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月に一度の幹部会議の目玉はやはり突然の常務の退職だった。
すでに社内に発表されていることだが、私と前橋、そして田之上以外の人間は成り行きに通じていない。今日に至るまでに何があったのか、その上で今後の己の身の処し方においてどうすることが有利なのか見極めようとコソコソと私語と目配せが行き交う。
「蛯名前常務は我が社の商品配送には欠かせない、そして昨今目覚ましく業績を伸ばしている運送会社から三顧の礼で請われ副社長として活躍することとなった。形の上では一旦蛯名グループを退職するが、数年後にはさらなる知識と経験を携え我らの強力な仲間として復帰する見込みだ。諸君も蛯名前常務に負けないよう研鑽を積まれたい。以上だ」
説明を終えると前橋は居並ぶ幹部を見下ろした。社長に「以上だ」と言われてしまえばこの事案に誰も口をはさめる者はいない。
「では、次の議題に参ります。お手元の資料では三ページ目……」
幹部会議進行役の広報部長田之上が営業で鍛え上げた重いがよく通る声で会議を流していく。
私は取りあえず体面に瑕がつかない格好で洋の退職を周知できたことに安堵した。しかも洋がもう戻るつもりはないと啖呵を切って出て行ったのに、前橋は私に示した条件通り今回の洋の退職は将来的な復帰を見据えたものであると口にした。今後蛯名の血を使いたい場面が出てこないとも言えないという読みから前橋としても保険をかけたつもりなのかもしれないが、まだ蛯名グループへの復帰の道が残っているというのは洋にとってもマイナスにはならないはずだ。全くないよりは可能性がある方が私としても心理的に受け止めやすい。
資料を読んでみるかという余裕が少し出てきて胸ポケットから老眼鏡を取り出す。その際に何気ない素振りで隣に座る前橋の様子を盗み見た。
前橋の澄ました横顔からは心の裡は読み取れない。
何を考えているのか分からない、と疑いの目で彼を見るようになったのはいつ頃からだろうか。
私は前橋の才能を愛し重宝してきた。何でも語り合える腹心中の腹心と思い、部下ではなく相棒だと信頼していた時期もあった。
会社が小さい頃は誰もが前だけを見ていれば良かった。やがて規模が大きくなり前橋に営業の前線の指揮ではなく企画宣伝や社外交渉を担当する専務ポストを新設し社長代理のような格好で任務にあたらせた時期から表情を動かさなくなったような気がする。
そう考えてしまうのは自分の心が荒んでいるからだろうか。彼をナンバー2だと内外に示したがゆえにその力の大きさに恐れ疑心暗鬼になってしまったのかもしれない。
とにかく今回の件の処分に関して彼が私の心情に同情的だったことについては素直にありがたかった。
しかし、いざ幹部職員の新しい顔ぶれを目の前にするとギブアンドテイクだったようにも思えてくる。
洋が座っていた常務席には岩倉の姿があった。役員の中だけではなくこの幹部会議に出席を許される部長級以上の職員の中でも最も若いが、もう何年もその椅子に陣取ってきたような当然の顔で資料に目を落としている。
本来なら田之上をここに座らせたかった。しかし、それは口に出せなかった。息子の不始末を利用して自分の側近を出世させるというのはさすがに憚られた。前橋が見せてくれた温情に対して私としても礼節はわきまえたいと思った。
結果、私は喉元に岩倉という前橋の懐刀を常に突きつけられている気分になっている。近い将来田之上をこの場から失えば本当に腹を割って話せる人間はいよいよいなくなってしまう。
会議が進んでいく中でチラチラと幹部連中が私の様子を窺っているのが分かる。どいつもこいつも息子を社外に放り出された創業者がどういう心境なのか推し量っているような卑しい目だ。
そもそも洋が親の七光りだけで役員にとり立てられている無能なボンボンだということは隠しようもなく、その世間知らずのお坊ちゃまが三顧の礼で請われたなど冗談が下手過ぎて笑えないというところだ。
しかし、無能ではあったが創業者の息子が排除されたという事実は少なからず社に動揺を与え不要な確執を生む可能性がある。
一人息子の更迭を押しとどめることができなかった前社長は彼らの目にはどのように映っているのか。神妙な面持ちの裏側でかつての実力者の凋落ぶりを嘲笑う声が聞こえてくるようだった。
私は居たたまれずに手を卓上の湯飲みに手を伸ばす。会議の場では私の緑茶だけは他の職員のものとは違う、最高級のものを使っている。しかし、それも耄碌爺のわがままのように急に思えてしまい白けた気分になる。
蛯名の名も地に落ちた。
いよいよここに座る意味もなくなってしまったと思う。
会社にとって何が一番有益かを尊重すべき立場の私がこんな権力争いの布陣に憂いているなどということは考えられないことだ。私自身が前橋と距離を取ろうとしているところがあるのだから、周囲の人間はよりその関係を意識しているだろう。そんなことで企業がまとまりを保てるはずがない。
かつて蛯名グループは私のモノだった。経営の浮沈は私の人生航路そのものだった。しかし、千人近い従業員を雇用する今、そういう考えは会社のためにはならない。
私はスーパーマーケット海老屋を押しも押されもせぬ大会社にするために身を粉にして働いてきた。そして海老屋の規模が膨らむにつれ私の存在は相対的に小さなものとなってしまった。
それで良い。そうでなくてはならない。
「ここらが潮時か」
会議を終え会長室の執務椅子に身体を預けながら自嘲的に声を出して呟く。
「そんな弱気な……」真奈美が眼鏡のレンズを曇らせる。しかし、すぐにハッと姿勢を正す。「出過ぎたことを口にしてしまいました」
真奈美は私の前に湯気の立つ湯飲みを置いて控室へ戻って行く。その足取りはいつもよりも急いでいるように見えた。
私はそれを交差点で鼻先を掠めて走り去る車を見送るような呆然とした気持ちの中に身が縮むような恐怖感を抱きながら眺めた。
これまで私の独り言に真奈美が口を出したことはない。それは彼女が己の秘書業務についてしっかり線引きをしてきたからであろう。求められれば答える。それが彼女の私との接し方だった。私はその関係に腹八分目の心地良さを感じ、彼女の聡明さを心の中で称えていた。
しかし彼女は今咄嗟に秘書としての分を超えようとした。彼女を慌てさせるほど私のぼやきが気が抜けていたということか。そして私は心のどこかで彼女の支えの言葉を求めていたようにも思う。そんな弱々しいぼやきだったのだ。
彼女が事故になる直前に慌ててハンドルを切ったのを見て私も反射的に口を閉じた。自分の衰え具合を思い知り背筋が冷やりとする。
体力的にもそうだが、気力的にもとうに限界を過ぎているに違いない。無力感、脱力感が身体を支配している。病み上がりのようなだるさに背もたれから身体を起こすことさえ億劫だ。
しとしとと音がする。窓の外に目をやると柔らかい雨が敷地の際に立つ大木に降り注いでいるのだ。褐色に染まった濡れそぼった葉が一枚まとわりついた雨の重さに耐えかねるように枝から離れ地に落ちていった。
まるで私のようだった。
私が作ったこの海老屋は今私がいなくても物事が進んでいくようになった。私の存在価値が霞んでしまったということだ。ただお飾りのように会長と崇められているに過ぎない。名誉職として捨て扶持を食んでいるだけ。そして誰もが今か今かと私が朽ち落ちるのを待っている。
あのときが引き際だったとは分かっている。あのとき未練なく潔く蛯名グループを去っていればこんな惨めな思いはしなくて済んだのだ。
しかし、私は辞めずに会長職というポストをわざわざ作って無理やりそこにおさまった。実際は前橋を始めとする幹部職員に執拗に頼まれ最後は断り切れなかったのだが、断りきらなかったところが自分の意志であるし、何も知らない周囲はそこに私の専横ぶりを見出すだろう。
権力にしがみつき過去の栄光をちらつかせて老醜をさらすだけだと承知していながら最終的には会社に留まった。剛腕ピッチャーが肩を壊しても速球にこだわりつるべ打ちにされるようなものだ。
会長として登板するのは得意先回りやこの地域の政財界のパイプ役といったくだらない消化試合だけだった。そうやって愚かにも晩節を自分の手で汚してきた。
だから何だ。
私は成功者の名誉や人格者としての名声のためだけに働いてきたのではない。
会長になったからこそできたこともあった。洋が常務として生き永らえていたのも私が社に残って目を光らせていたからこそだ。そうでなかったら私が社長職を離れたときから間をおかずに放逐されていたことだろう。
時間は永遠ではない。もう間もなく引き際を迎えるのは間違いない。それをどんな場面に演出できるか……。
今、ここに至って望むことは多くはない。
辞表は自分の意志で書く。これだけは譲れない意地だ。誰かに追い詰められ追い立てられるようにして迎える最期ほど惨めなものはない。
受話器に手を伸ばし自分で外線につなぐ。数えるコール音が増える度に緊張が高まった。
「お待たせしました。野々村運送、野々村です」
愛想はあるが忙しいことを隠しはしない応対だった。
その背後に粗野な言葉の応酬が聞こえる。電話が鳴り響いている。微かに聞こえてくるのはキーボードを叩く音か。きっと電話に出た人間が受話器を肩に挟んだままパソコンを操作しているのだろう。
活気がある感じがした。
受話器をしっかり耳に押し当てた。
野々村と名乗ったということは社長だろうか。しかし声は洋とそう変わらない年齢のように感じる。
ふと懐かしい映像が脳裏を過ぎった。
スーパーマーケット海老屋が駆けだしだった頃。私も前橋も田之上もみんな声を張り上げ走り回っていた。苦しかったが疲れを知らなかった。一点の曇りもなく楽しかった。
「どうも、蛯名です。このたびは倅がご厄介になりまして」
「こっ、これは、これは……」あまりに意外で言葉が出ないといった感じだ。肩に挟んでいた受話器は今きっとしっかり握りしめられているだろう。「会長。とんでもないことです。ご子息は今父とあいさつ回りに出かけていらっしゃいます」
「お父上?となると失礼ですが……」
「私は息子の克己です。専務をやっております」
爽やかな自己紹介だった。その爽やかさが逆にギリギリと私の胸を締め付けた。
彼はどのような気持ちで今回の件を受け止めているのだろう。
不意に取引先の大会社から手に余した創業者の息子を送り込まれた。必要もない副社長というポストを用意させられて。自分と同年配の、蛯名の名前以外に何の取り柄もない人間を上司と呼ばなくてはならない。父親が作った会社に土足で踏み込まれたような歯がみしたくなるような憤りがあるだろう。しかし、社の将来と売り上げのためには甘んじて受けなくてはならない。
好機ではあるのだろう。
蛯名グループとしては創業者の跡取りを手ぶらで送り出すわけにはいかない。現在の我が社における商品配送に占める野々村運送の割合を三倍に増やすことにしている。
野々村運送としては洋を副社長室という名の小部屋に押し込めておくだけで業績が安定的に上がるのだからこんなにうまい話はない。これを機会に事業規模を飛躍的に拡大させることは可能だ。
数年の辛抱だと割り切っているのだろうか。きっとそうだろう。せいぜい利用してやる、ぐらいの気概でこれから三年間自分を押し殺してやっていくのだろう。
だが、そうなるとは限らない。いや、ならない。
深読みかもしれないが、野々村運送が三年後に今の体制を維持していられる保証はない。「野々村」の名は蛯名に変えさせられている可能性は大いにある。洋を橋頭保として次々に我が社の人間を送り込まれ乗っ取られることだって考えられる。逆に利用するだけ利用して、時機を見てくしゃくしゃぽいと投げ棄てられることも。大企業の都合で使い捨てにされる零細組織はごまんとあるのだ。
それが社会というものだ。綺麗事だけでは済まされない。私も蛯名グループも法の枠内という解釈で悪事と言えるようなことに何度となく手を染めてきた。会社経営とはつまりどんな手を使ってでも生き残ることなのだ。
しかし、それでも私は父親のあとを継ぐつもりでいるであろう青年にどこかエールを送りたい気持ちだった。蛯名グループの人間でありながらも野々村運送に自立経営を守ってほしい願いがある。それは互いにゼロから会社を興し自社の発展に心血を注いできた仲間意識からなのかもしれない。
「恥かしながら甘やかしてきてしまったものですから、ご面倒を掛けるばかりかと思います」
野々村がどう捉えるかは分からないが、そこには何の謙遜もない。偽らざる気持ち、紛れもない本心だった。
不出来な息子がもたらす厄介事が蛯名グループから野々村運送にもたらす利益と釣り合っているか客観的に見ても自信がない。ましてや洋を世話することになったことで野々村運送が将来その体面を保てなくなるかもしれないと思うと申し訳なさでいっぱいで詫びの一言でも改めて私の口から伝えておきたいと思ったから受話器を取ったのだ。
しかし、電話が繋がってみると単純に息子が世話になる会社、前橋が今回用意した会社がどのようなものなのか垣間見たい欲求が高まり自然と受話器を握る手に力が入り遠くなり始めた耳をそばだててしまう。
「いえいえ。きっとご活躍いただけるものと期待しております。副社長も我が社の業務内容に大変興味をお持ちのようですし」
「ほう」洋が興味を持っているのはアニメぐらいのものだ。あのアニメマニアが運送業のどこに魅力を感じたというのだろうか。「例えばどんな?」
「例えば、ですか?」
しまった、と思った。野々村に明らかにうろたえた様子が見える。興味を持っている、というのは彼なりのリップサービスだったのだ。そこを私は子供可愛さに節度をわきまえず掘り下げてしまった。
「申し訳ありません。世話をお願いしておきながら大変失礼なのかもしれませんが、正直言いましてあのぐうたらが自分から興味を示すということはこれまであまり見せたことがないものですから、親として少々気になりまして」
「そうですねぇ」野々村が困惑しながらも絞り出すように答えてくれる。「どのトラックなら自分でも運転できるかとお訊ねでした」
「あいつ、自分でも配達に出るつもりなのでしょうか?」
「そうかもしれません。何せ私どもの会社は弱小ですから、専務の私も時折軽トラを転がしておりますので」
「なるほど。そういうことでしたら是非お願いしたい。どんどんこき使ってやってください」
「それから、アニメの主人公をトラックの車体に描いて宣伝に使ったらどうか、とおっしゃってました。あと、トラックの外装をいじってスペースシャトルやロボットみたいにできないかとも。何とも独創的で私どもにはとても思いつかないことばかりです」
聞くんじゃなかった。私は愚息の軽率な発言について何度も謝りながら受話器を置いた。掌にも額にも汗がじっとり滲み出てきていた。




