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第八話:事後処理と観察者たち

 朝食の時間が、3分遅れた。


 軟禁から2ヶ月と3日。マルタの配膳が遅れたのは初めてだった。

 7時ちょうどではなく、7時3分。

 ノックの回数は同じ3回。だが2回目と3回目の間隔が、いつもより0.2秒長い。


 扉が開いた。マルタの表情はいつも通り無感情だった。盆を置く手順も変わらない。スープは左、パンは右、果物は奥。


 だが——マルタの視線が、一瞬だけテーブルの上を走った。食器ナイフの位置を確認している。昨夜の位置と同じかどうかを。


 リリアはそれを見逃さなかった。


「マルタさん。おはようございます」

「おはようございます。お食事です」


 いつもの応答。だが声の音量が、普段より僅かに低い。マルタは盆を置き、一礼して扉に向かった。その足音が——昨日までと微かに違った。歩幅は同じ62センチ。速度も同じ毎秒1.1メートル。だが靴底の接地が、僅かに柔らかくなっている。


 足音を殺そうとしている。


 無意識かもしれない。だが20年間同じ足音で歩いてきた人間の歩行パターンが変わるということは、その人の中で何かが変わったということだ。


 マルタは、リリアの戦闘を見ていないはずだ。夜盗の侵入は深夜で、マルタの居室は2階の西側、勝手口からは最も遠い。だが翌朝、3人の夜盗が裏庭で処刑された。その前に、トビアスから報告を聞いているだろう。「客人が食器ナイフで3人を無力化した」と。


 足音が変わるには、それで十分だった。


 リリアはスープを口に運んだ。味は昨日と同じだ。だが自分を取り巻く空気が変わったことを、舌ではなく皮膚で感じていた。



 ◇◆◇◆◇



 その日の午後。

 庭に面した廊下で、トビアスと鉢合わせた。


 偶然ではない。トビアスが待っていた。廊下の窓際、リリアが日課の歩行訓練で通る時間帯に、さりげなく立っていた。さりげなさを装える程度には気を遣う男だが、隠すのは上手くない。目が泳いでいる。


「リリア殿。少し、よろしいですか?」

「はい」


 トビアスは言葉を探していた。3秒の沈黙。それから、できるだけ穏やかに聞こえるよう、声を作った。


「一昨日の夜のことですが……」

「はい」

「あの……3人を無力化された手際は、正直に申して、私の知る限りの軍の訓練では見たことがありません。護身術と仰いましたが、あれは——」


 言葉が途切れた。トビアスの目がリリアの手元に落ちる。右手。何も持っていない。だがあの夜、あの手が食器ナイフを握り、7秒で3人の意識を奪った。


 トビアスは善意の人間だ。リリアを「客人」として誠実に扱おうとしてきた。だが一昨夜以来、その善意の中に——小さな亀裂が走っている。


「少し、昔に護身術を」


 リリアは答えた。半分は本当だ。護身のために人を殺す技術を習った。


「護身術、ですか……?」


 トビアスは頷いた。納得はしていない。だがそれ以上踏み込む言葉を持っていなかった。


 代わりに、別のことを言った。


「リリア殿。あの夜、私が駆けつけた時——」

「はい」

「貴女は笑っておられた」


 リリアの呼吸が、一瞬止まった。


「3人の男が倒れている部屋で、貴女は微笑んでおられた。それが——」


 トビアスの声が途切れた。何と言えばいいか分からないのだ。「怖い」とも「おかしい」とも言えない。目の前にいるのは、自分が「客人」として敬意を払ってきた少女だ。だがあの夜の微笑みと、床に倒れた3人の組み合わせが——トビアスの中で、像を結ばない。


 リリアは答えなかった。


 メイドの微笑みは、10年間磨き上げた防壁だ。どんな状況でも笑顔を貼りつける。それが自分の仕事だった。だがあの夜、3人を倒した直後に浮かべた笑みが「仕事」だったのか「反射」だったのか、自分でも分からない。


 暗殺施設では、任務完了後に報告の微笑みを浮かべるよう訓練された。笑顔は「異常なし」のサインだ。完了報告。それが7秒の戦闘の後に自動的に発動した。


 だが、10年間のメイド生活では、微笑みは「安心してください」のサインだった。

 ヒカルが夜遅くまで作戦を練っている時、茶を差し出しながら浮かべる笑み。「大丈夫ですよ」と伝える笑み。


 同じ微笑みが、暗殺の完了報告にも、メイドの安心保証にも使われている。その2つが混ざった時、見る者に何が伝わるのか。


 トビアスに伝わったのは——矛盾だった。笑顔と、震える手と、倒れた3人の身体。


「何もございません。お気遣いありがとうございます」


 リリアはいつもの声で答えた。トビアスは頷き、それ以上は聞かなかった。だが廊下を去っていく彼の足音が、いつもより——少しだけ速かった。



 ◇◆◇◆◇



 金曜日。今週もカインの訪問の時間だ。


 今週は予定通り14時12分に到着した。先週の8分の遅れは解消されている。だが到着時の足取りが違った。速い。馬車から降りて門をくぐるまでの歩数が、先週より2歩少ない。歩幅が広がっている。何かを急いでいるのではない。高揚しているのだ。


 リリアは窓越しにそれを読み取った。


 15分後。カインが部屋に入った。いつもの椅子に座る。

 だが脚の組み方が違った。いつもは右足を上に組む。今日は左足が上だ。些細な変化。

 けれども——身体の重心が前に傾いている。前のめりだ。


「怪我の具合は?」

「もう問題ございません」

「不足しているものは?」

「ございません」


 いつもの問答を0.3秒速く片付け、カインが本題に入った。


「竜の国の情勢が動いている」


 リリアは顔を上げなかった。膝の上の手を組んだまま、カインの言葉を待った。


「『盟約軍』と名乗る反乱勢力が、古王の六征竜の1体と正面から交戦した。アイアン・ウォールという土属性の将だ。——結果は、盟約軍の勝利だ」


 リリアの指先が微かに動いた。膝の上で、誰にも見えない程度に。


「六征竜を倒すというのは並大抵のことではない。竜姫が少なくとも4人は合流している。炎、水、土、風。属性の異なる竜姫たちが連携してユニゾンという技を使ったらしい。そして——」


 カインの声が、僅かに変わった。苛立ちでも焦りでもない。もっと複雑な色。教壇に立つ教官が、卒業した弟子の活躍を聞いた時のような——認めたくないが認めざるを得ない、という響き。


「——その連携を指揮したのは、竜ではなかった。教団の偵察記録にある戦術パターンとの照合で、ほぼ間違いない」


 名前を言わなかった。だがリリアには言う必要がなかった。


 ヒカルだ! 間違いない!!


 4人の竜姫のユニゾンを指揮し、六征竜を倒した。犠牲を最小限に抑える戦術。敵の恐怖を読み、正面からぶつからずに勝つ。緑茶を6杯飲んで「分かった」と呟く、あの人の戦い方だ。


「古王を相手に、あの布陣を組めるのは1人しかいない。——お前も分かっているだろう」


 カインがリリアを見た。今日の目は、先週までと違っていた。「道具の品定め」ではない。もっと切迫した——標的を見る目に近い。


「ヒカルは竜の王になりつつある。人間でありながら竜を率い、古王の軍勢を破り始めた。——俺が10年かけて育てた才能が、竜の側で花開いている」


 声が低くなった。最後の一文に、嫉妬とも感嘆ともつかない熱が滲んだ。


 リリアは黙っていた。


 カインが椅子から身を乗り出した。


「リリア。お前の使い道が、そろそろ見えてきた」


 腹の底が冷えた。「使い道」。6週間前に曖昧だった言葉が、今日は輪郭を持ち始めている。カインの目に映っているのは、もうリリアという人間ではない。ヒカルに到達するための経路だ。


「今日はこれだけだ。来週、詳しく話す」


 カインが立ち上がり、扉に向かう。今日は「情報は対価だ」とは言わなかった。リリアに何かを差し出させる必要がなくなったからだ。カインの中で計算が進んでいる。リリアの位置づけが変わりつつある。


 足音が消えていく。





 リリアは椅子に座ったまま、両手を見下ろした。


 ヒカルは生きている。王になりつつある。竜の姫たちと共に、古王を相手に戦っている。

 あの優しい人が、あの断崖で全てを失った人が、遠い場所で立ち上がっている。


 喜ぶべきだ。——喜んでいる。確かに胸の奥が温かい。


 だが同時に、「使い道が見えてきた」というカインの言葉が、その温もりの上に冷たい影を落としていた。


 トビアスの足音が速くなった。マルタの足音が柔らかくなった。辺境伯は廊下で目を合わせなくなった。そしてカインは、自分の「使い道」を決めようとしている。


 食器ナイフで3人を倒した夜から、この館の全てが変わった。

 いや、変わったのは館ではない。

 館の住人たちが、リリアの中に「何か」を見たのだ。メイドの微笑みの裏に潜む、名前のない「何か」を。


 リリア自身もまだ、それに名前をつけられずにいた。


 窓の外で日が傾いていく。マルタの足音が階下で聞こえた。夕食の時間だ。規則正しく、だが昨日より僅かに柔らかい足音が、階段を上ってくる。


【第九話:お前と俺は同じだ につづく】


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