22
軽トラに乗るのは久しぶりだった。
狭い車内。硬いクッション。くすんだフロントガラス。染みついた汗のにおい。全てが懐かしい。
四十歳手前、今の洋ぐらいの年齢まではしょっちゅう営業車や軽トラを使って取引先や仕入れ先を走り回っていたものだ。今思えばあの頃は会社の業績を上げること以外何も考えていなかった。人間、一つのことに集中しているときが一番充実している時だと思う。
先日まで私は何にも集中していなかった。毎日を退屈に過ごしていた。今日は何をしよう。どうやったら時間が早く進むだろう。そんなつまらないことを考えて過ごす毎日に張りなどあるはずがない。生きている感じがしなかった。それなのに間違いなく生きていて自分の時間の過ごし方に罪の意識まで感じていた。
真奈美と身体を重ねるようになって全てが変わった気がする。彼女を楽しませてあげたい。安心して眠らせてあげたい。そのことばかりを考えて過ごす一日はあまりに早く過ぎて一日が二十四時間では足りないぐらいだった。
そしてすぐに私は倒れた。無理が祟ったのは間違いない。しかし、そんな無理で失った命の長さなど全く惜しいとは思わない。無理をして得られた時間がこの老体には代えがたいものとなっていた。私はあのまま死んでも文句はなかった。人生の最終章にあんなに素晴らしい女性と時間を過ごせただけで僥倖だったと思う。
それでも私は生き延びた。その意味は何だ。そう考えたときに浮かんだ答えは一つだけだった。
真奈美はどこか遠くへ行こうとしている。まだ間に合うならそれを追いかけるべきだ。私のこれまでの人生を凝縮した幸せがそこにある。掴みとれるかどうかは分からない。しかし、あるのが分かっているのに追いかけないのなら死の淵から生還した意味がない。
運転する息子は楽しそうだった。にやにや笑いながらハンドルを握っている。
「母さん怒るだろうな」
「そうだな」
「熟年離婚されても文句言えないね」
「離婚か……」
「あ、今、そっちの方がいいなって思ったでしょ?」
あまりに正確に的を射られて、みぞおち辺りに衝撃を受けたように私は一瞬息が出来なくなった。吸った空気が変な風に喉に入り込み激しくむせ返る。
「ちょ、ちょっと、大丈夫?」
「あ、ああ。大丈夫だ」
私は咳き込みながらも時間を掛けて息を整えた。
「父さんも嘘がつけない人だね。そんなんだから年がら年中母さんといがみ合わなくちゃいけないんだよ」
「別にいがみ合ってるわけじゃない」
「息子の俺からはそう見えてたけど?」
「あれは単に幸子が一人でヒステリーになってるだけだ。私は相手にしていない」
「それがまた母さんを怒らせるんだよ」
困ったもんだという顔で苦笑する洋。私は今自分が息子に窘められたのだと悟った。意外に悪くない。
「洋」
「ん?」
「どうしたらいいと思う?」
「何が?」
「実はな、……結婚したい人がいるんだ」
以前洋から言われた言葉を少し冗談めかして使ってみた。そう言ったら洋がどんな顔をするか急に見てみたくなったのだ。しかし、口に出してみると気恥ずかしくて洋の顔を見ることはできなかった。ただ、見なくても洋が言葉をなくして呆然と送ってくる視線は痛いほど横顔に感じられた。
口調は冗談っぽくしたが、決して茶化したかったわけではない。こんな身体になってしまって真奈美との再婚などもはや叶いようもないだろうと自嘲気味になってしまったが、真奈美に対する気持ちに嘘偽りはない。この強い想いを私は真奈美以外の誰かに知っておいてもらいたかった。
息子の洋にとっては母親以外の女性に対する父親の恋情を聞かされるのは複雑な気持ちかもしれない。しかし、だからこそ私の胸の熱さも伝わると思った。私の命の灯は儚くいつ消えてもおかしくない。
もし万が一真奈美に会えないまま私が見まかっても洋が必ず真奈美を探し出してくれるだろう。そのとき洋が「父はあなたとの結婚を口にしていました」と語ってくれれば、真奈美は私と交わした言葉の一つひとつを思いだしそこに私の赤心を見出してくれるに違いない。
それにしても、息子は夫のいる女性と結婚したいと言い、親の私は妻がいるのに他の女性と結婚したいと言う。突拍子もないことを思いつく良く似た親子だ。
「そ……そこまで考えてたんだね。びっくりだな」
意外だったのは私の方だった。「そこまで」ということは、それには及ばないがその手前までは洋の想像の範囲内だったということだ。
「お前、何か感づいてたのか?」
「何かってことはないけど」洋は顎を掻きながら言葉を続けた。「絶対安静をおしてまでして退職を引き留めに会いに行くわけでしょ。いくら大事な秘書だからって普通はそんなことまでしないよ。だからこれまでの推測が今日確信に変わったってところかな」
「推測?」
「父さん、会長になったときにお気に入りのものを全部手放しちゃったでしょ。一番広くて眺めのいい社長室も知事からもらった揮毫も黒塗りのセルシオも。あのとき父さんはもう燃え尽きたんだろうなって思ってた。それでも中谷さんだけは手元に残したからよっぽど中谷さんのことが好きなんだなって誰もが思ってたと思うよ」
「そうか。みんながそう思ってたのか」
今さらながら顔から火が出るような思いだった。当時、社に残ることを周囲から懇願された私は二つのことだけを考えていた。
まず社長職への未練につながるようなものは全て手放してしまおうということ。そして一方で分身ともいえる真奈美だけは傍にいてくれないと難破船のように自分がどこから来てどこへ向かっているのか分からなくなってしまうということ。自棄気味だったこともあって自分の行動が周りの目からどう映るかまでは気が回らなかった。社内では私の真奈美への想いは公然のものとなっていたのか。
「しかし、結婚とはね」そのとき携帯電話が鳴り、洋はにやにや歪めていた口元をサッと引き締めた。「まあ、俺ももう大人だし、父さんが出した答えに無暗に反対はしないよ」
そう言って運転を続けながら電話に出る洋は確かに大人に見えた。電話の相手は部下なのだろう。慣れた口調で礼を言い指示を出す洋は立派な社会人だ。そして洋の手を借りて車に乗せてもらい運転を頼んでいる私は十分に耄碌した老人だった。
これが現実ということか。
先ほどのベッドの上では洋が生意気に見えたが今の私には怒りも嫉妬もない。それどころか誰かに委ねても良いのだというどこかほっとしたような安心感が私を温かく包んでいた。
前橋のカシミヤのコートは軽くて肌触り良く、車内の暖房も漸くきいてきて私をリラックスさせる。
携帯電話を胸ポケットに収め、洋がさらに眼差しに力を込めてスピードを上げる。
「中谷さん、大きなキャリーケースひいて部屋から出てきたって」
「何?」
「タクシーに乗って駅の方に向かってるみたいだよ。今、偵察代わりに出動させたうちの社員が配送そっちのけでタクシー追ってくれてる。また連絡くれると思う」
「そうか」
実家にでも引っ込むつもりなのか。それともあてのない旅に身を漂わせるのか。
どちらにせよ真奈美は誰にも告げず私と距離を取るつもりのようだ。やはり気を回し過ぎる真奈美は私に無理をさせたと自分を責め一人胸を痛めているはずだ。何とかまだ私の傍にいる間に引き留めて話をしたい。結論として別れを選択することになればそれはそれで仕方のないことだが、自分を責める必要はないということだけは私の口から伝えておかなければならない。今を逃せば直接会って話をする機会など死んでも巡ってこない。
死ななくて良かったと思った。あのまま死んでいては真奈美に一生の傷を負わせたままになるところだった。私が直接言葉で伝えることで彼女の傷を少しでも癒し、痕の残らないようにしなくてはならない。
軽トラに乗り込む前に洋が電話をしていたのを思い出す。あのとき恐らく真奈美の家のそばを配達中の部下に彼女の部屋を見に行くように伝えていたのだろう。野々村運送には迷惑を掛けて申し訳ないが洋の機転が私を救ってくれた。洋が頭を働かせていなかったらこのまま表札の消えたもぬけの殻の真奈美の部屋に辿りつきドアの前で空しく蹲るだけだった。
洋は「こっちから行くか」、「ここを曲がって」などと独り言を言いながら私の知らない細い生活道路を縫うように軽トラを走らせている。きっと駅へ向かう最短経路なのだろう。
「嗚呼。何でこのマシンは空を飛べないんだよ」
苛立たしげに指でハンドルを叩く洋に少し背中が寒くなる。この車は宇宙船ではない。ただの年季の入った軽トラックだ。洋はアニメのヒーローではない。宅配のおじさんだ。今、私がドライバーに期待することは道路交通法を遵守しつつ自分の能力をわきまえて運転することだ。
「安全運転で頼むぞ」
「分かってるよ。こう見えても配達でテクニックは鍛えられてるんだ。絶対に追いついてみせるよ」
任せといて、と力こぶを作る洋がやけに頼もしく見える。
「洋」
「ん?」
「ありがとう」
たった五文字を言っている間にグッと熱いものが胸に込み上げジワッと目が潤んでくる。この馬鹿息子に礼を言う日が来るとは思いもよらなかった。息子に心から感謝できるなんて親冥利に尽きる。
洋は、へへへっと眉尻を下げて人差し指で鼻の下を擦った。
「だが、どうしてこんなことまでしてくれる?」
「え?何かおかしい?」
「お前は私を憎んでいるんだろう?」
「憎んでなんかないよ」
笑って否定する洋。急にどうしたの、という顔でチラッと私を見る。
「お前は海老屋を出て行った。もう戻るつもりはない、と言い、転職先の今の会社では以前とは別人のような働きぶりだ。誰もが知らないうちに資格を取っていて、うちにいる間はその知識を使おうとはせず、転職後の名刺には堂々とそれをうたっている。つまりは私の鼻をあかせたいということだろう。お前の能力を見くびっていた私の目を節穴だと証明したかったのだろう?そして私はお前を蛯名グループに何とかして戻ってきてほしと思い始めている。そしてお前はすげなくそんなつもりはないと言うだろう」
洋の顔が急に険しさを漂わせ始めた。
「苦しかったんだ」唇を噛み身体を絞るようにして洋が発した言葉がそれだった。「父さんは偉大すぎたんだ。それに蛯名家の一人息子への重圧は大きすぎた。兄さんが亡くなってその圧力は何倍にも膨れたんだと思う。僕は物心ついた頃から自分の人生というものが自分のものじゃない気がしてた。用意された世界の中ではどれもこれも大きく見えた。戦う土俵が違う感じがしてたんだ。僕は小学生のころから毎日毎日逃げ出したいと思っていた。どうやったら世界から飛び出せるかってことばかり考えていた。だから……」
「だから?」
「憎んでたんじゃない。恨んでもないし、嫌いでもない。ただ、自分の世界を見てみたかったんだ。等身大の自分で、自分が持っている武器で戦える場所を探してたんだ。実際外の世界に出るのは怖かったけど今は毎日楽しいよ。海老屋では何を発言するにもびくびくしてたけど今は和気あいあいとしてて喋りやすいんだ。取ってはみたものの海老屋の役員のときには出番のなかった社労士なんかの知識も結構役に立ってるし。名刺に資格を書くのもみんながそうしてほしいって言ったからそうしてるだけだよ。会社に箔がつくって」
「戻ってくるつもりはないのか?」
「あんな啖呵切って逃げ出したのに自分から戻るなんて言えないよ」
「そりゃそうだな」
「今の会社で成功して大金持ちになって蛯名グループの株主になって、いつか乗っ取りに行くよ」
「それは楽しみだ」
馬鹿な話をしていると思う。あんなちっぽけな野々村運送で成功したところで蛯名グループの大株主になれるほどの栄達は望みようがないだろう。それに万が一道端を歩いていて躓いた石が何万年か前に地球に落ちた隕石だったというような幸運で日本を代表する大金持ちになったとしても私はその頃は墓の中だ。私がそれを見ることはできない。
それでも息子との夢の話はわくわくした。洋が常務として蛯名グループに残っていればこんな話題も「何を夢物語を」と叱りたくなっていたかもしれないが、今はどうしてか胸が躍り心が華やいだ。
絶対に叶わないものではない。今の蛯名グループは私一代で成し遂げたのだ。洋が持つ可能性だって無限大のはずだ。そう思えるのは私が洋を漸く一人の人間として尊重できるようになれたということなのだろう。これまでは上司と部下という立場が私の眼を歪めさせていたのかもしれない。
「私はこれまでお前にやってきたことを後悔していない」
「うん」
「だが、お前が私の態度に苦しめられてきたというのなら謝りたい」私はゆっくり頭を垂れた。「申し訳なかった」
洋は前を向いて黙ったまま運転を続けた。長い時間、沈黙が続いた。洋が一つ鼻を啜った。
「父さんに話したいことがあったんだ。誰にも邪魔されたくなかったから父さんが連れていってほしいところがあるって言ってくれたのは渡りに舟だったよ」
「話したいこと?」そう言えば、と思った。私も洋にミチのことを話しておかなくてはならない。「そう言えば私も言っておきたいことがある」
「何?」
「いや、お前のあとでいい」
ふーん、と言ったあと洋は少し顔を引き締めた。「実はさ、紹介したい人がいるんだ」
「カルーアちゃん似の人妻か?」
その子なら今うちで面倒見てるぞ、と言えば洋はどんなに驚くだろう。
「まあ、それはそうなんだけど」
「歩君のことか。あの子はいい子だ」洋は急に押し黙った。私が歩のことを知っていることに驚いたのだろう。洋の周囲の空気が少しずつ張り詰めていくのを感じる。あまり考えさせては可哀そうだ。種明かしをしてやらないといけない。「偶然だったんだ。お前が企画したフィギュアの特設会場の隅で独りぼっちでいるのを見かけてな、私から声を掛けたんだ。迷子かと思ったし、それからどことなくお前やお前の兄貴に似てる感じがしてな。そうしたら……」
「父さん」洋が私の説明を遮るように強く声を発した。「歩は俺の子なんだ」
「何?」
その驚きはあまりに深く、胸が破裂しそうなほど心臓が激しく弾んだ。喉元に杭を刺されたように喘いでも酸素を取り込めない。後頭部から意識という名の何かが抜き取られそうな感覚があって気を抜けば瞼を閉じそうになる。
次の瞬間急ブレーキが踏まれ、座席から放り出されそうになる身体にシートベルトが強く食い込んだ。強烈な反動で頭がヘッドレストに叩きつけられる。ガッという音とともに突然鼻から息ができるようになり、それに伴って薄らいでいた意識がはっきりする。
同時に私の中で迷路の出口と入り口が繋がった感覚があった。
有賀歩が蛯名歩に似ていたのはそういうわけだったのか。
「父さん、大丈夫?」
「……殺す気か」
「ごめん」
そのとき洋の胸で携帯電話が着信を知らせる。素早く電話に出た洋の顔が曇る。「タクシーが駅に着いちゃったって」
私は思わず目を閉じた。もはやここまでか。
洋が「十分だけ何とかして改札前で時間を作ってもらって」と部下に無茶を言っている。相手に有無を言わせないような感じで電話を切って「行くよ」とアクセルを踏み込んだ。
道路の案内標識に駅の名前が出てくる。真奈美は近くにいる。
「俺も知らなかったんだ。ミチからこないだ聞かされて」洋は前を睨みつけながら淡々と呟くように言った。「父さんは怒るかもしれないけど、ミチは昔、風俗で働いてたんだ。そのとき本当はまだ十六歳だったけど高卒って嘘ついてて。それで俺がミチに入れ込んで、何とか付き合ってもらえることになった。でも、その風俗店の怖い人に脅されて、ミチからも別れようって言われて、ある日突然ミチの部屋はなくなっちゃってて。でもそのときにはミチは俺の子を妊娠してたみたい。それから俺はずっとミチのことが忘れられなくて探し続けてたんだ。漸く見つけたときにはミチは人妻になってた。さすがにもう諦めようかと思ったんだけど、久しぶりに会って話したミチはすごく苦しそうだった。夫に暴力振るわれてた。俺は、別れちゃえよって言った。逃げて来いよって。ミチはこれまで私と歩に居場所をくれてた恩を仇で返すようなことはできないって。だからさ……」
「だから?」
「明日、俺、殴られてくるよ。頭下げて、世の中きれいごとじゃ済まないから必要ならある程度金も積んでさ。もちろん弁護士を通すけど。それでケリがついたら、父さん」
「ん?」
「俺、ミチと結婚したいんだ。いいかな?」
不意にミチが我が家を前にして問いかけてきたことを思い出す。あのとき私は死ぬまでミチの味方をすると決めた。私に残された時間はもう長くはないが、味方として何か一つだけでも彼女のためにしてあげたいと思う。
前方に駅が見えてきた。
「ミチちゃんは何て言ってる?」
信号を越え、ロータリーに入ると野々村運送と書かれたトラックが停車していてハザードランプを点滅させているのが見えた。
「父さんと母さんがオッケーしてくれたらって」
「私はミチちゃんの味方だ。それに幸子は歩君を気に入ってる」
洋ははにかんだように笑うと車を停め荷台に回った。
左手でドアを開けると寒風が吹きこんでくる。私は首をすくめながらゆっくり足を車外へ滑らせた。左足だけで何とか立つことはできたがすぐに身体がふらついてしまう。右足の感覚は全くないわけではないが実に心もとない。車椅子を押しながら近づいてきた洋に腕を支えられた。
「ちょっと、困りますよ」
声の方を見ると駅員が駆け寄ってくる。確かにロータリーに一台ならまだしも二台も同じ運送会社が駐車するのは黙認できないだろう。しかし、車椅子に私が腰を下ろすのを見ると口を閉じた。
こういう公的な機関は障害者に強くは出ない。
「すぐに移動しますんで。申し訳ないです」
洋が何度も頭を下げると、駅員はロータリーの隅を指差し障害者用の駐車場を案内して去っていった。
洋が駅員と喋っている間に私は駅の入り口を目指すべく車椅子のタイヤに手を掛けた。と言っても右手が思うようにならない状態ではまともに前に進めない。歯を食いしばり左手に力を込め漸くよろよろと動き出した車椅子はあえなく右へ回り始める。そのまま軽トラにぶつかりそうになって不意に車椅子の向きが修正される。
「急ごう」
洋が後ろから力強く車椅子を押してくれる。
歩道のちょっとした凹みに車椅子が大きく揺れて身体が投げ出されそうになるのをこらえる。
やがて駅の構内に入ると改札や切符売り場があるフロアまで階段が続いていた。
「エレベーターは……」不意に立ち止まって洋が辺りを見回す「あれか」
エレベーターに向かって押し進められている間にも私は真奈美を探した。
彼女はどこだ。どこにいる。
しかし、血眼になって探してもこのフロアには大きなキャリーケースをひく女性の姿は見当たらない。
扉が開き箱の中へ。洋が車椅子の向きを反転させて私の身体が扉と正対する。
次、この扉が開けばそこに真奈美がいるのか。静かに胸が高鳴った。
私は彼女に何を伝えれば良い?
愛している、なんて今さらのような気がする。行かないでほしい、と懇願しても良いのだろうか。僕は死にません、なんて何年前のドラマなんだ。それにもう何年も生きていられる自信がない。
自分をさらけ出すしかないだろう。私の今の姿を見てもらって、「君を想えばもう一度歩けそうな気がする」と言いたい。本当に自分の足で歩けるようになるかどうかは分からない。しかし勝手な言い分だが彼女の存在が私の生きる意味なのだ。
そして、真奈美とのことを幸せに想っていることを伝えたい。もう死んでも良い程に満ち足りた気持ちになれていたということを分かってほしい。生命を落としそうになったが、それでも死ななかったのはもう一度真奈美と言葉を交わしたいという気持ちが強かったからだということを信じてもらいたい。
チャイムが鳴り扉がゆっくり開く。
私は左胸に手を当てた。心臓は強くしっかりと打っている。まだ生きている。
洋の力によって私は二階のフロアに出た。辺りを見回していると、頭上で洋が吹き出したのが聞こえた。
私はすぐに真奈美を見つけることができた。
待合室の扉の前で大きなキャリーケースを脇に髪の長い女性がこちらに背を向けて立っている。その女性に軍服のような格好をした恰幅の良い男性が何度も頭を下げている。場違いな軍服男を叱咤するキャリアウーマン。二人は明らかに浮いていた。
「似合わねえなぁ」
「何だあれは?」
「うちの新しい制服の試作品だよ。アニメの中ではみんなかっこいいんだけど、あのデブにはちょっと似合わなかったな」
「お前もあれを着るのか?」
「そうだよ。もう少し動きやすさを重視して改良するけどね」
だから何なんですか、と真奈美の声が聞こえる。怒っている彼女の声は凛としていてこちらも背筋が伸びる。私も彼女に叱られるのは間違いないだろう。彼のように何度も頭を下げるつもりだ。
洋に車椅子を押してもらい真奈美と指呼の間にまで近づいてきて私は思った。真奈美は花だ。私の人生に一番彩りを添えてくれたのが彼女だ。彼女の後姿を見ているだけで私は力が漲ってくるのを感じた。久しく忘れていた何があっても前進するという豪胆な気力が全身に充溢して私を突き動かそうとしている。
私は地面に落ちる寸前に最も明るく火花を飛び散らす線香花火が脳裏に浮かび上がった。今の私はまさにあのようなものだろう。それで良い。我ながらよくぞここまで自分を運んでこれたものだ。
私は洋に立たせてくれるように頼んだ。洋に抱えられるようにして立ち上がる。洋に右側を支えられてはいるが、何とか自分の両足でその場に立つことができた。
「あ、副社長!」
救われたような顔つきの軍服男の視線を追って真奈美がゆっくりこちらを向く。スローモーションのように彼女の長い髪が揺れる。
彼女の淡く朱に染まった瞳がすぐに大きく見開いた。手で口元を覆い、キャリーケースが床に大きな音を立てて倒れた。彼女の瞳に見る見る涙が盛り上がりすぐに目尻の方に溢れ出る。彼女は私の足元に座り込み声を上げて泣き崩れた。
私は左手を差し出し彼女の頭をポンポンと愛をこめて優しく叩いた。
しっかり見てくれ。君を想っていたからこそ生き延びることができた私の姿を。ぼろぼろになってもまだ生きている。私は自分の足でここに立っているんだ。




