3話 目が覚めたらそこは見知らぬ場所だった
何だろう、この香り。鼻先を擽る甘く爽やかな薬草の匂いがする。どこか、懐かしい香りだ。そう、以前寝る前に安眠効果があるからと枕元に置いていたポプリのような香りがする。
ーーあれ、薬草ッ?!
ぱちっと目が覚めると霞んでいた視界がゆっくりとクリアになっていく。見た事のない天蓋に数回瞬きをしてみる。そよそよと柔らかな風が肌を撫でる感触にふ、と視線を向けるとそこには、鍛えられた体を窮屈そうに屈め居眠りをしている男性がいた。
「…ヒッ…!」
思わず、短い悲鳴ともつかない声を上げてしまうとびくりと大きな肩が揺れ、居眠りしていた筈の男性が目を開けた。そのまま、勢い良くガバッと立ち上がり顔を覗き込まれる。
「××、×××?!」
ーえっ。
そこで、絶句する。
黒い瞳が印象的な男性が気遣うような仕草を見せ、何事か私に聞いているのだろうという事は伝わる。でも、悲しきかな。目の前にいる男性が発した言葉は今まで一度も聞いた事のない言語だった。
呆然と目の前の男性を見上げていると、訝しげな表情の後に、ハッとしたように彼もまた状況を把握したのか、唖然とした顔になる。
私と彼は暫く、なす術もなく黙ってお互いを見つめていた。黙ったまま固まっている私の肩を指先で軽くトン、トン、と叩くと彼はそっと私の額に手を添えた。どうやら熱を測っているらしい。
彼は私が熱を出していないことを確認すると、安堵の表情を浮かべた。それから、にっと男らしい笑顔を見せると近くにあったベルを鳴らし、使用人らしき人物にスープと果物のような物を運ばせた。
静かに成り行きを見守っていると、この見知らぬ男性はそれなりの身分のようで使用人にあれこれ指示を出している。再び彼が私にそっと近付くと、トン、トンと指先で軽く肩を叩く。ん?と、彼を見上げると大きな掌が背を支えゆっくりと体を起こしてくれた。
私が驚いて、ぱち、と瞬きをすると彼は優しい笑みを向け、使用人が用意したスープと果物らしき物が乗ったトレーを小さなテーブルに乗せてベッドにセッティングしてくれる。
銀色のスプーンを差し出すと食べろ、というジェスチャーをして見せた。本来なら、見ず知らずの人間が出す食事など手をつけるべきではない。しかも、言葉もわからない異国の地となれば尚更だ。しかし、丁寧かつ親切に接してくれる目の前の男性に私は警戒することが出来なかった。
穏やかな笑みをたたえ、見つめてくる紳士的な彼の姿勢に握った銀スプーンでスープを飲んでみると、仄かな甘味をもつ穀物の味がした。スーッと胃に染み渡る温かなスープに緊張で強張っていた体が解れていく。口内に広がるスープの味を堪能しながら完食すると、それまで私の食事を見守っていた彼が緑色の皮に包まれた実を剥いてくれる。掌サイズほどの実は白くつるりとした丸みを帯びていた。初めて目にする食べ物にどうやって食べるものか悩んでいると、彼は真剣な眼差しを緩ませ、皿の上にあった実を一つ取りもう一度皮を剥き白い果実へかぶりついた。
ー?!
ニコッと男らしい眉を下げて笑う彼の仕草に、意を決して白い果実を噛んでみる。すると、口内に甘酸っぱい果汁が広がった。弾力のある食感と果肉から溢れる果汁にこく、と実を飲み込むと彼は嬉しそうな表情へと変わる。
あまりにも真っ直ぐな瞳で見つめられてしまい、思わず頬が熱くなる。何とか出された食事を済ませると彼は再びトン、トンと指先で私の肩を叩き、大きな掌で背を支えるとベッドへ寝かせてくれた。
「××××。」
ぼそり、と呟いた言葉の意味は相変わらず解らないけれど黒く光る瞳が優しい色を宿していて、真っ直ぐ見つめる温かな眼差しに彼が紳士であり、温厚な人物である事が伺えた。さら、と大きな掌で柔らかく頭を撫でられるとまるでまじないにでも掛かってしまったかのように、安心することが出来る。
ふと、彼の手元へ視線を落とす。
大きくて温かな手だった。けれど、よく見ると指にはいくつもの小さな傷が残っている。剣を握る者特有の硬くなった皮膚、手首に残る古い傷跡。
この人は、ただ裕福な身分の人間ではないのだろう。見ず知らずの私を助け、こうして親切に看病までしてくれている。その上、温かいスープや美味しい果物まで食べさせてくれるのだから、普段から人助けをしているのかもしれない。言葉も分からず、ここがどこなのかさえ分からない。
それでも、不思議と怖くなかった。むしろ、息吹の鏡池へ落ちてから初めて感じた安心感に、張り詰めていた心がゆっくりと解けていく。
『……ありがとう』
届くはずのない言葉を小さく呟くと、彼は意味を理解していないはずなのに、なぜか優しく微笑んだ。
あの息吹の鏡池に落ちた後、一体何が起きてこの言葉が通じない場所にいるのか、状況は不透明なままだったが取り敢えず、面倒を見てくれている人物は悪い人では無いらしい事が分かっただけで、落ち着いた。ぬくぬくとベッドに身を沈め、私は心地良い眠りに意識を奪われていった。




