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 その洋が本社に現れたのはそれから一カ月ほど後のことだった。

 例年よりも長く暑さが居すわった反動なのか、秋は短く、まだ十二月になっていないのに巷には雪を連想させるような寒風が連日吹き荒れている。洋は中でも一番風の強い日に颯爽とやってきてつむじ風を起こす勢いで去っていったようだ。後釜の岩倉常務を訪ねただけで私のところには顔を見せることなく、そのまま帰ってしまったという。

「何をしに来たんだ?」

 蛯名グループで常務をやっていた頃はろくに仕事をしていなかったのだ。引き継ぎなど必要ないだろう。何もやっていなかったことが明るみになって逆に岩倉には合わす顔がないはずだ。

 前橋は小首を傾げた。

「融資の相談、ということだそうです」

「融資?仕事の話か?」

「そういうことになりますが……」自分で報告しながらも納得いかない様子だ。「岩倉君もどう扱ったものかと困っているようです。会長は何もご存じではないので?」

 前橋がわざわざ会長室まで来たのは私の顔を直に見て探りを入れようということだろう。洋の来訪を創業家の逆襲のサインと感じたのか。

 それにしても確かに掴みどころのない話だ。私が前橋の立場でも同じように洋の周囲を調べてみたくなる。親の私でも理解できないのだ。前橋はさぞかし尻が落ち着かないことだろう。

「分からんなぁ。私は何も知らない。知ってのとおりあいつはここの傍にマンションを持っていてそこで暮らしてるし我が社を去ってからは実家に姿を見せたこともなければ電話で話したこともないんだ」

「そうですか」

 前橋は黙りこくってテーブルに目を落とした。明晰な頭で色々な可能性を探っているのだろう。しかし、それは無駄なことだ。きっといつもの思いつきで洋が勝手に行動しているだけなのだ。

「野々村運送は資金繰りに困っているのか?」

「いえ、そのようなことは。今回の件でうちからの受注量も増えているはずですし」

「いくら洋でも融資してほしいなら使途や担保についての説明ぐらいしただろう?」

「何でも、トラックを改造してアニメキャラクターの大きなステッカーを貼りたいとか」

「それか」思わず笑ってしまう。洋はやはり洋だ。仕事と趣味の区別が出来ていない。真面目に相手をする方が馬鹿を見るというものだ。「それなら私も野々村運送の息子に聞いている。洋のアイデアらしいが、いつもの病気だ。あんまり真面目に相手をしない方がいいな。それが野々村運送のためだ」

「それが、そんなに軽はずみな話ではないようなのです。どういう伝手かは知りませんが洋君は人気アニメ作家と以前から昵懇の仲のようで、すでに著作権等の話しは済んでいるとのこと。そのアニメの中で宇宙空間での運送屋が出てくるようなのですが、その運送屋が使う宇宙船をモチーフにして改造を行い、そのイラストをトラックに貼り付けて野々村運送の宣伝にしようということらしいのです。ためしに広報課の小倉君にそのアイデアについて訊いてみたら、かなり面白いことになるだろうと興奮気味に言っておりました。すごい発想力できっと人気が出るとのことです」

 私は唸った。

「そんな面白いアイデアなら他企業が既に使っていそうなものだが」

「そこはアニメ作家との権利関係の問題が難しいようです。キャラクターの使用料は一般的にかなり高額で、販促で一時的に使うならともかく、向こう何年とトラックの外装に貼るということになるとやはり作家との個人的なパイプがなければ不可能かと」

「それが洋にはあるというのか」

「どうやら」

 前橋は顔を歪めた。苦笑いをしているようだ。きっと私も同じ顔をしているだろう。狐につままれたような話でまずもって実感がない。

 言い知れぬものが胸のあたりに渦巻いていた。感情が混沌としている。

 どうやら洋はまともなことを提案しているようだ。あいつが仕事に対して真面目になっているということが嬉しいようであり怖くもある。どうして我が社にいる間にその姿勢を見せなかったのかと怒りにも似た気持ちも湧いている。本当に蛯名グループを出ていったのだなと実感させられて空虚感も禁じえない。

 そして何よりも不気味だった。洋のことなのに洋でないような気がしてならない。手の込んだ手品を見せられているようだ。

 前橋が私の前に一枚の紙片を差し出した。「洋君が一階の受付で出した名刺です」

 私はソファから背を起こしそれを手にとると大きく目を見開いた。「野々村運送株式会社取締役副社長 蛯名洋」までは良い。その後が問題だった。

「中小企業診断士?」前橋の顔を見る。前橋は一つ二つ頷きながら左の掌に右の拳を繰り返しぶつけていた。私はそのリズムに合わせて疑問をぶつける。「詐称じゃないのか」

「いくらなんでもそれはないかと」

「他の二つは?」

 中小企業診断士の次には「ファイナンシャルプランナー」、「社会保険労務士」と並んでいる。

「それも嘘ではないでしょう」

 私は思い切りソファに身を委ねて中空を仰いだ。「いつの間に」

 口から魂が抜け出てしまいそうだ。

「言葉は悪いですが、時間はいくらでも」

 前橋は後頭部を掻いた。

 あったな、確かに。

 洋には資格取得の勉強をする時間はいくらでもあった。毎朝九時から定時の五時半まで常務役員室という静かで一人きりの空間に広い机と長時間座っても疲れにくい椅子が用意されている。電話一つでコーヒーは用意されるし、ソファで仮眠もとれる。

「これは……事件だな」

「まことに」

 蛯名グループはこれまでいくつも大きなあるいは複雑な事件を経験してきたが、今回ほど奇怪なものはなかったように思う。

「しかし、そんな片鱗は全く見せていなかったぞ。君は何か心当たりはあるか?」

「私にも全く。ただ……」

「ただ?」

「野々村運送に出向してからは働きぶりが全く違うようです。野々村運送には時折電話をして様子を確認しているのですが、洋君は野々村運送の経営状況を調べコストや労務管理などにアドバイスをしたり、毎日自分で軽トラを運転して配送にまわったりしているようなのです。こちらへのおべっかなのかと思い、半信半疑で自分の目で見てまいりましたが」

「事実だったか」

「はい」前橋は首がもげてしまいそうなぐらいに大きく頷いた。「作業服姿の彼がトラックに乗り込むところを見ました。会社の規模が規模ですから社長も平社員も関係なく社員全員一丸という社風なのかもしれませんが」

「洋がなぁ」

 お坊ちゃま育ちで世間知らず、さぼり癖のついた凡庸な二世。法律や経済の知識を下地に奇抜な発想で企業をリードする異色のサラブレッド。一体どちらが本当の洋なのか。親の私にも全く把握不能だった。

 しかし、一つだけはっきりと分かる。

 これは裏切りだ。私への反抗の狼煙なのだ。それはもう犯行と呼んでも良い。計画的犯罪だ。

 私は、もう二度と帰ってくるつもりはない、と別れを告げに来たときの洋の顔を思い出していた。見たことのない肝の据わった表情だったが、あれは長年温めていた計画をいよいよ実行に移そうと決心した顔だったのか。

「岩倉君曰く、人が変わったようだと。落ち着きがあり、精悍な雰囲気も漂っていたようで」

 会長室には暫く沈黙が続いた。硬いものを無理やり飲み込まされているような気分だった。ただただ嚥下するのに必死でなかなか次の言葉が出てこない。「で、だ」

「はい」

「どうする?」

「何か御指示は?」

「ない。好きにやってくれ」

 呆気にとられているためか洋が持ち込んだ商売に対して全く思考が動かない。必ずしも当たることばかりではなかったが、これほどまでに勘が働かない事案はなかった。

 あいつは私個人の援助を求めているつもりはないのだろう。そして我が社を貶めることを狙っているわけでもあるまい。強いて言えば自立し成功した姿を見せてボンボンと侮っていた私たちに一泡吹かせたいというところか。そしてもののついでに利用できるものは利用するというしたたかさも見せ我が社を揺さぶってきたのだ。

 だとすれば我々もビジネスの相手として対処するだけだ。手加減も毛嫌いもせず冷静に見極める。そしてそれには前橋が適任だ。

「承知しました。相手のことは気にせず粛々と分析を行い結論を出します」

「頼む」

 前橋が出て行った後も私はソファを動けなかった。

 いけないとは思いつつも引き出しからバーボンを取り出し矯めつ眇めつ名刺を眺めながら一杯やった。

 整理しきれず持て余してしまう感情をアルコールの炎で焼き尽くしてリセットしたかった。


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