16話 待つ者と戦う者
「……カイル様、夜は寒くないですか」
ローラは寝室の窓辺に立ち、澄み渡る冬の月を見上げていた。薬指には、カイルとお揃いの結婚指輪が静かに輝いている。カイルが出陣してから、どれほどの月日が流れただろう。
昼間は研究に没頭し、商団との打ち合わせや薬の製造に追われていれば、寂しさを忘れていられる。
けれど夜になると、その想いは堰を切ったように溢れ出してしまう。広い寝室。二人で過ごしていたはずの部屋は、今では静まり返り、時計の針が刻む音だけが虚しく響いていた。
どれほど帰りが遅くなろうと構わない。一年でも、二年でも待ち続ける自信があった。ただ、生きて帰ってきてくれるのなら、それだけでいい。ローラにとって、カイルは唯一無二の存在だった。温かな笑顔も、優しく頭を撫でてくれる大きな手も、自分を丸ごと包み込んでくれるような真っ直ぐな愛情も、そのすべてが今では恋しくて堪らない。それでも戦場の様子を知る術はない。
昼間は研究室へ足を運び、セドリックと薬の調合を続ける。戦場へ送られる高濃度ポーションや治療用軟膏は日に日に注文が増え、そのたびにローラは自ら品質を確かめ、一つひとつ丁寧に送り出していた。
「この薬が、一人でも多くの命を救ってくれますように……」
小さく祈りを込めながら木箱へ手を添える姿を見て、セドリックはローラに敬意を抱いていた。
「ローラ様のお薬のおかげで、多くの兵士が前線へ復帰できています」
そう報告を受けるたび、ローラは嬉しそうに微笑む。だが、その胸の内ではいつも同じ願いを繰り返していた。どうか、この薬がカイル様率いる第一騎士団にも届いていますように。戦場のどこかで傷ついた騎士を癒やし、その中にカイルがいたなら。そう思うだけで、薬を作る手に自然と力が入る。
屋敷へ戻れば、使用人たちは以前と変わらぬ笑顔で迎えてくれる。誰もがローラを心配し、少しでも笑顔になってもらおうと気遣ってくれていた。だからこそ、ローラは人前では決して涙を見せなかった。
侯爵家の後継者の留守を預かる者として、そしてカイルが安心して帰ってこられる場所を守る者として、自分まで弱音を吐くわけにはいかない。
「お帰りなさい」と笑って迎えられるその日まで、この屋敷を守り続けよう。それが今の自分にできる唯一の役目なのだと、ローラは心に言い聞かせていた。けれど夜の静寂だけは、その決意さえも脆く崩れてしまいそうになる。誰にも見られない部屋で一人になると、張り詰めていた心は糸が切れたように揺らぎ、昼間は必死に堪えていた寂しさや不安が胸の奥へと広がっていく。王都では遠征の好景気に沸き、商人たちが行き交い、王家や魔法院も慌ただしく動いている。
しかし、王立第一騎士団の戦況が公にされることはなく、ましてやルクシオン侯爵家へ詳細な軍事情報が届けられることもなかった。その現実が、ローラの胸を締めつける。もし、ここが祖国メテオリア王国だったなら。王族という立場を利用し、少しでも戦況を知ることができたのだろうか。そんな考えが脳裏を過ぎり、ローラは小さく首を振った。今さら過去を悔やんでも意味はない。今の自分は、トリアント王国のルクシオン侯爵夫人なのだから。
『なぁ、ローラ。そんなに思い詰めた顔をしなくていいんだぞ?』
ふと、遠い日の記憶が蘇る。それは、まだお互いの距離感が掴めずに、少しずつ距離を縮めていた頃のことだった。孤独に慣れていたはずの自分が、カイルという温もりを知った途端、失うことへの恐怖で臆病になってしまう。そんな不安定な心を、カイルは大きな両手ですべて包み込んでくれた。
『お前を助けたのは俺だ。何があっても、お前を一人になんてしない』
あの時、穏やかな笑顔でそう告げたカイルの優しい声が、今でも鮮明に蘇る。現実の冷たい空気の中でその温もりを思い出せば出すほど、胸の奥が締めつけられ、熱いものが込み上げてきてしまう。離れ離れになった今こそ、カイルという存在の大きさを思い知る。それは、ローラにとって初めて感じる喪失感だった。
その日、研究の手を休めたローラに、セドリックが淹れたてのハーブティーを差し出した。
「ローラ嬢、最近少し顔色が優れないよ。あんまり根を詰めすぎないで、たまには息抜きしないと駄目だよ」
その気遣いに、ローラはカップを受け取りながら静かに口を開く。
「……セドリック様。カイル様は今、どんな風に過ごしていらっしゃるのでしょうか。怪我などされていないか、戦場は寒くはないのか、そう考えてしまうと、どうしても眠れなくて…」
セドリックは複雑そうな顔を浮かべながらも、どこか確信に満ちた笑みを見せた。
「あのカイル騎士団長が最愛のローラ嬢との約束を破る訳ないよ。彼の瞳に映るのは、いつだってローラ嬢だけだ。だから、心配しなくても、カイル騎士団長は絶対に戻ってくるさ」
「……はい…」
その言葉にどれほど救われただろう。セドリックの言葉を信じたい。信じなければ、この押し潰されそうな不安に心が負けてしまいそうだった。
その頃、遠く離れた最前線の夜営地でも、一人の男が最愛の妻ローラを思い浮かべていた。長期化していく戦場で、疲労感を少しでも和らげてくれるのは、ローラと過ごした時間だった。漆黒の外套を纏ったカイルは、左手の薬指にはめられたローラとお揃いの結婚指輪へと静かに指を添える。
負傷した兵士達の傷を治す薬が王都から届けられる度に、その薬を作っているのがローラだと実感する。その度に、疲れ切ったカイルの心は癒えていく。自身の勝利と帰還を信じて疑わないローラの献身がそこにあった。
王都から薬剤が届く度に、ローラからの手紙が届けられる。その内容は、カイルの無事を願うものばかりだった。そして、最後にはただ、無事の帰還を待っていると書き添えられている。
本当は寂しがり屋のローラからの手紙には弱音は一切書かれていない。ただ自分を気遣う言葉だけが綴られていた。カイルはローラからの手紙を読む度に、必ず、生きて帰る。そう、固く誓いを立てる。その決意だけは、何があっても守り抜く。カイルはゆっくりと拳を握り締め、静かに空を見上げた。
離れていても、二人の想いだけは決して途切れることはない。
「団長。出撃命令です。」
副官の声に、カイルは静かに頷く。こうして、カイルの短い休息は終わりを告げた。
「ああ、行こう。」
左手の薬指に輝くお揃いの結婚指輪をもう一度見つめると、彼は静かに外套を翻した。
愛する者の待つ場所へ帰るために。その剣技を振るう理由は、もう一つしかなかった。遠く離れた空の下二人は互いを想い合いながら、相手の無事だけを願っていた。




