10話 二人だけの時間
耳の奥に残る残響は熱を孕み、何度も名を呼ばれるたびに胸の奥が甘く疼いた。剥き出しの想いをぶつけ合い、互いの温もりを確かめ合う時間はあまりにも鮮烈で、心の奥底に押し込めていた恐怖さえ静かに溶かしていく。
隠していた弱さを優しく暴かれ、逃げ場のないほど近い距離で囁かれる言葉に、迷う時間など残されてはいなかった。
普段は、大きく温かな掌で頭を撫でられるだけで十分幸せだった。彼の腕の中だけは、安全な場所だと知っていたから。どんなに情けなくても、弱くても、ありのままの私を受け止めてくれる。華奢な身体を幼い子どものように軽々と抱き上げ、慈しむように包み込んでくれるその腕が、自分だけを大切に扱ってくれることが、ただ嬉しかった。
向けられる穏やかな笑顔に守られる幸せを、私は初めて知った。初めて出会った日から、彼は特別だった。それまで出会ってきたどの男性とも違い、身分の高さを鼻に掛けることもなく、誰に対しても分け隔てなく接する。虚勢を張ることも、威張ることもない。
思慮深く温厚で、何事にも真摯に向き合いながら、その真面目さを決して押しつけがましく感じさせない爽やかさがあった。
騎士である彼は、弱き者を守ることを当然の務めと考え、幼い子どもや力のない者へ自然と手を差し伸べる。鍛え上げられた温かな身体も、清潔な石鹸の香りも、節だった長い指も、私に安心と温もりを与えてくれるだけのものだった。
危機感を覚えたことなど、一度もなかった。共に過ごす時間が増えるほど心の距離は自然と近づき、その幸せは日に日に色濃くなっていった。
対外的な事情から兄妹として暮らすようになっても、不自由を感じたことは一度もない。
彼の笑顔はいつも穏やかで優しく、その笑顔を一番近くで見られることが、私にとって何よりの幸せだった。
祖国メテオリア王国で過ごした孤独な日々が嘘だったかのように、トリアント王国へ来てからは、不安で眠れない夜が訪れることもなくなった。
『俺はもう、お前の兄でいることができない……』
苦しげに紡がれたその言葉。見たこともないほど熱を宿した瞳の奥には、理性だけでは抑え切れない想いが揺れていた。血の繋がった兄妹ではない。
それでも彼は、最後まで保護者であろうとしてくれた。煩雑な手続きも厭わず、身元不詳だった私に高位貴族という確かな後ろ盾を与えてくれた。だから私は、何も恐れずに過ごしてこられた。柔らかな真綿に包まれるような安らぎの中で、ずっと守られ、愛されていたかった。それこそが、胸の奥に隠していた本当の願いだった。
誰よりも強くあろうとする彼、皆から頼られるその逞しい腕の中という特別な居場所を、誰にも渡したくなかった。
甘く囁く声も、諭すような穏やかな低音も、自分だけに向けられる愛情であってほしかった。高位貴族という立場が国にとってどれほど重要なのか、王立騎士団団長という地位がどれほど重い責任を背負うものなのか、王族として育った私には、その重みが痛いほど理解できた。
彼には侯爵家を支えるに相応しい高位貴族の令嬢が必要であり、それが政略結婚であったとしても、それが正しい道なのだと理解していた。
彼にとって妹のような存在である私が、その未来に口を挟む資格などあるはずもない。だからこそ、嫌だったデビュタント・ボールへの参加も決意した。彼の役には立てなくても、せめて迷惑だけは掛けたくなかったから。
そんな私の臆病な決意を、侯爵家の人々は温かく受け止めてくれた。華やかなドレスを用意し、美しい装飾品を贈り、笑顔で送り出してくれた。そして私は、公の場で初めて見る彼の姿に目を奪われた。
屋敷で見せる穏やかな表情とは違う冷静で隙のない眼差し。堂々と自らの考えを語る姿、洗練された立ち居振る舞い。
そのすべてが、高位貴族として、そして王立騎士団団長として認められた男の風格を物語っていた。その瞬間、私は兄ではなく、一人の男性として彼を見つめていた。腕を取り、互いの体温を感じながら踊る一曲は、夢のように幸せだった。だからこそ、この穏やかな関係のままでいたかった。妹として守られる安心も、恋人として愛される幸福もどちらも欲しかった。
欲張りだと分かっていても、そのどちらも誰かに譲ることなどできなかった。私だけを見ていてほしい、優しく甘やかしてほしい。そして、ただ一人の特別として、その瞳に映っていたかった。溢れ返る感情に心は追いつかず、私はただ泣くことしかできなかった。
それでも彼は、もう迷わなかった。決して逃がさないというように抱き寄せられ、その温もりに包まれた瞬間、張り詰めていた心は静かにほどけていく。彼以外のことなど何も考えられなくなり、幾度も押し寄せる感情の波に身を委ねながら、私は初めて、誰かに愛される幸せを知った。
「俺の、ローラ……」
ぼんやりと霞む視界の中で、困ったように微笑む彼の眼差しは、どこまでも優しかった。胸の奥が、きゅっと甘く締め付けられる。これが愛し合うということ。互いを求め合い、互いだけを必要とする幸せなのだと、私はその夜、ようやく身を持って知ることが出来た。




