生きていければどんなに幸せだろう。
「真奈美」
「はい?」
腕の中で私を見上げる瞳が濡れていた。真っすぐに私を見つめる。もうどうなってもいい、とその目が言っている。
先ほど彼女が口にしたように私が何かをしたいと言えば彼女はそうするだろう。一緒に逃げようと言えば地の果てまでついてくる。私と死のう、と言えば喜んで頷くに違いない。そしてそう言ってほしそうな角度で喘ぐように私の口元に視線を集中させている。
言葉が分かる分だけ犬より忠実で、血が通っている分だけロボットより憐れだ。
そんな彼女を見ていると逆に二人で暮らすというのは難しいように思える。
私の体力にも限界はあるが、彼女が心労に耐えかねるようでは幸せにはなれない。彼女と一緒に生きていくということは私が幸子を捨てるということだ。そうなったときに良心の呵責に打ち勝てるほどに真奈美が回復しているかどうか。
「最近体調はどうかな?」
合意の上だとは言えこういう関係になってしまったことは大きく彼女の心理状況に影響を与えてしまったはずで、私は少なからず責任を感じていた。
会社にいるときの彼女にはやはり何ら変化は見られないが、発症した二年前も何一つサインに気が付けていなかったのだから私の目は信用ならない。
彼女は少し期待を裏切られたように目元を翳らせて私の胸元の産毛を手でなぞり始めた。
「どちらかと言うと、いいです。手足の冷えも軽い気がしますし、何だか会社に来るのが苦じゃなくて、眠れなくてもそんなに体調が崩れない気がしてます」
「眠れないの?」
それが問題じゃないか。
先日眠りがいかに大切かを熱っぽく語っていたのは彼女自身だ。
「そういうときもありますけど、でも大丈夫なんです。眠れない日が何日も続くってことはなくなりましたし」
彼女の表情に切迫感の色がなくて私は天井をぼんやり見上げた。
彼女の四肢から少し強張りがとれているような感じが好ましかった。眠りに対して執着が薄れていることは進歩と言える気がした。
少しずつ彼女は良い方向に向かっている。私の存在が彼女に幸福感を与えている。その喜びを噛みしめると同時に私は彼女を悲しませたり不安にさせたりしてはいけないと心を引き締めた。
しかし、そういうときに何かが起こるものだ。
「だから私、このまま……」
ルルル……、と着信音が鳴り響き、真奈美がハッと言葉を切って息を飲み身体を震わせた。
不吉な兆しを知らせるように私の携帯電話が室内にけたたましく自分の存在を誇示している。ソファに掛けた背広の胸の辺りが怪しく光っている。
このまま、何なのか。このままの関係が続けば、それだけで十分と言いたかったのか。その確認は電話の後だ。
私は咄嗟に身体を起こそうとして思わず低く唸った。
腰を中心に身体全体に痺れるようなだるさがある。鉛の服を着込んだような重さで上体がベッドに沈み込んでいる。
何だ、これは……。
私は腹の底に力を込め腕を使ってやっとの思いで半身を起こした。それだけで肩で息をするほどの疲れを感じている。
これだけのことで額に汗が滲み、心臓が警告を発するように激しく拍動している。喉が渇く。見下ろすホテルの床が私を異界に誘うようにゆらりと回る。
立ち上がることなど到底できない。それどころか気を抜くと再びベッドに倒れてしまいそうだった。そしてここで重力に委ねてしまえばもう二度と立ち上がることができないような予感に襲われる。悪寒が背中を走り抜ける。
これが死なのか。
私は今はっきりと人生の終着を意識した。死はもうそこまで来ている。あるいは既に私の体内に入り込んでいるのではないか。何かの拍子で心臓発作を起こせば簡単にあの世行きだという自覚があった。
イメージが違っていた。
死とは剃刀の鮮やかさで一瞬でスパッと生を切って捨てるものだと思っていた。しかし実際はこんな風に抗いようのない明確で巨大な力で徐々に押し潰すように全身にのしかかってくるものなのだ。肺もつぶれているのか呼吸が深くならない。
携帯電話は死神からの着信ではないか。私は半ば逃げるような気持ちで携帯電話が静まるのを待った。
身震いがした。身体の芯がすぅっと冷えていく感じがした。
怖い。あまりに怖すぎて声も出ない。指一本動かせない。
しかし、恐怖にがんじがらめにされながらも今死ぬことができれば一番幸せなのではないかとも思えた。
誰だ。愛する人との時間に残酷に足を踏み入れる死神の正体は誰なのだ。
幸子か。
そう思ったとき私はどこか諦めに似た気持ちになれた。
幸子なら仕方ない。
今ここでこうして真奈美とかけがえのない時間を過ごしている私の罪は彼女にとって万死に値するだろう。彼女の裁きにより死を賜るのならありがたく頂戴しよう。彼女にはその権利がある。この期に及んで惨めな束の間の生を得るための無様な抗弁などする気にもなれない。
背後で真奈美が身じろぎするのがシーツの擦れる音で分かった。
真奈美は何を考えているだろうか。これが私の妻からの電話であって、私が気兼ねして電話に出るのをためらっていると真奈美が思っていたら。
私は真奈美に対しては潔白でいたいと思った。真奈美を不安や不幸にするようなことはしたくない。
私は懸命に喉を震わせた。「すまないが」
必死に浅い呼吸を繰り返し掠れる声を繋ぐ。
「はい?」
「私の携帯電話を取ってくれないか。身体が……言うことをきかないんだ」
「よろしいんですか?」
「いいに決まっている」
真奈美とのことがなくても夫婦としての絆はすでに壊れてしまっていたのだ。
真奈美とこういう関係になった以上、幸子とは別れることになってもかまわない。いや、別れてしまいたい。家も金も全て慰謝料としてくれてやっても悔いはない。
真奈美はシーツを纏いベッドを下りた。
私のスーツから取り出すと同時に携帯電話は死んだように音を鳴らすのを止めた。
その瞬間、身体が急に楽になった気がした。縛り付けられていたイメージがパッとなくなった。肺の奥まで空気を取り込める。
もう大丈夫と根拠のない勘が舌の動きを滑らかにする。
「誰からだった?」
訊くと彼女は「さあ?」という感じで首を横に傾けた。
そのとき、再び携帯電話が鳴り始めた。
「すいません。公衆電話からです」
彼女が何を謝ったのかは分からないが、それが真奈美の謙虚さであり弱さの現れだ。
手渡された電話の表示は確かに「公衆電話」となっていた。
「私、はずします」
身体を覆うシーツを巻き直しベッドから離れようとする真奈美を私は制した。
「君に聞かれて困ることは何もない」
そう言って真奈美が離れていくのを手の動きで制し私は電話を耳に当てた。
「閣下?」押し殺してはいるが切羽詰まった女性の声だ。「私よ。分かる?」
紛れもなくカルーアちゃんだった。
彼女が死神の正体なのか。それとも死神を追い払ってくれたジャンヌダルクか。
「分かるよ。どうした?」
枕もとの時計は十時半を示していた。
まいったな、と思った。
何かあったのは間違いない。しかし、それが今とはな、というのが正直な感想だった。
身体が疲れていた。自分の身体でありながらそうではないような感覚だった。このホテルで真奈美と一緒に朝まで眠りたかった。
不安げな目で所在なさげに立ちすくんでいる真奈美の顔を見上げる。カルーアちゃんが何を求めてくるかは分からないが今後は真奈美の助けも必要となるかもしれない。私は声に出さず口の動きでカルーアちゃんからの電話であることを伝えた。
真奈美は一つ頷くとシーツで裸体を覆いながらベッドの脇で身支度を始めた。
何があってもなくてもホテルから出ることは確実だと判断したのだろう。相変わらず状況判断に長けている。私はそれを後ろ髪ひかれる思いで目の端に捉えた。
「逃げてるの」今、カルーアちゃんが背後を振り返って周囲を確認した。見えたわけではないが彼女がそうしたような切迫した雰囲気まで明確に伝わってきた。その言葉に虚飾は感じられない。誰から逃げているのか確認するまでもない。夫からに決まっている。「会える?」
「どこに行けばいい?」
即座に訊いていた。もちろん会いに行くに決まっている。
縋ってくれてと手を差し出したのは私だ。この身がばらばらになってもカルーアちゃんと歩のことは助けなければならない。それは真奈美も理解してくれるはずだ。
「私、行くところがないの」
私はスカートを履きブラウスのボタンをはめていく真奈美を見ていた。女という生き物は脱ぐときは色っぽいのに、逆の動作をするときはどこか滑稽に見えるのはなぜだろう。そんなことを考えることができる私は自分が冷静で余裕があることを知り満足していた。
「歩君は?」
「一緒にいる」
「分かった。何とかする」
老体に鞭を打つとはまさにこのことだ。
電話を切ると錆び付いたねじを無理やり押し込むように服に手足を通していく。
振り返るとベッドの乱れは消えていた。品行方正な真奈美の仕事だ。猥雑な情事の痕が美しく塗り替えられてしまったのを目にして胸を一陣の冷たい風が吹き抜ける。
私と真奈美は黙ったままホテルのドアを出た。口を開けば身体に残ったほてりが自然発火して消し止められそうにない。冬は日ごとに深まっているが、私の身体は寒さを全く感じていなかった。
ホテル前のロータリーでタクシーを拾う。
真奈美を乗り込ませ、運転手に彼女の住まいを告げると私はそのままドアを閉めた。
真奈美は慌てたように窓越しに私を見上げた。
「私もご一緒します」
窓を開けると彼女はもがき苦しみやっとのことで水面から顔を出した遭難者のように喘ぎながら言った。 連れて行ってください、お願いします。
彼女の目は聞き分けのない幼児のように一生懸命に私を正面に捉えていた。
そう来るだろうと思っていた。その気持ちは期待通りで嬉しかったが、ここは譲ることはできない。
「君には生活のリズムを壊してほしくない。今日は帰って休んでくれ」
「そんなの平気です。それに今から帰っても蚊帳の外にされたみたいで気になって眠れません」
真奈美の気持ちは分からなくはない。カルーアちゃんと歩のことが心配だろうし、私の体調も気遣ってくれているのだろう。
しかし、真奈美を連れていくわけにはいかない。今は自分のことを何よりも大事にしてほしい。
カルーアちゃんは家出してきたのだろう。逃げている、ということは夫と別れることも辞さない決意だ。 つまり、カルーアちゃんにはほとぼりが冷めるまである程度長期間身を寄せることができる安全な場所が必要となる。真奈美が同行すれば彼女はカルーアちゃんを自宅に泊めたいと言い出すだろう。しかし、自分の精神状態もろくにコントロールできない人間に、離婚を前に一人息子を連れて夫から行方をくらましているカルーアちゃんの世話など出来るはずがない。
カルーアちゃんと歩のことについては今後も真奈美の協力は必要に思うが、真奈美には一歩身を引いたところで応援してもらいたい。
どうします?と運転士の苛立つような声が私と真奈美を切り離す。
私は真奈美の頭をポンポンと軽く叩くとタクシーから一歩離れた。
「後で電話するから」
そう言いながら、方便だが、できない約束をしたかもしれないと胸を痛める。
これからカルーアちゃんに会い、自宅に連れていく。家に帰れば幸子がいる。家の中で一人になって誰にも聞かれずに電話をすることなど不可能に思えた。
だとすると不自然にならないような口実を作って家から再び出る必要がある。深夜に何の用で?もしそれができたとしてそのとき私は真奈美に何を話せば良いのか。
「絶対に、ですよ」
彼女は嗚咽を噛み殺すように低い声で言った。よく見れば彼女の瞳が潤んで光っている。
それで私はハッと唇を噛んだ。
タクシーが動き出すと真奈美は諦めたように目を伏せた。すぐにタクシーのテールライトは夜陰に紛れていった。
真奈美は私からの電話を待っていたようだ。これまでも仕事以外に電話をしたことはないが、関係を持って以降も彼女と話すのは会社かホテル、あるいはその間の車内だけだ。
彼女は毎日一人で長い夜の寂しさを噛みしめ、家庭の中の私を想像しながら布団に包まっていたのだろう。
せめて今日だけは電話をしてあげよう。風呂かトイレにこもってなら何とかなるだろう。そのとき約束しよう。全てを捨てて、いつか必ず君のところへ行くよ、と。
私も後続のタクシーに乗り込み行き先を告げる。
カルーアちゃんはここから車で三十分ほどの郊外のファミレスで歩と待っている。




