9話 互いの心を知る
オーケストラの迫力ある音楽が、人々の笑い声を掻き消していく。
「……ッ、…ふ、…っ」
警備の騎士たちの視線をも振り切って、ローラが身を隠すために辿り着いたのは、庭園の中にひっそりと佇むガゼボだった。
ローラは声を殺して泣いた。胸の奥を蝕む、嫉妬という醜い感情を無かったことにするために。
ローラにとって、カイルは初めて家族の温もりを教えてくれた人だった。何一つ持たない自分を、無条件に優しく包み込み、支えてくれる人だった。そんな、唯一無二の存在をどうしても失いたくなかった。カイルがデビュタントの招待状を持って来た日から、ローラは薄々気付いていたのだ。自分がカイルをどう見ているのかを――。
それは、心優しい兄の気持ちを裏切る感情なのかもしれない。何も持っていない自分が、トリアント王国を守る騎士団団長であるカイルに想いを寄せるなど、どう考えても許されない。その罪悪感が、ローラの心を深く傷つけていた。
「…っ、ううっ、…ッ…」
ローラは呼吸さえ忘れてしまいそうなほど、強く締め付けられる胸の痛みに涙を流した。苦しくて、悲しくて、どうしようもなく胸が痛む。そして、これこそが恋なのだということを知る。
「ローラ…っ!」
ガゼボの床に泣き崩れるローラを呼ぶ声は、酷く切迫していた。
夜の闇を切り裂くように素早く駆け寄ったカイルは、コートを脱ぎ捨てると、涙に濡れたローラをすっぽりと包み込む。
「……こんなところで、何をやってるんだ」
濡れた頬を優しく撫で、ひょいと華奢な体を抱き上げる。その行動に一切の迷いはなかった。
(……ッ…っ、)
ローラはカイルの確かな腕の温もりに身を預けた。出会った日から、自分を見つめる瞳はいつも優しかった。そして今、ローラを見つけたカイルの瞳にも、変わらない深い愛しさが浮かんでいる。
デビュタントの会場で、二曲目を踊るローラを見つめていたカイルは、初めて覚える強烈な嫉妬に身を持て余していた。
相手が実の弟であるアンドレだと分かっていても、他の男の手を取り楽しそうに微笑むローラの姿に、背筋が震えるほどの強い苛立ちを覚えたのだ。キラキラと輝くシャンデリアの下、ドレスアップした美しい彼女を「頼れる優しい兄」の仮面を被って見守るなど、もう耐えられなかった。
美しく愛らしいローラは自分だけのものだ。自分以外の誰にも触れさせたくない。そう主張する本能に気付いた瞬間、カイルは躊躇うことなくホールを飛び出した。高位貴族の令嬢たちなど構っていられなかった。
今夜、兄と妹という関係でいられなくなってしまったとしても、この感情を抑えるつもりも、誤魔化すつもりもない。カイルはローラの姿を見失わないように走りながら、そう誓っていたのだ。
「王都迎賓館へ向かってくれ」
ローラを抱いたまま馬車に乗り込み、大切そうにしっかりと肩を抱き寄せながら、カイルはきっぱりと言い放つ。
驚いたように見上げるローラの目元へ、癒すように唇が落とされた。それは、明らかな情愛のキスだった。
――!?
「…っ、ん…!」
何事か言いかけた唇が塞がれる。二度、三度と触れるだけのキスが降り注ぎ、口紅を奪っていく。ちゅ、と甘い音が響く頃には、二人は深い口付けを交わしていた。
〝迎賓館へ向かってくれ〟
その言葉は、今夜はもう屋敷には戻らないという無言の宣言だった。夜の社交場として濃厚な大人の空気が漂う迎賓館へ連れて行くことは、もはや妹としてではなく、一人の女性として愛すると決めた覚悟の表れに他ならない。
「ん、…っ、」
ローラが身動ぐと、カイルの逞しい腕が「逃がさない」とでも言うように強く引き寄せる。酸欠になりそうなほどの息苦しさと、初めて知る激しい高揚感に、ローラの瞳にうっすらと涙が滲んだ。
「……ゆっくりと、息を整えろ」
濃厚な口付けを解き、カイルがぞっとするほどの男の色気を纏った低音で囁く。馬車という密室で、これ以上ないほど体を寄せ合った二人は、胸の奥がじりと焦げるような熱を孕んだ瞳で見つめ合った。
やがて、ガタガタと音を立てて走っていた馬車が目的地へと到着する。
「は、…っ、…」
ようやく緩められた腕の中から、カイルは名残り惜しげにローラの髪へ口づけを落とした。扉が開き、そのまま彼女を腕に抱いたまま馬車を降りる。
「明日、昼頃に迎えに来てくれ」
御者にそう告げ、初めての口付けに顔を真っ赤にして戸惑うローラをゲストルームへと運ぶ。テールコートに身を包んだ紳士がドレス姿の女性を抱きかかえている姿に、迎賓館の従僕は「訳あり」と即座に察した。余計な詮索をせず、専用のルームキーをテーブルにそっと置くと、静かに扉を閉めてその場を去っていった。
カイルは豪奢なベッドへ、ローラを優しく横たえる。鍛えられた体で覆いかぶさると、スプリングが重く軋んだ。
「…もう、俺はお前の兄ではいられない。ローラ、お前を愛している…」
「…ッ、…お兄さま…っ…!」
赤く染まった目元があまりにも愛おしく、カイルは手袋を外すと、大きな掌でローラの頬をそっと包み込んだ。薄暗い部屋を淡く照らすランプの炎が、抑え込んでいた劣情を煽っていく。
無防備に曝け出された華奢な肩と、解けかけた美しい髪。鼻先を掠める、清潔なライラックの甘い香りに誘われるように、耳元へ唇を落とした。滑らかな肌へと指先を滑らせ、その柔らかさを確かめる。
「……そんな顔で俺を見つめるな。これ以上、お前に触れたいと思ってしまう。ローラ、俺はもう我慢できない……。分かるか? 俺は、もうお前の兄ではいられないんだ……」
苦しげな、けれど甘い声色でカイルが囁く。
「…ッ、お兄さま…ッ」
初めて聞く欲を孕んだ声に、ローラの肩が微かに震えた。逞しい背中に細い腕をゆっくりと回し、胸いっぱいに広がる歓喜に身を任せて、カイルへと縋りつく。夜の帳が、二つの影を優しく、そして熱く覆い隠していった。
もう、兄妹ではいられない。それが、たどり着いた二人の答えだった。




