15話 離れ離れの夜
秋の訪れを待っていたはずの王都は、気付けば吐く息も白く染まる冬を迎えていた。皮肉にも、アルカロド帝国との戦争はトリアント王国に大きな変化をもたらしていた。
西方戦線では激しい戦いが続いていたものの、東方諸国は静観の姿勢を崩さず、王家はマーラ教国との新たな魔導条約の締結に成功する。さらに、王立魔法院が開発した魔導技術や薬剤は各国から高い評価を受け、王都では魔導工房の稼働が昼夜を問わず続いていた。
ローラとセドリックが共同開発した高濃度ポーションや傷の治療薬の軟膏も、王家の許可を受けた商団を通じて国内各地へ届けられ、多くの兵士や民の命を救っている。
戦争という悲劇の裏側で、トリアント王国の経済は遠征需要によってかつてない活況を迎えていた。王都の市場には各国から商人が集まり、宿屋や酒場は連日満席となる。魔導鉱石や薬草、火薬の原料までもが高値で取引され、街には活気が溢れていた。
しかし、その賑わいを目にするたび、ローラの胸にはぽっかりと穴が開いたような寂しさが広がる。どれほど街が賑わおうとも、彼女が待ち望む人だけは帰ってこないのだから。
「ただいま戻りました」
商団との打ち合わせを終えたローラは、薬草の研究資料を抱えたまま侯爵家の屋敷へ戻った。
「お帰りなさいませ、若奥様」
使用人たちは以前と変わらぬ笑顔で迎えてくれる。
「ローラ様、本日も商団の皆様から追加注文が届いております。傷薬と高濃度ポーションの増産依頼です」
「ありがとうございます。すぐに研究室で確認いたしますね」
ローラは穏やかに微笑む。
自分が作る薬が誰かの命を救っている。それだけが、離れた戦場にいるカイルを支えられているような気がしていた。研究室では、王立魔法院主席魔法師セドリックが山積みになった注文書を前に肩を竦めていた。
「ローラ嬢、これ全部追加注文だよ。もう商団の人たちが毎日のように来るんだけど」
「そんなにですか?」
「うん。前線の兵士だけじゃなくて一般向けにも欲しいってさ。王都中で評判になってる」
「皆さんのお役に立てているなら嬉しいです」
ローラは微笑みながらも、その瞳はどこか遠くを見つめていた。セドリックも、その理由を知っている。
「……カイル団長なら大丈夫だよ…」
ぽつりと呟かれた言葉に、ローラは静かに顔を上げた。
「あの人は誰よりも強い。それに約束したんだろ?」
「……はい」
「だったら帰って来るさ」
その一言だけで、ローラは少しだけ心が軽くなった。それでも夜になると、不安は容赦なく押し寄せてくる。ローラは窓辺に立ち、冬の夜空に浮かぶ月を見上げた。薬指にはカイルから贈られたお揃いの結婚指輪が静かに輝いている。
「……カイル様。」
誰もいない部屋でその名を呼ぶ声は、冬の静寂へと溶けていった。遠く離れた戦場では今も尚剣技が轟き、王都では一人の侯爵夫人が夫の帰りを待ち続けている。互いを想い合う二人にとって、その冬はあまりにも長く、あまりにも遠かった。
けれど、ローラがただ待っているだけの日々を過ごしていたわけではなかった。カイルが守る戦場へ少しでも力を届けるため、彼女は毎日研究室へ籠もり続けていた。新たな薬の調合、負傷兵の報告をもとにした治療薬の改良、魔力消費を抑えるための錬金術式の研究。眠る時間を削るほど研究に没頭するローラの姿を、周囲の者たちは心配していた。
「若奥様、少しはお休みくださいませ」
ある夜、研究室へ温かな飲み物を運んできたハドソンが、優しく声を掛ける。
「ありがとうございます。でも……」
ローラは机の上に並べられた薬瓶へ視線を落とした。
「これが、カイル様のいる場所へ届くかもしれないと思うと……止まることができないんです」
カイルがどれほど危険な場所で戦っているのか、ローラは知っていた。王国最強の騎士であっても、戦場では一人の人間だ。傷つくこともある。苦しむこともある。だからこそ、自分にできることを諦めたくなかった。
「旦那様は、きっと若奥様の想いを受け取っておられます」
ハドソンの言葉に、ローラは静かに微笑んだ。カイルが戦場で剣を握る理由。それは王国のためだけではない。帰る場所を守るため。愛する人の待つ場所へ戻るため。そのことを、ローラは誰よりも理解していた。
数日後、王都へ届いた戦況報告の中に、第一騎士団がローラの作った薬によって多くの負傷兵を救ったという知らせが記されていた。その報告を読んだ瞬間、ローラの胸が熱くなる。自分の作ったものが、遠く離れた場所で誰かの命を繋いでいる。そして、その先にはカイルがいる。
「……カイル様…」
小さく呟いた声には、安堵と同時に切なさが滲んでいた。会いたい。声が聞きたい。 直接、無事な姿を確認したい。その願いを胸の奥へしまい込みながら、ローラは再び研究机へ向かった。いつか必ず、笑顔で再会するために。
一方、激戦と化した西方戦線の本拠地でも、カイルは夜空を見上げていた。手袋を外した指先には、ローラとお揃いの結婚指輪が輝いている。戦場の冷たい風の中でも、その光だけは不思議なほど温かく感じられた。
「……待っていてくれ、ローラ」
誰にも聞こえない小さな声で、カイルは呟く。
「必ず帰る」
それは王国最強の騎士としての誓いではなかった。ただ一人の男として、愛する女性へ届ける約束だった。離れていても、二人の心は決して離れることはない。長い冬の先に、再び互いの温もりを感じる日が来ることをカイルは信じていた。




